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その日は部活が禁止だった。なんでも、教員たちの研修があるらしい。
放課後、鞄の中身を詰めながら、俺はつらつら考えていた。
三島のことだ。部活がないとなれば、今日は三島とあまり接触できない。
本当は、ストレス付与実験のせいで三島の心が不安定な今、彼のフォローをしておきたかった。せっかくここまで来たのだから、逃げられるのは本意ではない。三島と会話しないことで、状況が悪くなるのは避けたかった。
(しょうがないな)
餌と健康状態を見ることを口実に声をかけて、せっかくだから帰り道にどこか誘うか。三島はファストフード店にまだ慣れていないから、連れて行ってあれこれ世話を焼いてやるのもいいかもしれない。そうしよう。
大股で歩み寄り、鞄を詰めている三島の前に座って、声をかける。
マウスの世話どうする、と聞けばちょっと寄る、と返ってきて、少しだけほっとした。とりあえず、全てを放り出して逃げるほどではないようだ。
三島の身支度を待ちながら、俺は机の上のタブレットを取る。表示されているのはゲーテのファウストだった。相変わらず異様に読むのが遅いが、それでも前よりはずいぶん進んでいる。
進んでんじゃん、と声をかけると、三島は頑張ってるから、というようなことを言った。
何気ない会話を流しながら、手慰みに参考書をめくる。相変わらず、ものすごい量の書き込みだった。
そこかしこにマーカーが引かれ、注釈を書くスペースが足りないのだろう、紙面にはびっちりと付箋や紙が貼り付けられている。
めくってもめくってもそれが続いていて、三島の予習はそうとう先まで進んでいるようだった。
(……いくらなんでも、異常だよな)
俺の言うことではないかもしれないが、三島の知識に関する執着は少しおかしい。
どうしてこいつは、ここまで必死になって、知識を頭に詰め込んでいるのだろう。
参考書の横、タブレットが目に留まった。
これの中にだって、ただの高校生が読むには難しすぎる本が、いくらでも入っている。
一冊の値段だって馬鹿にならない、中二病の格好つけで買うには高すぎる書籍たち。そのほとんどが読了済みなのも知っていた。
異常なほどの知識を詰め込んだ、傷まみれのタブレット。
母からもらったというそれに、かすかに眉根が寄った。
おそらく三島は、あまり家族に大切にされていない。
それどころか、あの様子を見ていると、他人から正しく大事にされたことなど、一生で一度もないのかもしれない。それなのに、三島はこんなものを後生大事にしているのだ。
なんだか──いたたまれなくなった。
思い浮かぶのは春先の光景だ。
うす青い空、西風とタンポポのにおいと、抱きしめられたやわらかな温度。
耳元で大切にささやかれた、今も俺を守り続けるあの言葉。
すっと視線を持ち上げた。目の前には、どう見ても愛されてなどいないのに、ぼろぼろのタブレットを買い換えられない男がいた。胸の奥が、少しだけじくりとする。
(俺はまだ──幸福だったんだろうか)
たったひとときでも、与えられることを知っていたのだから。三島と違って。
じわじわとした感情がしだいに胸の内側の色を変えていって、俺は三島から視線をそらす。
ぺらぺらと参考書をめくって、意味もなく間違いの指摘なんてしたりした。
俺の指摘にすごい、とばかりに目を丸くする三島へ、たまたま得意分野だったから、と言う。半分は本当で、半分は嘘だった。
昆虫に関する分野に強いのは本当だったが、正直高校の内容なら、得手不得手関係なくひととおりはさらっている。
ふと、三島が胸を押さえて目を伏せた。たまにやる仕草だった。俺はそっと彼を見つめる。
思ったよりまつげが長い。レンズで屈折した光を受けて、まつげの合間から見える瞳がほんのり光っていた。やっぱりこいつ、ちゃんと見ればそれなりにきれいな顔をしている。
俺はどうした、と三島の顔を覗き込んだ。たちまち三島ははっとして、勢いよく首を振る。
いや、とかなんとか吃りながら、昆虫ってなんの、と尋ねてきた。
一瞬だけ答えに迷った。
でもここで嘘をついてもしょうがないと判断して、俺は口を開く。
「蛾とか蝶。今もいちおう、プライベートで生体の観察してる」
「へえ……って、いつやってんの、そんなの」
「家で普通に。一部屋使って飼育して、記録取ったり」
言うと、三島はすごい、と目を丸くした。身を乗り出して、興味津々という顔つきだ。表情は無防備で、無警戒で──正直、ぞくっとした。そんな風に思う自分に、心底うんざりした。
ぱた、と手が勝手に参考書を閉じる。
くちびるが開かれて、気が付けば言葉が出ていた。
「……じゃあ、見にくるか?」
三島がえっ、と口を半開きにする。本当によくその顔をする男だ、と他人事のように思って、俺は淡々と『今日は両親がいないから』と彼女を家に連れこむときのような文言を口にした。三島がよければ、という退路を作ることも忘れなかった。
三島はあれこれと考え事をしていたようだが、小さく息を漏らすと、ためらうように俺を見た。
「い……行って、いいの」
「そりゃいいよ。だって俺が誘ってんだから」
「……うん」
三島がほっと息をつく。そのガードの緩すぎる顔を見ながら、俺は自分に問いかけていた。
(俺はどうして、こんなことを言ってるんだろう)
今日はファストフード店に誘う予定だった。
家になんか上げるつもりはなかった。
蝶を見せるなんてこと、一生、誰にもするつもりはなかった。
あの蝶は俺の中身に直結している。
誰にも見せてはならない、気配すら悟られてはいけないはずの、どろどろしたあの中身に。
飼育室になんて、誰も近付けない方がいいのに決まっている。それなのになぜ。
立入禁止の警告表示と同じ色、黄色と黒の翅が脳裏にちらつく。
三島の目が俺を見て、おずおずとまばたきを繰り返す。
ぞわぞわする感覚が嫌になって──俺は考えることを放棄した。
(これはきっとそう、好感度の調節だ)
ストレス付与実験で下がってしまった好感度を、もう一度持ち上げるための。そうに決まっている。
だってそれ以外に理由など、あるはずがないのだから。
俺は完璧な顔で笑うと、おまえの好きそうなもん色々見せてやるよ、と軽い口調を作った。
三島は嬉しそうに頷くと、最後に鞄のジッパーをジッ、と閉じた。




