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【完結・BL】転校生に学年トップを奪われたから弱みを握ろうと友達のフリして近付いたらとんでもない修羅場が待っていた  作者: Ru
【中編 / 02】 境界を保つための

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 かち、とボタンを押すと、鋭い悲鳴が上がった。

 指先がボタンを押し込み、奥でスイッチが噛み合う感触。通電の衝撃で暴れるマウス、揺れるケージ。漏れ出した糞尿の臭い。

 

 ちっぽけなボタンを押すたびに、どろどろと俺を汚すものが、ゆっくりと拭い去られていく。快い感覚に身を任せて、俺は何度もボタンを押し込み続けた。かちかちと指先が鳴った。

 

 あの雷鳴の次の日、俺はまったくいつも通りの顔で過ごしていた。

 ほとんど自動思考のオートモードで行動して、染み付いた完璧な人格は、俺の意思とは関係なく機能してくれた。

 

 教室にいても生物室にいても、誰と一緒に喋っていても。意識が外界から隔絶されたようだった。

 俺の外側は勝手に完璧を装ってくれて、中身は誰にも触られることはない。邪魔のひとつも入らなかった。

 

 世界と自分の間に膜が一枚張ったように感じられる。膜の内側に充満しているのはあの〝現象〟だ。凶暴で獰猛な衝動を一方的に連れてくる、無慈悲と理不尽と不条理と、そして誘惑の象徴みたいな。

 

 思うままにボタンを押して、現象の真ん中に身を委ねるのは、楽だったし気持ちがよかった。ずっと我慢していた濁ったものが、いちばん綺麗な形で昇華していくようだった。頭の中が澄んでいた。

 

(──……すっきりする)


 自分を戒めるものを緩めるというのは、こんなにも楽なことなのか。普通の人間は、これだけ楽に呼吸ができるのか。本当にすっきりしていた。

 

 こんなことなら、もっと前からこうしていればよかった。俺を縛る、にがくて苦しいものなんて、なにもかも忘れてしまいたい。

 

 ほとんど没頭するようにボタンを押し込んだ、そのとき──がたっ、とひときわ大きな音がした。

 

 マウスじゃなかった。背後だ。

 俺はとっさに振り向いて、三島が立ち尽くしているのに気が付く。

 

 視線が交わる。その瞳は震えるように見開かれ、呆然とした、恐れとも驚愕ともつかぬ表情で俺を見つめていて──俺はようやく、今日一日、自分がなにに身を任せようとしていたのかを自覚した。

 気付いて、愕然とした。

 

(俺、は──……)


 あ、とくちびるが開きかける。すぐ傍から、マウスの弱々しい鳴き声が聞こえる。三島はまだ俺を見つめている。

 あの、ときどき俺の前に晒される、名前のつけられない宝石みたいな不思議な色の瞳が、硝子レンズ越しに不安定に揺れていた。

 

 自分というものが、〝向こう〟から戻ってきた。引っ張られるようにこちら側に引き戻される。

 それでも俺のどこか一部は未練たらしくあちら側を望んでいて、欲望や衝動を飲み込もうとするあの現象、どろどろと渦を巻く腹の底が、ひどく熱い。

 

 心のなかで声がする。

 戻らなくていい。もう少しだけこっちにいたい。

 もっと、もう少し、あとちょっとでいいから。

 そしたら気が済むから。

 

 現象の真ん中で叫ぶものを、それは駄目だと否定した。〝気が済む〟というのがどういうことを意味するのかなんて、俺は正しくわかっていた。絶対にあってはならないことだった。

 

 一度だけ、ことさらゆっくりとまばたきをして。誠実っぽい苦笑を作ったのは、ほとんど反射的な行為だった。

 現象に蓋をして、封じ込めて、せめて反省と気遣いを頬に貼り付けて、俺は笑う。

 

「……悪い。こんなもの、見せて」

「あ──い、いや、うん……」


 身体ごと三島に向き直った。通電ケージを、その中のマウスを見ていたくなかった。

 

 わずかに沈黙が流れる。対照群のマウスが餌を食む平和な音。平和じゃない方のマウスがどうしているのか、今は見たくない。また戻ってしまいそうになるからだ。

 

 俺はゆっくりと呼吸をして、自らを整えた。なんでもないそぶり、いつも通りの完璧を作って、苦笑の形を維持する。

 

 目の前の三島をどうやってなだめたものか、考えた。

 三島は明らかに実験に驚き、嫌悪と恐怖を抱いている。だがここで逃げ出されてしまっては、今までの苦労が水の泡だ。

 じゃあどうするか。そう思うものの、今は複雑なことをあれこれ考えたい気分ではなかった。

 

 ……とりあえず彼女扱いみたいな感じで、どっかそれっぽく触っとくか。そんな、ものすごく雑な結論を下しかけたとき。

 

 三島がぎゅっと胸元を握りしめて、言った。

 

「お……俺、最初に、言ったから。大丈夫だって。だから……平気」


(えっ)


 消え入りそうな語尾を聞き届け、俺はわずかに驚いた。三島のことだ、もっと弱気なことを言うかと思っていたからだ。

『最初に大丈夫って言ったから』、それはたぶん、入部時のことだろう。


(へえ……思ったより根性あるんだな、こいつ)


 本当に意外だ。

 三島は悲痛な顔を上げると、目元をきっと険しくして、震える声を絞り出した。

 

「お、お……俺もやる」

「いいよ」


 即答する。三島のことだ、どうせ俺一人にこんなことをさせるのは悪いとか、そんなことを考えたんだろうけど。勘違いの気遣いで、こんな悲痛な顔をされてはたまらない。

 でもとかだってとか言う三島を封じるように、しなくていい、大丈夫と言葉を重ねた。

 

(……バカな男)


 かわいそうな、愚かな三島。きっと俺が研究のため、泣く泣く汚れ仕事をやっていると思っているのだろう。

 完全な見当違い、ひどい善良な思い込みに、俺はかすかに笑う。

 

「これはほら、俺の実験だから。三島も、早く研究テーマ決めな。俺と遊んでばっかりだと、在学中に論文出せないぞ」

「……うん」


 蚊の鳴くような声だった。ぞわ、となにかがこみ上げそうになる。本当にこの男は、他人の加害を誘うのがうまい。

 

 なんとか己を制御して、俺は椅子を離れて三島のそばに立った。軽く肩に手を乗せる。てのひらの下で、ぴく、と三島が反応した。やっぱりこいつは、身体接触に弱い。

 

「じゃあ、そうだな。対照群の世話、頼めるか」


 三島がほっとしたように頷いた。本当にたやすい男だ。彼はそのまま、もたもたと平常マウスの世話を始めた。

 

 どうせ、他にさほどすることもない。三島の研究方針はまるで固まっていなかったし、そもそもこいつは生物に興味がなかった。

 三島にとって生研部は、俺と親交を深めるためだけの部活動だ。それは俺にとっても都合がいい。

 

 だからこそ、怯えて逃げられては困るのだ。

 俺は適当な言葉で三島をなだめた。あまり正面から見なくていい、というようなことを言い含め、俺はマウスに向き直る。

 

 怯えを宿らせ、不安げに辺りを見回すマウスたちを見下ろして、ぞく、と背筋になにかが走った。興奮と紙一重の自己嫌悪で、うんざりした。

 

 ……今日の明け方、哺乳類に手を出そうと決めた、あのときから。この一日、完全に〝現象〟の言いなりで動いていた。

 最悪だった。あと少し、引き戻されるのが遅ければ、本気であちら側に行ってしまっていたかもしれない。

 

(戻ってこられて、よかった……)


 それでも、実験は開始されてしまった。今さら止めることはできない。スケジュールにしたがって、俺はボタンを押さなければならなかった。

 

 かち、かち、とボタンを押し込むたび、マウスの悲鳴が上がる。なにかどろついたものが、ゆっくりと綺麗にされていくのがわかる。

 こんな風になりたくはなかったのに、現象は本当に理不尽で、不条理だ。気持ちよさと嫌悪感がほとんど同時に俺を乱した。

 

 それから、実験をずっと続けていたい感情をごまかすため、俺はあらゆる気の逸らし方を試した。

 対照群のマウスを飼育室に戻したり、三島に気遣いの言葉をかけたり、トイレに立つとか飲み物を飲むとか、なんでも。そうでもしなければ、また没頭してしまいそうな自分がいて、怖かった。

 

 部活動中、三島の表情はずっと凍りついていた。

 このままじゃ退部されるかなと思って、機嫌のとり方を考える。声をかけたり笑みを見せたり、ありったけの気遣いを向けて、それでも三島の表情は晴れなかった。

 

 それはそうだろう。むごたらしい動物実験なんて、ただの高校生が、そう目にするものでもない。表情が凍るのも無理からぬことだった。

 

 ボタンを押しつつ三島をなだめながら時間が過ぎて、ようやく部活の時間が終わる。ストレスマウスの固定処置と片付けを終え、俺は三島と生物室から出ようとした。

 

 打ち沈んだ表情、うつむいたそこに向かって、俺はご機嫌取りの言葉をかけ続ける。けれど三島の憂鬱が晴れる気配はない。ため息をこらえた。

 

(しょうがない、もうちょっと強く押すか……)


 誠実な顔でしおらしい謝罪でも述べれば、多少は三島も気が済むかもしれない。そう思って口を開き、ごめん、と言おうとしたとき。

 

「だ……っ、大丈夫ッ!!」


 耳に刺さるような、ものすごく素頓狂な、裏返った声がした。

 目を丸くする。三島がこんな大声を出したのは初めてだった。

 

 きっと顔を上げ、レンズ越し、意を決したような瞳が俺をまっすぐ見据えている。子供みたいに心臓の上を両手で押さえた三島は、大丈夫、とたどたどしく連呼した。

 

「俺、最初に言った。こういうことする部だけど、それでも大丈夫って。い、言った……!」

「…………」


(……いや、)


 俺は目を丸くして、口を半開きにして、なにを言ってるんだこいつは、と思った。

 

 あんなの、たったひとこと、入部のときに言っただけの言葉だ。俺の弱みをなんとしても握りたくて、入部の許可がほしい一心で放っただけの、いくら無責任にしたって構わない言葉だ。

 それなのに。

 

(……あんなくだらない一言に、こいつは操を立てるのか)


 信じられないほど律儀で、バカで、でも──間違いなく、誠実だった。なんだそれと思った。

 

 肩の力が、勝手に抜けるのを感じる。

 そっか、と小さな声が漏れた。なぜか三島も表情を緩めた。

 

 気の抜けたまま、うまく言えない気持ちで、じゃあ帰るか、と誘う。三島がうん、とかすかに微笑むのを、俺は見つめた。どことなく、安心したような顔だった。

 

 なぜだろう、うまく言えないかすかな情、みたいなものが、じわじわと底の方に湧いてくる。

 

 なんとなく、意味もなく三島の鞄を取った。教科書も参考書もノートも全部持って帰る三島の鞄はひどく重くて、あんな痩せた身体でこんなの持つもんじゃない、と思った。ドアに向かう。

 

「か、鞄、いいって」


 背後から、ぱたぱたと追ってくる三島の足音。なんだか妙な安心感。理由は知らない。わからない。

 ただ、俺は少しだけ息を吸うと、三島のほうを振り返らないまま、

 

「……ありがとな。三島」


 ほんのひとかけらだけの本心を混ぜて、とても小さく礼を言った。

 

 三島は返事をしなかった。でもきっと、三島は俺の感謝を拒絶なんてしないんだろうなと思った。

 

 結局俺は、三島の鞄を駅まで持ち続けた。

 信じられないほどずっしりした鞄を返すとき、細い肩にストラップが食い込むのがわかって、どことなく哀れになる。

 案の定鞄の重みで三島はかすかによろめいて、俺はとっさにそれを支えた。

 

「あ……ありがとう」

「いいって」


 ためらうような礼を流して、俺はいつも通りの完璧を装う。ぱらぱらと人の並ぶホームで、バカみたいな話や興味深い生物の話、たまに物理の話とかをひたすら重ねた。

 

 その勢いのまま電車に揺られて、俺は橙に染まった車内で西日を受けて光る三島の瞳を、ずっと見つめていた。不思議な気持ちだった。

 

 律儀で、誠実で、単純で。そのくせ愚かで、卑怯でずるくて、俺を猫殺しと罵った、天敵みたいな最低の男。

 

 レンズ越しに俺を見上げる眼差しは、相変わらず危なっかしい、不思議な色をしていた。でもあのときの、宝石みたいだと思う瞬間はついぞ訪れなかった。

 

 なんとなくもったいない気持ちになって、それをすぐさま否定する。

 感情を振り切って完璧に笑って、取り留めのない話ばかりを繰り返して。俺は三島より数駅前で電車を降りた。



 

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