53
かち、とボタンを押すと、鋭い悲鳴が上がった。
指先がボタンを押し込み、奥でスイッチが噛み合う感触。通電の衝撃で暴れるマウス、揺れるケージ。漏れ出した糞尿の臭い。
ちっぽけなボタンを押すたびに、どろどろと俺を汚すものが、ゆっくりと拭い去られていく。快い感覚に身を任せて、俺は何度もボタンを押し込み続けた。かちかちと指先が鳴った。
あの雷鳴の次の日、俺はまったくいつも通りの顔で過ごしていた。
ほとんど自動思考のオートモードで行動して、染み付いた完璧な人格は、俺の意思とは関係なく機能してくれた。
教室にいても生物室にいても、誰と一緒に喋っていても。意識が外界から隔絶されたようだった。
俺の外側は勝手に完璧を装ってくれて、中身は誰にも触られることはない。邪魔のひとつも入らなかった。
世界と自分の間に膜が一枚張ったように感じられる。膜の内側に充満しているのはあの〝現象〟だ。凶暴で獰猛な衝動を一方的に連れてくる、無慈悲と理不尽と不条理と、そして誘惑の象徴みたいな。
思うままにボタンを押して、現象の真ん中に身を委ねるのは、楽だったし気持ちがよかった。ずっと我慢していた濁ったものが、いちばん綺麗な形で昇華していくようだった。頭の中が澄んでいた。
(──……すっきりする)
自分を戒めるものを緩めるというのは、こんなにも楽なことなのか。普通の人間は、これだけ楽に呼吸ができるのか。本当にすっきりしていた。
こんなことなら、もっと前からこうしていればよかった。俺を縛る、にがくて苦しいものなんて、なにもかも忘れてしまいたい。
ほとんど没頭するようにボタンを押し込んだ、そのとき──がたっ、とひときわ大きな音がした。
マウスじゃなかった。背後だ。
俺はとっさに振り向いて、三島が立ち尽くしているのに気が付く。
視線が交わる。その瞳は震えるように見開かれ、呆然とした、恐れとも驚愕ともつかぬ表情で俺を見つめていて──俺はようやく、今日一日、自分がなにに身を任せようとしていたのかを自覚した。
気付いて、愕然とした。
(俺、は──……)
あ、とくちびるが開きかける。すぐ傍から、マウスの弱々しい鳴き声が聞こえる。三島はまだ俺を見つめている。
あの、ときどき俺の前に晒される、名前のつけられない宝石みたいな不思議な色の瞳が、硝子レンズ越しに不安定に揺れていた。
自分というものが、〝向こう〟から戻ってきた。引っ張られるようにこちら側に引き戻される。
それでも俺のどこか一部は未練たらしくあちら側を望んでいて、欲望や衝動を飲み込もうとするあの現象、どろどろと渦を巻く腹の底が、ひどく熱い。
心のなかで声がする。
戻らなくていい。もう少しだけこっちにいたい。
もっと、もう少し、あとちょっとでいいから。
そしたら気が済むから。
現象の真ん中で叫ぶものを、それは駄目だと否定した。〝気が済む〟というのがどういうことを意味するのかなんて、俺は正しくわかっていた。絶対にあってはならないことだった。
一度だけ、ことさらゆっくりとまばたきをして。誠実っぽい苦笑を作ったのは、ほとんど反射的な行為だった。
現象に蓋をして、封じ込めて、せめて反省と気遣いを頬に貼り付けて、俺は笑う。
「……悪い。こんなもの、見せて」
「あ──い、いや、うん……」
身体ごと三島に向き直った。通電ケージを、その中のマウスを見ていたくなかった。
わずかに沈黙が流れる。対照群のマウスが餌を食む平和な音。平和じゃない方のマウスがどうしているのか、今は見たくない。また戻ってしまいそうになるからだ。
俺はゆっくりと呼吸をして、自らを整えた。なんでもないそぶり、いつも通りの完璧を作って、苦笑の形を維持する。
目の前の三島をどうやってなだめたものか、考えた。
三島は明らかに実験に驚き、嫌悪と恐怖を抱いている。だがここで逃げ出されてしまっては、今までの苦労が水の泡だ。
じゃあどうするか。そう思うものの、今は複雑なことをあれこれ考えたい気分ではなかった。
……とりあえず彼女扱いみたいな感じで、どっかそれっぽく触っとくか。そんな、ものすごく雑な結論を下しかけたとき。
三島がぎゅっと胸元を握りしめて、言った。
「お……俺、最初に、言ったから。大丈夫だって。だから……平気」
(えっ)
消え入りそうな語尾を聞き届け、俺はわずかに驚いた。三島のことだ、もっと弱気なことを言うかと思っていたからだ。
『最初に大丈夫って言ったから』、それはたぶん、入部時のことだろう。
(へえ……思ったより根性あるんだな、こいつ)
本当に意外だ。
三島は悲痛な顔を上げると、目元をきっと険しくして、震える声を絞り出した。
「お、お……俺もやる」
「いいよ」
即答する。三島のことだ、どうせ俺一人にこんなことをさせるのは悪いとか、そんなことを考えたんだろうけど。勘違いの気遣いで、こんな悲痛な顔をされてはたまらない。
でもとかだってとか言う三島を封じるように、しなくていい、大丈夫と言葉を重ねた。
(……バカな男)
かわいそうな、愚かな三島。きっと俺が研究のため、泣く泣く汚れ仕事をやっていると思っているのだろう。
完全な見当違い、ひどい善良な思い込みに、俺はかすかに笑う。
「これはほら、俺の実験だから。三島も、早く研究テーマ決めな。俺と遊んでばっかりだと、在学中に論文出せないぞ」
「……うん」
蚊の鳴くような声だった。ぞわ、となにかがこみ上げそうになる。本当にこの男は、他人の加害を誘うのがうまい。
なんとか己を制御して、俺は椅子を離れて三島のそばに立った。軽く肩に手を乗せる。てのひらの下で、ぴく、と三島が反応した。やっぱりこいつは、身体接触に弱い。
「じゃあ、そうだな。対照群の世話、頼めるか」
三島がほっとしたように頷いた。本当にたやすい男だ。彼はそのまま、もたもたと平常マウスの世話を始めた。
どうせ、他にさほどすることもない。三島の研究方針はまるで固まっていなかったし、そもそもこいつは生物に興味がなかった。
三島にとって生研部は、俺と親交を深めるためだけの部活動だ。それは俺にとっても都合がいい。
だからこそ、怯えて逃げられては困るのだ。
俺は適当な言葉で三島をなだめた。あまり正面から見なくていい、というようなことを言い含め、俺はマウスに向き直る。
怯えを宿らせ、不安げに辺りを見回すマウスたちを見下ろして、ぞく、と背筋になにかが走った。興奮と紙一重の自己嫌悪で、うんざりした。
……今日の明け方、哺乳類に手を出そうと決めた、あのときから。この一日、完全に〝現象〟の言いなりで動いていた。
最悪だった。あと少し、引き戻されるのが遅ければ、本気であちら側に行ってしまっていたかもしれない。
(戻ってこられて、よかった……)
それでも、実験は開始されてしまった。今さら止めることはできない。スケジュールにしたがって、俺はボタンを押さなければならなかった。
かち、かち、とボタンを押し込むたび、マウスの悲鳴が上がる。なにかどろついたものが、ゆっくりと綺麗にされていくのがわかる。
こんな風になりたくはなかったのに、現象は本当に理不尽で、不条理だ。気持ちよさと嫌悪感がほとんど同時に俺を乱した。
それから、実験をずっと続けていたい感情をごまかすため、俺はあらゆる気の逸らし方を試した。
対照群のマウスを飼育室に戻したり、三島に気遣いの言葉をかけたり、トイレに立つとか飲み物を飲むとか、なんでも。そうでもしなければ、また没頭してしまいそうな自分がいて、怖かった。
部活動中、三島の表情はずっと凍りついていた。
このままじゃ退部されるかなと思って、機嫌のとり方を考える。声をかけたり笑みを見せたり、ありったけの気遣いを向けて、それでも三島の表情は晴れなかった。
それはそうだろう。むごたらしい動物実験なんて、ただの高校生が、そう目にするものでもない。表情が凍るのも無理からぬことだった。
ボタンを押しつつ三島をなだめながら時間が過ぎて、ようやく部活の時間が終わる。ストレスマウスの固定処置と片付けを終え、俺は三島と生物室から出ようとした。
打ち沈んだ表情、うつむいたそこに向かって、俺はご機嫌取りの言葉をかけ続ける。けれど三島の憂鬱が晴れる気配はない。ため息をこらえた。
(しょうがない、もうちょっと強く押すか……)
誠実な顔でしおらしい謝罪でも述べれば、多少は三島も気が済むかもしれない。そう思って口を開き、ごめん、と言おうとしたとき。
「だ……っ、大丈夫ッ!!」
耳に刺さるような、ものすごく素頓狂な、裏返った声がした。
目を丸くする。三島がこんな大声を出したのは初めてだった。
きっと顔を上げ、レンズ越し、意を決したような瞳が俺をまっすぐ見据えている。子供みたいに心臓の上を両手で押さえた三島は、大丈夫、とたどたどしく連呼した。
「俺、最初に言った。こういうことする部だけど、それでも大丈夫って。い、言った……!」
「…………」
(……いや、)
俺は目を丸くして、口を半開きにして、なにを言ってるんだこいつは、と思った。
あんなの、たったひとこと、入部のときに言っただけの言葉だ。俺の弱みをなんとしても握りたくて、入部の許可がほしい一心で放っただけの、いくら無責任にしたって構わない言葉だ。
それなのに。
(……あんなくだらない一言に、こいつは操を立てるのか)
信じられないほど律儀で、バカで、でも──間違いなく、誠実だった。なんだそれと思った。
肩の力が、勝手に抜けるのを感じる。
そっか、と小さな声が漏れた。なぜか三島も表情を緩めた。
気の抜けたまま、うまく言えない気持ちで、じゃあ帰るか、と誘う。三島がうん、とかすかに微笑むのを、俺は見つめた。どことなく、安心したような顔だった。
なぜだろう、うまく言えないかすかな情、みたいなものが、じわじわと底の方に湧いてくる。
なんとなく、意味もなく三島の鞄を取った。教科書も参考書もノートも全部持って帰る三島の鞄はひどく重くて、あんな痩せた身体でこんなの持つもんじゃない、と思った。ドアに向かう。
「か、鞄、いいって」
背後から、ぱたぱたと追ってくる三島の足音。なんだか妙な安心感。理由は知らない。わからない。
ただ、俺は少しだけ息を吸うと、三島のほうを振り返らないまま、
「……ありがとな。三島」
ほんのひとかけらだけの本心を混ぜて、とても小さく礼を言った。
三島は返事をしなかった。でもきっと、三島は俺の感謝を拒絶なんてしないんだろうなと思った。
結局俺は、三島の鞄を駅まで持ち続けた。
信じられないほどずっしりした鞄を返すとき、細い肩にストラップが食い込むのがわかって、どことなく哀れになる。
案の定鞄の重みで三島はかすかによろめいて、俺はとっさにそれを支えた。
「あ……ありがとう」
「いいって」
ためらうような礼を流して、俺はいつも通りの完璧を装う。ぱらぱらと人の並ぶホームで、バカみたいな話や興味深い生物の話、たまに物理の話とかをひたすら重ねた。
その勢いのまま電車に揺られて、俺は橙に染まった車内で西日を受けて光る三島の瞳を、ずっと見つめていた。不思議な気持ちだった。
律儀で、誠実で、単純で。そのくせ愚かで、卑怯でずるくて、俺を猫殺しと罵った、天敵みたいな最低の男。
レンズ越しに俺を見上げる眼差しは、相変わらず危なっかしい、不思議な色をしていた。でもあのときの、宝石みたいだと思う瞬間はついぞ訪れなかった。
なんとなくもったいない気持ちになって、それをすぐさま否定する。
感情を振り切って完璧に笑って、取り留めのない話ばかりを繰り返して。俺は三島より数駅前で電車を降りた。




