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【完結・BL】転校生に学年トップを奪われたから弱みを握ろうと友達のフリして近付いたらとんでもない修羅場が待っていた  作者: Ru
【中編 / 01】 一人目のファウスト

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 かた、と解剖バサミを置いた。

 目の前に、ばらばらになったマウスが数匹。臓器は各器官ごとに分類され、わかりやすいように広げられていた。

 

 ざっと全体を確認して、観測に必要な部位とそうでないところを分ける。不要なところを処分用の袋に入れた。残ったのは脳と脊髄、神経などだ。

 

 小さく息を吐く。ついさっきまでの熱情の残滓が抜けない。

 指先に、まだハサミが肉に食い込む感触が残っている。

 

 血まみれのゴム手袋をぱちんと外した。手がかすかに震えている。

 それが興奮によるものなのか、それとも、あの熱情とほとんど同時に訪れる、恐ろしく冷たい、静かで、落ち着いた感情のせいなのか。答えはわからなかった。

 

 手を洗って、器具を片付ける。から、と窓を開けて、血や薬品のにおいを外に追いやった。換気扇は十二分に回していたものの、それでもなんとなく、窓を開けたかった。

 

 ふーっ、と息を吐いて、椅子に座り込む。かた、と小さな音。

 遠くで部活動の掛け声が聞こえてくる。静かだった。

 目を閉じる。頬を風が撫でていく、心地いい感触があった。

 

(……すっきりした)


 こんなことを思いたくはないのに、思ってしまう自分がいる。

 

 さっきまで行われた解剖の光景が、ちらちらとまぶたの裏をよぎっていく。

 そのたびに、身体の奥で疼いているどろついた膿みたいなものが、すうっときれいに拭われていくような感覚があった。心地よかった。

 

 うっすらと目を開く。生物室の簡素な天井で、蛍光灯が光っている。

 

 どろどろしたものが拭い去られ、すうっとした爽快感と静謐を噛み締める。

 けれどほとんど同時に、ひどい自己嫌悪と罪悪感がやってきた。うんざりと目を細めた。

 

「……また、かよ」


 せっかく、近隣の施設からマウスを回してもらったのに。四匹も潰してしまった。実験の予定が丸潰れだ。また最初からスケジュールを作り直さなければならない。ため息をつく。

 

 さっき職員室に提出した、解剖と麻酔の使用理由はきちんとしたものだった。

 でもそれは完全にただの建前で、ありったけの言い訳とごまかしに満ちていて、言ってしまえば身勝手な嘘以外の何物でもなかった。

 

 俺はただあのハサミを握りたかっただけ、身の内を満たすどろどろした汚いものを一方的に食い荒らしたがる、あの〝現象〟に流されただけだ。

 

 ひどい嫌悪感と、みじめさに似た感覚が俺を苦々しくさせる。

 立ち上がって、窓を閉めた。椅子に戻って、ぼうっと窓の外、空を眺める。後悔が胸を満たした。

 

 せっかく、しばらく大丈夫だったのに。

 契約に従って、完璧な人間をやれていたのに。

 蝶だって一匹も殺さなかったのに。

 本当に、三者面談なんてろくなものじゃない。うんざりする。

 

 自己嫌悪で苛々している自分がいて、それでも、腹の底は不思議とすっきりしている。

 俺の中をさんざん食い荒らしていったあの〝現象〟が、ようやく満足したのだろう。

 

「……っあー……くそッ」


 人前では滅多に言わない言葉遣いを放って、がしがしと頭をかきむしる。

 本当に、うんざりしていた。もう今日はさっさと帰った方がいいかもしれない。そう思ったとき。

 

 ──とんとんとん、と控えめなノックが聞こえた。

 反射的に腰を上げる。

 

「……はい」


 一瞬だけ遅れて、低く返事をする。俺は姿勢を正して、せいぜいまっとうな自分を作った。先生か、友人の誰かか。

 

 しかし、からりとドアを開けて現れたのは予想外の人物だった。

 

 伸ばしっぱなしの黒髪、まだ少年と呼ぶべき痩せた身体つき。

 おずおずとこちらを見上げてくるのは、眼鏡のレンズ越しに見える控えめな瞳だ。

 三島凪。

 

 俺はさっと視線を走らせて、彼が胸に抱いている紙を見て、だいたいのことを察した。

 

 一瞬で表情と心を整え、どうしたんだよ、と笑いかける。

 三島は一度下を向いて、顔を上げて、また下を向いた。前髪の下から、消え入りそうな声。

 

「あ、あの、俺……入部、したい、んだけど……」

「──入部?」


 こくんと頷く。子供みたいな仕草だった。

 なんというかこの男、どことなく危なっかしい感じがある。それが具体的にどんな風なのかはわからないが。

 

 俺はふうん、と三島から紙を取り上げた。あっ、とつぶやく三島と視線が合いそうになる。

 しかし彼はすぐに目を逸らしてしまった。挙動不審だ。

 

(……ったく。そう来るかよ)


 さらっと視線を走らせ、入部届を確認する。几帳面だが小さすぎる字で書かれたそれを眺めながら、心のうちで舌打ちした。

 

 どうせこいつは、下心があって近付いてきたのだろう。

 あのときの、俺の机を蹴り飛ばし、涙ぐんでいた姿が蘇る。少なくともあの様子じゃ、俺に好意的な感情があるとはとても思えない。

 あとは俺への嫌悪を凌駕するほど生物学に興味がある、という可能性だが──

 

(ああ……これは、ないな)


 見やった先、三島は表情を凍りつかせていた。視線の先にはさっき解剖したマウスの一部。

 

 なんとなく、自分の醜い場所を見られているようで不快だ。

 俺はさりげなく身体でそれを遮ると、三島の意識がこちらに向くよう、軽く靴の裏を床で鳴らした。

 

 ごく小さな音に反応してか、三島の視線が戻ってくる。

 びくっ、と身体を引きつらせ、たじろいだような瞳が硝子越しに俺を見る。

 

(なんか……なんだろう)


 顔立ちが中性的で、それなりにきれいだからだろうか。この男の瞳は、なんだか不思議な感じがする。

 

 うまく正体の掴めない色の、名前のつけられない、危なっかしい気配を宿した瞳。なにか予感のようなものを感じて、俺は薄く目を細めた。

 

「な、なに……」


 その瞳がまばたいて、怯えたような声がした。俺は気持ちを切り替えて、いや、と言う。

 

「うち、こういうこともする部だけど。三島は大丈夫かと思って」


 そっと身体をずらして、わざとマウスの臓器を見せた。

 たちまち三島は表情を硬くする。わかりやすい。

 

 どうせならこのまま追い返せないかな、と考えていると、三島が喉の奥でよくわからないうめき声を上げた。う、とかあ、とかそういうやつだ。

 

「う……だ、──……」

「え? なんて」


 あまりにも声が小さすぎて聞き取れない。

 思わず耳を寄せると、すぐそばで三島が思い切り息を呑む音がした。反応が過剰すぎないかこいつ。

 

 ああでも、あんな顔立ちをしておいて教室での存在感がゼロどころかマイナス、その上おそらく部活もやっていないとなると、普段からコミュニケーションを取る相手などいないのだろう。人と距離を縮めるのが苦手なのも頷ける。

 

(ふうん……)


 淡く目を細めて考えていると、ぐいと胸元を押しやられた。

 きっ、と三島が顔を上げ、前髪が隠していた顔があらわになる。やっぱりそこそこ整っている。

 赤くなった目元が鋭さを宿して、彼はひっくり返った声を上げた。

 

「……っ、大丈夫だから!」

「あ、そう」


 どう見ても大丈夫じゃないくせに、強がりを言う。とはいえここで突っ込んでもしょうがないので、俺はあっさり引き下がった。

 

 さっき抜き取った入部届を机に置き、淡々と彼を見下ろす。どうして生研部に、と尋ねた。案の定、三島は面白いようにうろたえだす。

 

「え……な、なんでそんなん聞くんだよ」

「良く知ってたな、と思って。うちの存在」


 どうせ自分の研究さえできればいい、ついでに賞をいくらか取っておいて、父の前に差し出してご機嫌取りでもできればいい。それだけの部活だったから、人に伝えることなんてほとんどしていなかったのだ。

 

 それに、俺の〝研究〟は半ば私情が混じっている。

 精神の異常性の形質的な影響、とくに遺伝について調べられないか、というのもあるけれど。

 理由さえあれば、生き物を解体してもいい──どちらかといえば、そんな理由で続けている部活だ。宣伝などもってのほかだった。

 

 冷静な視線で見つめていると、耐えかねたらしい、三島の視線がふらふらと、よろめくように逸らされた。これはずいぶん、本格的かつ重症のコミュ障だ。

 

 彼は何度も吃りながら、消え入りそうな声で志望動機を話し始めた。

 三島の言葉は句読点の場所はおかしいし、ときどき聞こえないし、主語と述語が入れ替わったり支離滅裂だったりしたが、正直どうでもよかった。

 

(この感じだと、まあ……取り入りに来たっていうより、付け込みにきたんだろうな)


 俺に敵意を持つ人間の取る行動にはだいたい二種類あって、圧倒的な差の前に諦めて、おこぼれをもらおうと取り入りに来るタイプと、反発心から近付いて、弱みを握って付け込もうとするタイプのどちらかだ。この男はどうやら後者らしい。

 

(バカだな……どう見ても向いてねえだろ、おまえ)


 しどろもどろになりながら言葉を捻り出す姿を見て、いっそ憐憫に近い感情が浮かぶ。

 

 机を蹴り飛ばして数日で入部に来るあたり、あまりにもわかりやすいし、志望動機もめちゃくちゃだ。この口ぶりじゃむしろこいつ、生物あんまり好きじゃないだろ。

 

 どうでもいいや、とばかりに聞き流していると、とうとう言葉が尽きたらしい。三島の語尾はごにょごにょと紛れて、思い切り中途半端なところで消えていった。

 それきり、うう、と下を向いてしまう。本当に重症だ。こんなんでこいつ、これから先どうやって社会に出ていくつもりなのか。

 

 すっかり黙り込んでしまった姿を見下ろす。

 三島はべつに小柄というわけでもない。俺よりはさすがに低いが、身長だって人並みくらいだ。

 

 でも、痩せているせいだろうか。実際よりずいぶん小さく、頼りなく見える。無害どころか、むしろ加害を誘うような風貌だ。

 

 そう思って、うっすらと目が細くなる。

 腹の底に眠るものが動きそうになるのを、手を握ってぐっと堪えた。ふと友人たちの中傷が思い出された。陰で虫を捻り潰していそうな。違う、と強烈に思う。

 

(こいつは──俺と違う)


 三島は虫を殺さない。俺に対してだって、直接的な攻撃方法は絶対に取ってこない。それがはっきりわかる。

 

 こんな奴、大したことない、いっそ敵でもなんでもない。

 ただの小物だ。俺を猫殺し呼ばわりした最低の男だ。

 

 痩せっぽちの身体、レンズの奥の危なっかしい、不思議な色の瞳。

 俺と出会うまで他人への敵意なんてひとかけらも知ったことはなかったのに、という雰囲気の眼差し。イライラする。

 

 三島は俺と違う。

 契約なんかない、悪魔に魂だって売っていない、強く正しく、完璧である必要なんてない。


 もっと弱くて、卑怯で、情けない男だ。小狡いだけの存在だ。自分の力で俺を超えていこうとしない、それができない、最低の人間だ。相手にするまでもない。

 

(それでも──三島なら、虫は殺さない)


 視界の隅にマウスの死骸。さっきまでの熱狂と、拭い去られた爽快感と、ほとんど同時に訪れる、虚しさと諦念と、死んでしまいたいほどの自己嫌悪。うんざりする。

 

「……ふうん」


 ほとんど興味のない声が漏れた。三島は下を向いたまま、ぴくっ、と肩を震わせた。その手元がきつく握られて、かすかに震えている。

 

 俺が怖いのだろうか。俺はまだ、おまえになにひとつ見せてはいないのに。バカみたいだ。

 

 ため息を押し殺した。

 三島凪。ただの小物、でも放っておくと面倒だ。

 対人関係で揉まれたことのない人間は、ひとたび爆発するとひどいことになる。せっかくなら、逆に取り込んでやるのが一番いい。

 

 ちら、と三島を見下ろした。細い肩が緊張で震えていた。

 そわ、と俺の底でなにかが疼く。どうしようもない現象が、目を覚ましそうになる気配。

 

 確信があった。

 この男は弱者だ。食い荒らされる側の人間だ。

 無意識で加虐を誘うタイプの人間だ。

 

 でも俺はそんなことはしない。

 してはならない。絶対にしたくない。だったら。

 

(そうだ。この男に優しくして、たらしこんでやればいい)


 ありったけの作為的な好意を与えて、可能な限りやさしくして、コミュニケーションの取り方というものをすべて教え込んで。絶対にひどいことなんてしないで、他の誰より大切に扱って。

 

 そうやって彼の害意を取り去ればいい。俺の味方にすればいい。

 そうすれば、すべてが丸く収まる。俺も三島も不幸にはならない。全員が満足する。

 

 たとえこちらに思慕も好意も友愛も、ひとつも存在しなかったとしても、むしろ敵意と嫌悪しかなかったとしても。

 それでも、下手に対立していずれ訪れる破綻を待つよりずっとマシだ。

 

 誠実さのカケラもない、ろくでもない方法だということはわかっていた。

 だけど、どうせ俺はとっくに悪魔に魂を売っている。

 

 俺の作った完璧は本物じゃない。契約に基づいて他人に見せるためだけの、砂上の楼閣みたいなものだ。その内側がどうなっていようと、あの契約相手──父親には、知ったことではないのだ。

 

(せいぜい、愛想よくしてやろう)


 まるでたったひとりの存在みたいに、大切に扱おう。

 手を引いて、隣を歩いて、この男の知らないことをすべて丁寧に教えてやろう。

 

 それでこの不思議な色をした瞳が、思慕に濡れて俺を見上げるようになったら──すべては成功だ。

 

 俺は机に置きっぱなしだった研究資料を手に取ると、三島の前に差し出した。うえ、と小さな声が聞こえる。本当に挙動不審だ。

 

 数秒の沈黙ののち、三島がそろそろと顔を持ち上げる。

 相変わらず、未分化の、危なっかしい、加害を誘うような顔だった。反射的に胸元に紙束を押し付けていた。

 

 うわ、と慌てて資料を受け取る仕草を最後まで見届けて、俺は完璧な顔で笑った。

 

「部員二号として。よろしくな、三島」


 俺の言葉に三島は挙動不審な返事をして、でも、ほっとしたように頬を緩めた。

 やっぱり、どうにかしたくなる顔だった。



 

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