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俺の中には得体の知れない現象が眠っていて、ときどきそいつが動き出す。
それは嵐や落雷、地震や雪崩に似ていて、人の力の及ばない強烈な現象だった。ちっぽけな抵抗や尽力など、圧倒的なものの前では塵に等しい。
現象に意思はない。理屈も懇願も通じない。
だから予想も予防もできはしない。もちろん、止めることもだ。
ただ穏やかであってくれ、目覚めないでくれ、静かであってくれと祈り、せめて早く過ぎ去ってくれと地に伏せるしかない。
意思のない、ただあるだけの現象の前に、人はあまりに無力だ。
だからこそ、俺は知識を欲した。
人の積み重ねた叡智の結晶を、冷静で理性的なものを心から願った。
人を人たらしめるのはひとえに理性だ。
蓄積された叡智の力だけが、圧倒的な現象をいつか克服させてくれる。俺をあれから守ってくれる。
だってもう、あのひとは戻ってはこないのだから。
でも。どんな本を読んでも、いくら理性的に振る舞っても、現象は消えてはくれなかった。
いつまでも俺の底部を占領し、苛立ちや不快感を餌に動き出し、俺を獰猛な行動へと突き飛ばした。
たぶん俺はこの先ずっと永遠に、あの圧倒的なものと戦い続けるのだろう。それはどうしようもない現実だった。
友人が、俺の取り留めない話を受けて、楽しそうに肩を揺らしている。からかうような声が笑った。
「な、女子がめっちゃ騒いでたよな。宗像君ってお父さんもかっこいいんだ、って」
スーツの姿が思い浮かび、咄嗟に頬が引きつる。
俺はそれをおくびにも出さないように努めて、よせよと笑った。
「俺からすればただのオヤジだって」
無意識に腰が引けて、机にもたれかかる。体重を受けた机はがたっ、とやかましい音を立てた。
なにか余計な反応をしてしまいそうになる自分を無視して、俺は笑う。
「母親も、かなり面談を気にしてたんだけどな。都合がつかなくて。それで父が来たんだ」
ちらつく父の顔を振り切るように、別のことを考えた。
春先の西風。タンポポのにおい。泣きたいくらい美しい、うす青い空。抱きしめられたやわらかな感触と、大切にささやかれた言葉。
すべて今はもう遠い。たぶん戻ってくることもない。
それでも、守らなければならない。
「だからって、仕事休んでまで父親が来てくれるなんて、あんまないよな」
「父さんがわりと、息子のこと気にする人でさ」
父のことを話すたび、俺はかすかな憂鬱が自分を満たすのを感じていた。
腹の底に横たわる理不尽な現象が、ごそりと動き出すのを感じる。まだ待ってくれと思う。
けれど衝動は待ってはくれなかった。
笑みと語りと理想で取り繕った完璧の内側が、どろどろと汚れていく気配。呼応して動き出した強大なもの。
耐えきれず俺はそれから数分で会話を切り上げて、いつもより大股で廊下を抜け、生物室に向かった。
足早にゆくこの身体を、どこか冷静な自分が、淡々と眺めていた。




