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たん、と背後で進路相談室の扉が閉まる。
俺はふう、と息をつき、隣に立つ父をちらと見上げた。
視線が交わる。父は少しだけ表情を和らげて、良くやった、と言った。頷く。
「学年一位も約束通りだ。先生も喜んでいたな。おまえがこの調子なら、うちの今後も安泰だ」
「大丈夫だよ。俺はちゃんとやってるから」
「ならいい」
三者面談を万全に終え、父は実に満足げな表情だった。そのまま袖を軽くまくって、時計をチェックしている。かすかに顔をしかめる様子から、どうやら時間が押しているらしい。
教室まで送ろう、と低い声。返事も聞かず歩きだす。
俺は足早に廊下を行く父の後を小走りで追った。いいよ、と呼びかける。
「時間、迫ってるんだろ。見送るから、行ったら」
「……そうか」
少しだけ不満そうな表情。どうせ『教室まで送る』というのは建前で、実際は俺の交友関係や普段の様子を探りたかったのだろう。父のやりそうなことだった。
もう一度、ちゃんとやってるから、と繰り返す。
父は少し不服そうだったが、仕方ない様子でため息をついた。わかった、と苦々しい返答。
「おまえを信用する。だが、くれぐれも余計な気は起こさないように」
「ああ、わかってるよ」
裏のない笑みを表面だけで作って、俺はせいぜいまともそうな、誠実ぶった顔をしてみせる。
父はもう一度時計を見ると、階段の前で立ち止まった。
「部活で成果を出すのはかまわない。一人で部を立ち上げて、秀でた成果を出すのは賛成だ。だが、遊んで帰るようなことはするなよ」
「わかってるって。俺はきちんとできてるから」
できるだけ不安を抱かせないような、明るい口調で言う。
父はじっと俺を見据えていたが、数秒してようやく頷いた。
「……わかった。見送りはここまででいい。私は社に戻る」
「そう。気を付けて、仕事頑張ってな」
「ああ」
父は最後にもう一度、変なことはするなと念押しして、階段を下りていった。踊り場を曲がって、スーツの姿が見えなくなる。
それを最後まで見届けると、俺はふっ、と肩の力を抜いた。
下を向く。もう聞こえないはずの革靴の残響が、いつまでも耳にこびりついていた。
「……」
じっと押し黙って、腹の底で静かに動いている、ひどく暴力的で凶暴な、あの現象に耐える。どろどろしたものを見ないふりをする。
大丈夫だと、何度も自分に言い聞かせた。
大丈夫だ。
俺は今日もちゃんとやれた。
契約通りの完璧な人間でいられた。
友人だって、先生だって、父親だって俺を認めた。
正しいことをしている。なにも間違っていない。
(……大丈夫だ。まだ、俺は大丈夫)
俺のいちばん奥底に息づく、なにか理不尽な現象みたいな衝動が、じわじわと強まってくるのを感じる。頼むから大人しくあってくれと祈る。
早くまっとうな人間にならないと。
俺がまだ大丈夫なうちに、俺の中身が誰にもばれないうちに。
でないと、俺は。
(──落ち着け。大丈夫だ)
息を吸って、少しだけ止めて、握った拳に力を込めた。
「……行くか」
ぼそっ、とつぶやく。俺は踵を返すと、父が消えた階段を通り過ぎ、自分の教室に戻っていった。
耳に残る父の靴音をかき消すよう、わざと歩幅を大きくして、早足で歩いた。
教室に戻って帰り支度をしていると、少し遅れて友人たちが戻ってきた。
軽く手を振りあう。面談が終わって気が抜けたのだろう、彼らの表情は明るかった。
「この席誰だっけ。えーっと……三島か」
「あー、あのいっつもタブレットで本読んでる?」
「そうそれ。いっか。借りちゃお」
がた、と椅子に腰掛ける。そのまま二人は楽しげに世間話をはじめた。話題はと言えば、椅子の主である三島についてだ。
正直、あまり良い語り口ではなかった。とはいえ、まだ目くじらを立てるほどの中傷でもないし、あんな小狡い最低男をかばってやる義理などない。俺は適当に聞き流していた。鞄の中に詰め込んだ学術書や資料、その他諸々を整理する。
淡々と手を動かしながら、三島のことを思い出した。泣きそうな顔で俺の机を蹴り飛ばし、鼻をすすっていた、あのみっともない姿。少しだけげんなりする。
似たようなことは今までいくらでもあった。
全人類に好かれるというのは不可能だ。いくらみんなに好かれる人間になったところで、『みんなに好かれるような人間が嫌い』という人は存在する。それは尊重されるべきだ。
ただ、ああいう手合は陰であれこれするだけで、攻撃的な手段には出ない。ルサンチマンをこじらせるだけこじらせて、迂遠な方法しか取ってこないのが常態だった。
過度な刺激さえしなければ、敵対したって特に厄介な相手じゃないだろう。まあ、友好関係を結ぶに越したことはないだろうが。
結論を下してジッ、とスクールバッグを閉じたとき。けらけらした笑い声が聞こえた。
「──それ、現実とフィクションの区別が付かなくなって、陰で虫とか捻り潰しはじめるやつじゃん!」
(……っ)
ぴくっ、と手が止まった。
俺は黙ったまま鞄を見下ろして、全身の動きを止めて、じっと耳を澄ませていた。
「やめろって。なんかホントにそれっぽいから嫌」
「いずれ虫じゃ満足できなくなって、猫、犬、人と発展する定番コース」
「ははは、よせって!」
それきり、派手な笑い声。
見下ろした視界がかすかに歪んで、バッグのジッパーを握りっぱなしだった指先に、ぎゅっ、と力がこもった。
違う、と思った。強烈な反発と不快感。
「──三島は、虫を殺さないと思う」
気が付けば声が出ていた。
友人たちが、さっとこちらを振り返る。
俺は笑って、そういうのじゃない話をしよう、という意図を込めて、言った。
「どっちかっていうと、虫に怯えそうだろ、あいつ。無害だよ」
友人たちは一瞬だけ黙って、でも俺がいっさいの害意を込めずに笑っているのに、少しほっとしたようだった。頬の力を抜いて、そうかも、と笑う。
「ヘタレっぽいし、まあ、殺しはやらないか」
「だよなあ」
俺も同意して頷いた。
あんな小物に、なにかを殺すような真似はできない。あいつは俺と違う。きっとあいつの腹の底には、正体不明の現象なんて眠ってはいない。
暴力的で凶暴なものに耐えて、いつものように完璧を装う。談笑の輪に加わってにこやかに話す。
からからと肩を揺らして笑いながらも、俺の目は周囲を常に確認し、脳は冷静な計算をずっと弾き出し続けていた。
人間関係で重要なのはバランス感覚だ。
集団の誰にも平等に話題を振り、誰かが誰かと衝突しそうな気配があったら折衷案をそっと見せてみる。
他人を決して否定せず、なにか言うときは提案という形を取る。
押しすぎず引きすぎず、全員に公平な好意をそそぎつつ、『他の人には言えないけれど、実はあなたは少しだけ特別なんです』というメッセージを織り交ぜていく。
そうやって、頭のCPUをフルに使っているうちに、気が逸れたのだろう、あの現象は少しずつ落ち着いていった。ほっとした。俺は安心して話題に乗る。
「三島って、正面から見たら案外きれいな顔してるぞ」
「はあ? ウッソだろ?」
「あ、でもあいつ確かに、下のタブレットしか見てねえからな……俺、つむじくらいしか覚えてねえわ」
「えー、今度見てみるか?」
「ははっ、無理に見るのはやめろよ」
人を惹きつける笑みを浮かべて、取り留めない話に花を咲かせる。現象がゆっくりと、静かになっていく気配。
ほっと安堵こそするものの、薄ら寒い恐怖感だけは、いつまでも抜けてくれない。
それは理屈の通じない理不尽に対する、叩き込まれた恐怖だった。




