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その一週間後だ。
俺は橙色に染まった廊下を歩いて、教室に戻るところだった。
帰宅したら読もうと思っていた本を忘れたのだ。
どうせ学校ではほとんど読めないのに、せめて通学中だけでもと鞄に入れたのが間違いだった。なにかのついでに学校の机に入れてしまったのは、もっと間違いだったと言える。
生物室のある一階からわざわざ二階に上がって、また玄関まで戻るのはおっくうだ。どうせなら帰宅時じゃなく、部活が始まる前に思い出せば良かったと思う。どうせ部員は俺一人だ、遅れたところで誰に何を言われるでもない。
人気のほとんどない廊下を、黙って歩く。スニーカーが床とこすれる音。誰もいない中で俺の足音だけが響いていて、なんだか少し安心した。
いつだって俺の周囲には、自然と人が集まってくる。それはわかっていた。そうであるように振る舞ってきたからだ。
なにをやらせても完璧な、あらゆる点で欠点のない、人望あふれる優良な人間であるよう、ずっと自分を制御してきた。
ときどき、たまらない気持ちになる。
俺の心臓の奥、ずっとずっと深いところに、あの〝現象〟が眠っている。
誰もそれを知らない。知らせるつもりもない。でも、誰も知らないということは、誰も俺を〝そいつ〟から守ってくれない、ということだ。
(でも、それでいいんだ)
誰にも見せず、知らせずに、ずっと静かに、大人しく放っておいたら。
いつかそいつが、消えてなくなってくれるかもしれない。そうだったらいい。そうであってほしい。
こういうことを考えられるのは、周りに人がいないときだけだ。夕暮れに染まった廊下を歩きながら、俺はつかの間の思考にふけった。俺のうちに眠るものや、そいつとの付き合い方や、俺を守ってくれるはずだった存在について。
そしてようやく教室の前にたどりついた、そのとき。
「──……っ、ありえねえだろッ!?」
唐突に、教室の中からガンッ、とものすごい音が聞こえた。ぴくっ、と足が止まる。
俺はそっとドアに歩み寄った。音を立てないよう、そうっと引き戸を開ける。
そこには、クラスメイトの誰かが、足を振り上げて机を蹴り飛ばしていた。
他の誰でもない、俺の机を。
(……あー……)
思わず頭をかきむしる。
こういうことは、昔からたまにあった。完璧な人間を作っていればいるほど、面倒な輩は絶対にどこかで湧いてくる。集団とはそういうものだ。
目の前では痩せた眼鏡の男が、ガン、ガン、と何度も机を蹴り飛ばしている。
置き弁だらけの机はさぞ重いだろうに、まるで飛び跳ねるようにがつがつ揺れていた。
「なんなんだよ! 意味わかんねえよ! 学年トップのスポーツ万能で、人当たりも良くて、顔もイケメンで背も高くてガタイも良くて!?」
吐き捨てる悪態が耳を突き刺す。正直、どれも努力の末に勝ち取ったものなので、ああだこうだ言われても別に堪えない。
むしろ、鼻をすすり、涙目になって何度も机を蹴るこいつの方が、よっぽどつらそうだった。
「転入早々女子にきゃあきゃあ言われて、男子からの信頼も厚くて、リア充陽キャで文武両道で顔も頭も性格もいい人気者!? はっ、んなわけねーだろ!」
いっそ悲痛な絶叫に、あるんだよなあ、とため息をつく。
とりあえず見なかったことにして、この場から離れてやるのがこいつのためだろう。俺はそっと踵を返そうとして、しかし。
「──ああいう奴に限って、陰で猫とか殺してんだよ!!」
(──ッ……!)
びくっ、と肩が跳ねた。
すうっ、と一気になにかが引いていく気配。まばたきの裏に蘇る、黄色と黒の散った翅。潰された胴体。
俺は引き返すのをやめて、じっとその場で待った。
教室では例の彼がスクールバッグを振り抜いて、俺の椅子を吹っ飛ばしたところだった。ガン、ゴン、と音を立て、こちらへ椅子が転がってくる。
はあっ、はあっ、と肩を上下させ、彼はずっ、と鼻をすすった。手の甲で眼鏡を押し上げ、涙をぬぐうような仕草。
可哀想に、と表面上だけでうっすら思って、俺は彼がこちらに気付くのをじっと待った。
数秒もなかった。泣きそうな顔で眼鏡を整え、彼の視線がそっと椅子の行方を追う。
その眼差しがはっ、とこわばって、ゆっくりと持ち上がっていくさまを、俺は淡々と眺めていた。
「……宗、像」
絶望的な顔が俺を見た。
思ったよりきれいな顔をしていた。なんというか中性的で、危なっかしい、未分化な感じがする。
眼鏡のレンズの向こうで、呆然と目が見開かれた。丸くなった瞳が、薄い硝子板ごしに揺れている。うまく表現できない、不思議な色の瞳だった。
俺は自分が恐ろしく冷たい気持ちになっていることを自覚しつつ、教室に踏み入った。ずかずかと彼に近付く。
本当なら蹴り飛ばす程度、見ないふりして立ち去ってやったって良かった。
こんなのは今までいくらでもあったし、こうやって俺に噛み付く奴らだって、ちゃんと相手をすればみんな、友達の一歩手前くらいにはなれた。でも。
拾った椅子を席に戻す。
俺の椅子を飛ばした犯人は、こわばった顔でこちらを見つめている。怯えきった、凍りついた表情。
俺はちらと横目で彼を見た。ふうん、と思って、近付く。
びくっ、と彼は一歩下がって、机にしたたか腰をぶつけていた。
なんとなく手を伸ばした。彼はますます顔をこわばらせ、ぎゅっ、と目を閉じる。自分で危害を加えておいて、いっそ悲痛なくらいの表情。
俺は小さく息をつくと、すげー顔、と言った。
「へっ」
ぽかん、と目を見開く男。口まで半開きになっている。
そのみっともない顔をスルーして、俺はさっと彼の二の腕に触れた。ずいぶん痩せた腕だった。
軽く力を込めても表情に変化がないことから、筋を痛めたりはしていないようだ。
力を込めた瞬間、このまま本気で握ったら折れるかな、と一瞬だけ思った。悪い予感のようによぎったそれを振り払い、俺はそっと手を離す。
ついでにあちこち確認するが、彼はただ驚き、うろたえるばかりで、どこか痛めたという感じはなかった。
ふむ、と俺は頷く。遠慮がちな声が降ってきた。
「だ……大丈夫だから」
「みたいだな」
俺の頷きに、反射的にだろう、こくりと頷く仕草が素直だ。
これ以上こいつに触れていたら、俺の〝現象〟が妙な気を起こしかねない。どこも悪くないならいいか、と俺はさっさと忘れ物を回収する。
踵を返し、教室の外に向かった。
彼の視線が、じっと俺の背中を追いかける気配。
まあそりゃそうだろう。机を蹴り飛ばされた当人に、こんなリアクションをされたら、普通は戸惑う。ただ、俺には自制すべき理由があった、それだけだ。
教室から一歩外に出て、そのまま帰ろうと思ったのに。さっきの発言が脳裏にちらついて、俺はつい、足を止めていた。
腹の底で存在を主張する凶暴で冷えたもの、あの現象が動き出す気配、それをぐっと飲み込んで、呼びかける。
「おまえ、名前なんだっけ」
「え……三島……三島凪」
「三島ね」
口の中でつぶやいた。
念のため覚えておこう。逆恨みとか、あったら面倒だし。
俺はゆっくりと顔だけで振り返った。
スクールバッグを胸に抱き、バカみたいな顔で俺を見つめる、三島とかいう男。
呆然とした瞳が、ガラス一枚を隔てて俺を見つめている。揺れ動くのは名前のない宝石のような、不思議な色合いの瞳。思ったよりはきれいな顔。
(三島凪、か。まったく──見る目のある奴だよ)
それこそ、忌々しいほどに。
思わず、薄く笑う。しきりに脳裏にちらつく、鮮やかな蝶の色彩。
俺はできるだけまっとうそうな笑みを浮かべたまま、ものすごい嫌味を込めて、言った。
「俺、さすがに〝猫は〟殺さねえよ」
「──ッ……!」
さっ、と三島が顔色を変えた。
たじろぐように視線が落とされる。ちょっとした牽制にしては、過剰なくらいの効果だった。
十分な成果に喉の奥だけで笑って、俺は廊下を歩きだす。
もうここに用事はなかった。どうせ相手は小物だ、追いかけてくるようなこともないだろう。
きゅ、きゅっ、と歩くたびにスニーカーが床を鳴らす。教室が遠ざかる。
耳障りな音を聞きながら、俺はようやく、三島が例のファウストの男であることに気が付いた。
(ふうん……)
ずっとタブレットに伏せられていた顔は、想像よりはきれいだった。なんとなく危なっかしい感じの、なにかふたつの間で揺れるような、未分化の。
あんな顔立ちしてるくせに、教室での存在感がゼロとか、いっそびっくりする。もっと喋ったり、笑ったりすればいいのに。
まあいいか、と気持ちを切り替えた。階段を一段ずつ下りて、玄関に向かって角を曲がる。三島の叫びが蘇る。猫殺し。何度もそれを否定した。
(違う。俺は、大丈夫だ)
だって猫は殺してない。
哺乳類には手を出してない。
虫なんて誰でも殺す。俺は大丈夫だ。
大量発生のすえ生態系を乱すかもしれない昆虫を、定期的にひとりで駆除しているだけ。
言い訳だなんてわかっていた。俺はとっくの昔に契約済みで、悪魔に魂を売っている。
それでも俺は、他に方法を持たない。うまいやり方も、きれいな扱い方も、上手な取り繕い方も、なにも。
「あいつ……最低だったな」
ぼそっ、とつぶやく。
三島凪。見えないところで罵倒しながら人の机を蹴り飛ばす、ずるくて、卑怯で、最低な男。まだ大丈夫なはずの俺を、猫殺し呼ばわりした奴。
それでも、俺は彼を尊重しなければならない。円滑な人間関係を築かなければならない。
だって俺は、契約に基づいて、完璧でいなければならないのだから。
(完璧で、瑕疵のない、完全な人間でなければならない)
でなければ俺は、もっとも大切な人を奪われることになる。
俺を守ってくれるはずだった、たったひとりの人。あたたかい、春先の西風みたいなにおいの、思い出すだけで泣きたくなる、本当にやさしい人。
転院は大丈夫だったろうか。急に環境が変わって、発作的な行動がさらに増えていなければいいけど。
それでも、陽性症状があそこまで酷いまま前の病院に放っておかれるよりは、ずっといいはずだ。
もう何年も見ていない、あの笑顔を思い出す。
咲きはじめたタンポポみたいな、あたたかくて、やわらかくて、泣きたくなるようなあの表情。たぶんもう、二度と見られることはない。
「……。……帰るか」
感傷を振り切る。俺はことさらに背筋を伸ばすと、校舎のドアをくぐって外に出た。
橙色に染まった空を見て、薄く目を細める。
思い浮かべた今は無き笑顔、早く次の面会ができることを、心から願った。




