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03

 から、と教室のドアを開ける。放課後の室内は誰もいなくて、がらんとしていた。壁一面に並んだ窓の向こうで、たっぷりの夕焼けが橙色の光を投げかけている。長く伸びた机の影が交差して、床の上に複雑な影を作っていた。


 図書室で自習した帰りだった。そのまま帰ろうと思っていたのだが、忘れ物に気付いて取りに来たのだ。


(忘れたままでいたかったな……)


 かた、と椅子を引き、中から一枚の紙を取り出す。くしゃくしゃに潰されたそれをそっと広げた。中間考査の結果個票。二位の印字。ため息が漏れる。


 のろのろと個票をファイルに挟み、鞄に入れた。これを持って帰るのか、と思うと気が重い。なんだか鞄まで重く感じる。どうせ見せたところで、もはや誰になにを言われる訳でもないのだけれど。重いものは重いのだ。


 はあ、と息をついた。鞄を肩にかけ、小さく揺すり上げる。帰ろう。


 がらんどうの教室の中を歩いて、ドアを目指す。そのとき、ひとつの席が目に留まった。宗像の席だった。


 ゆっくりと通り過ぎて、足を止める。視線だけでちらりと振り返った。

 隙間から見える宗像の机の中は、ぎっちりと中身が詰まっていた。教科書も、参考書もそのままで、おそらくノートも半分くらいは置きっぱなしに見えた。なにもかも持ち歩いて予習復習する、俺の机とは正反対だった。


(……この学校で、置き勉かよ)


 むらむらと、よくわからない情動のようなものが、こみ上げてくる。じいん、と胸の底が重冷たいような感じになって、背の中央に不快感。


 知識は、俺を裏切らない。そのはずだ。

 教室という未成年ばかり集めた箱庭で、空っぽの身体に知識という錨じみた重石だけ詰め込んで、ようやく重心を保っていられる。それだけの、つまらない、なにもない自分。誰の視界にも映らない。

 それでいいと思っていた。だって、身に付けた知識だけは、絶対に俺を裏切らないから。でも。


 ゆるゆると、身体ごと振り返る。目の前には、教科書もなにもかも放置しっぱなしの机。天板の片隅に落書きがある。妙に写実的なネズミと蝶。こんなものを授業中に描く奴を、この学校でひとりも知らない。


 ずしり、と肩から下げた鞄の重みを感じる。ファイルの中に入っているはずの結果個票。あの時の笑い声が蘇る。生研部を立ち上げた、先生に言ったらなんとかなった、という、軽く明るい声色が、いま耳元で囁かれたように感じられる。


 ずる、と鞄を揺すり上げて、息を小さく吸って、俺は。


「――……っ、ありえねえだろッ!?」


 ガンッ、と目の前の机を蹴り飛ばしていた。


「なんなんだよ! 意味わかんねえよ! 学年トップのスポーツ万能で、人当たりも良くて、顔もイケメンで背も高くてガタイも良くて? 転入早々女子にきゃあきゃあ言われて、男子からの信頼も厚くて、リア充陽キャで文武両道で顔も頭も性格もいい人気者!?」


 ガン、ガン、と何度も、何度も蹴り飛ばす。はっ、と息を吐き捨てた。


「んなわけねーだろ!! ああいう奴に限って、陰で猫とか殺してんだよ! そうに決まってる! ふっざけんなクソがッ!!」


 最後に一発、鞄を叩きつけ、思いきり振り抜く。遠心力を伴った衝撃をもろに食らって、ガアン、とけたたましい音を立てて椅子が倒れた。ガッ、ゴッ、とバウンドを繰り返して、椅子が転がっていく。


「……っ、……く、そ……っ」


 はあ、はあッ、と肩を上下させて、興奮のせいで涙じみてしまった目元をぐっ、と拭った。ずれた眼鏡を整えて、まだ荒い息のまま、飛んでいってしまった椅子を視線で追いかけた、そのとき。


 ――教室のドアが、開いていることに気が付いた。一瞬で血の気が引いた。


 倒れた椅子の向こう側に、スニーカーの大きな足が見える。そろそろと視線を持ち上げる。長い脚、アイロンのきちんとかかったシャツ、きっちり結んだネクタイと、がっしりした胸板。男っぽい、整った顔。


「……宗、像」


 切れ長の実直な目が、よくわからない色の瞳が、淡々と俺を見つめていた。


 終わった、と思った。彗星のように現れた人気者の机に、こんなことをしておいて、今後平和な学生生活が送れるとは思わない。


 俺は呆然と宗像を見た。宗像はなにも言わず、黙っていた。ああもう終わりだ、と思いながら、ほとんど同時に、不思議に凪いでいる心があった。どうせ最初から始まってもいなかったのだ。こんなものなのかもしれない。だって俺は誰の目にも映らない、空っぽの、つまらない――


 唐突に、床とスニーカーの靴底がこすれる音が響いた。びくっ、と肩が跳ねた。大股で教室に入ってきた宗像は、無造作に転げた椅子を持ち上げると、当たり前のように自分の席に戻した。


 その一部始終を視線で追っていた俺へと、宗像がすっと顔を巡らせる。視線が、たぶん初めて、交わった。


「……」

「あ……」


 宗像の目は、不思議な落ち着きを宿していた。怒りも悲しみも、苛立ちのひとつすら、そこには見て取れなかった。恐怖に近い、でもそれとは違う、なんだかよくわからない感覚に背が震える。


 大きな歩幅が一歩、俺のほうに近付いた。反射的に一歩下がる。腰の後ろに誰かの席がぶつかって、がたっ、と音を立てた。

 宗像の大きな手が伸びてきて、ひくっ、と喉が鳴る。殴られる、と思って目を閉じそうになった瞬間、


「……すげー顔、おまえ」

「へっ」


 まったく平常心、みたいな声で言われて、ぽかんとした。宗像は伸ばした手を俺の二の腕あたりに触れさせて、うん、となにか確かめるような顔をした。


「怪我してないか」

「は」

「普段運動しないやつが急に動くと、つったりするだろ」


 ぺたぺたと遠慮のない手があちこち触れて、俺はたちまち居心地悪くなる。しかし俺がやめろよ、と言う前に、ふむ、という吐息とともに手は離れていった。


「だ……大丈夫だから」

「みたいだな」


 ならいい、とばかりに頷かれて、俺は意味もわからず頷きかえす。

 宗像は俺の横をすり抜けると、自分の机から一冊の本を取り出した。あったあった、と言いながら鞄にしまいこむ。英語の学術書だった。おそらくは生物学。


 忘れ物を手に入れて満足したらしい。彼はあっさりと踵を返して、大きな歩幅ですたすた扉のほうへ歩いていった。開きっぱなしだったドアから一歩、大柄の身体が外に出て、そして止まる。なんだ。


「おまえ、名前なんだっけ」

「え……三島……三島凪」

「三島ね」


 確かめるようにつぶやくと、宗像が、肩越しにゆっくりと振り返った。横顔が、淡い笑みの形を作る。


「俺、さすがに猫は殺さねえよ」

「――ッ……!」


 さっ、と顔色が変わるのが、自分でもわかった。思わず視線を落とす。宗像が、喉の奥だけで笑う気配がした。きゅ、とスニーカーの靴底が、床とこすれる高い音。


 それっきり、宗像はその場を去っていった。大股の足音が、遠ざかって消えていく。その残響がすべて聞こえなくなるまで、俺はその場に立ち尽くしていた。


 ぎゅう、と鞄の持ち手を握りしめる。食いしばった歯がぎり、と小さく音を立てる。呼吸が浅い。心臓が嫌な鼓動を立てている。


(……ッ、畜生……っ)


 背を丸め、鞄の持ち手に爪を食い込ませて、浅い呼吸を繰り返して。俺はただ馬鹿みたいに、畜生、畜生、と同じ言葉ばかりを繰り返した。


 いちめんの窓から差し込む夕焼けが、俺の影をだらだらと長く引き伸ばして、宗像の机の上の落書きが、くっきりと橙の中に浮かび上がる。遠くで部活の掛け声が、馬鹿みたいに反響して聞こえていた。





 

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