35
次に目を開いたら、夜中になっていた。
部屋の中が真っ暗で、カーテンが開けっ放しになっている。
無意識に眼鏡をさぐって、時計を見ると夜の十時を過ぎていた。
もそりと起き上がる。頭の痛みや身体の熱さは、かなりましになっていた。
いつの間にか寝間着が変わっているな、と思って、昼間の記憶がほとんどないことに気付く。
なんとなく、宗像が来た気がする。お茶を出した記憶はあるから、それは間違いないだろう。
その後のことははっきりしないが、なんだかとても良くしてもらったような。寝間着が変わっているのも、おそらくはその一つだろう。
(相変わらず、びっくりするほど出来たやつ……)
もそもそと起き出して、しゃっとカーテンを閉める。振り返って電気をつけ、まぶしさに一瞬目を細めた。
そのとき、枕の端に、見慣れない点が見えた。
「……あれ?」
赤黒い、小さなシミ。血だろうか。そういえば、片方だけ耳が痛い。
ピアスをつけた耳にそっと触れると、じんとした痛みが走って思わず顔をしかめた。これは多分、ちょっとだけ裂けている。
(うげ、枕にでも引っ掛けたか……?)
とりあえず、枕カバーは洗濯確定だった。ふー、と息をつき、ベッドに腰掛ける。具合はまだ本調子とはいかないけれど、かなり良くなっている。
なんだか久しぶりに、本当にぐっすり眠った気がした。
ものすごく幸せな夢を見たような気もする。余韻のようにじいんと残る、満たされた感覚。どんな夢か覚えていないことが残念だった。
視線を投げると、机の上にタブレットが置いていた。宗像が持ってきてくれた忘れ物。
そこまでのことは、まあまあ記憶にある。俺が休んだからって、わざわざ持ってきてくれるとは。どうせ次の日に学校で渡せばいいものを、俺があれを大切にしているのを知っているからだろう。いつも通りの、完璧な気遣い。
今日ばかりはそれが助かったな、と思って立ち上がる。喉が乾いていた。キッチンで、麦茶でも飲もう。具合悪いときは、ミネラルも取った方が良さそうだし。
廊下を歩いていると、LDKに電気がついているのに気付いた。どうやら母は帰っているらしい。俺はそっとドアを押し開けた。
ダイニングに座った母が、俺に気付いて振り返る。珍しい。思わず目を丸くした。
「ああ、凪」
さらに珍しいことに、声をかけられ、名前を呼ばれる。
俺はますます目を丸くして、おかえり、お母さん、とだけ言った。ずいぶん久しぶりな感じがした。
「ちょうど良かったわ。凪、ここに座りなさい」
「え……待って、ちょっと麦茶──」
「座りなさい」
「……わかった」
きっぱりした口調に、俺は喉の乾きを満たすことを諦める。
ぺたぺたとフローリングを歩いて、帰宅したばかりと思われる母親の正面に座った。俺と母の間に鏡が立っていないことが、なんだか不思議だ。
母は俺の着席を見届けると、ねえ、と切り出しはじめた。
「あのね、お母さんね、ずっと考えてたの。凪のために、どうするのが一番いいかって」
「え……うん……」
「それでね。ずっと考えて、わかったのよ。やっぱりU大じゃだめだって」
「……え?」
思わず顔を上げる。母は顔をしかめると、床に置いた鞄から、なにやら紙をばさばさ取り出した。プリンターで印刷したものや、どこかのパンフレット、冊子やチラシが大量に並ぶ。
「U大なんかじゃだめだったの。あんなの、世界規模だと大したことないわ。もっと海外ランキング上位の大学を狙っていかないと」
「で、でも、ずっとU大って言って……」
俺の言葉にかぶせるように、母が言う。
「必要なのはもちろん語学力と、そうそう、論理的な討論は最低限できないとね。他にも、国内の大学とは違うスキルがいるし。学部次第ではもっと色々必要になるわね。せっかくだから医学系なんてどう?」
「え、え? 待って、えっと、どういうこと……だって俺、U大って、先生にも」
母がなにを言っているか、わからない。だってつい一年半前まで、M高とU大に行きなさい、それがあなたの未来のため、他の可能性なんて必要ない、ってずっと言っていたのに。
俺があまりにもしどろもどろなのに苛立ったのか、母はかすかに声を険しくした。
「だから。U大なんかじゃだめって言ってるでしょ。お母さんの話聞いてた?」
「き、聞いて、た……」
こくこくと頷く。聞いてはいた。ただ、意味がわからないだけで。
母は呆れたように息を吐くと、いいわ、と言って広げた冊子や印刷物をかき分けた。
「とりあえず予備校の説明会に行きましょ。よさそうなの三、四校は見繕っておいたから」
ばさばさと押し付けられた大量の紙を見る。予備校の説明パンフレットだった。受け止めきれず、はらはらと数枚の紙がテーブルに落ちる。
見下ろした紙は予備校のスケジュール表だ。放課後から休日まで、ほとんどびっしり埋まっている。
あまりにも過密なスケジュールに、俺は狼狽えた。こんなのじゃ本当に、家と学校と予備校の往復しかできない。むしろ移動時間すら危うい。
生物室での時間を思い出して、俺は思わず待って、と声を上げていた。
「ま、待ってよ。予備校って……だって俺、生研部が」
「え? なにって?」
母が心底意外そうに目を見開く。俺は胸元に紙を抱いたまま、えっと、とごにょごにょつぶやいた。
「せ、生物研究部……俺、副部長だし……」
「あなた、そんなのしてたの? まあいいわ、辞めて」
「え……っ?」
あまりにもあっさりと言い放たれ、俺は呆然と顔を上げる。いや、あの、と言葉を重ねた。
「ま、待ってよ。俺の言うこと聞いてた?」
「お母さんはなんでもちゃんと聞いてます。部活でしょ? それも研究系。そんなの、大学に行けばいくらでもできるわ。今やるべきことじゃない。あなたの未来のためなのよ」
「で、でも、そんなの急になんて無理──」
「じゃあ三日あげるから。その間に根回ししなさい。副部長なんでしょ? 融通くらい利くわよね」
「じゃなくて……!」
俺がなにを言い募っても、母は聞く耳を持たない。
待ってと何度言ったって、繰り返されるのは「あなたの未来のため」という、一年半前に浴びるほど聞いた文言だ。呆れたように母が言う。
「あなた、そんなに聞き分けの悪い子だった? 今頑張れば、あとで良いことがあるの。あなたの未来のため、将来のためなの。わかってちょうだい」
「だって、未来未来って、俺の今はどうなるんだよ……!」
「もう……楽しい事ならあとでもできるって、何度言わせるの? お母さんの言うとおりにしてれば間違いないの。今まで、お母さんが間違ってたことある?」
「それは、……ないけど……」
「ほらね?」
だめだ。言い返せない。
母はいつだって正しくて、間違ってなくて、俺のことをなんでも心得ていた。俺みたいな子供の反論なんて、彼女の前では赤子の手を捻るように押し潰されてしまう。
それでも、諦めきれなかった。俺は押し付けられた紙を抱きしめて、違う、と声を荒げた。
「お、俺、生研部にいたい。やっと見つかったんだ。居ていい場所も、楽しい時間も、と、友達も……」
友達、という言葉が涙じみて震えた。
そうだ、宗像と本当に友達になれたら、どんなによかっただろう。
嘘なんてつかず、『悪魔との契約』なんて始めからなくて、ただ素直な気持ちで、生物室のドアを叩いていたら。
そのとき、ふーっ、とため息が聞こえた。たんっ、と母の手がテーブルを叩く。あからさまに苛立った仕草に、思わずびくっとした。
苛立ちも不快感も隠さない表情。母がこらえるような顔をして、押さえきれない本音がこぼれた、そんな口調で、叫んだ。
「ちょっと、しっかりしてよ。
お母さん、もう次の子は産めないんだからね!?」
(……えっ──)
その言葉に、愕然とする。俺の頭が反射的に理解を拒否して、でも、投げつけられた言葉の内容は、数秒もしないうちに落ちてくる。
実感がじわじわと、足元から黒いものとなって広がった。
母の瞳、真っ黒で底のない、なめらかなその表面に、呆然と目を見開いた俺が映っている。でも。
母の目は決して俺を映してはいないのだと、それどころかずっと昔から、俺が母に見つめられていると信じていた頃からそうだったのだと──はっきり、わかった。わかってしまった。
「……あ、……」
力が抜ける。強く抱きしめすぎてぐしゃぐしゃになっていた紙が、ばらばらと床に滑り落ちた。
ちょっと、と母が咎める声がする。それなのに、喉が詰まって、苦しくて、ひとつたりとも返事ができない。
なにか決定的で、致命的なものが、崩れていく音がした。
打ち込んだ錨がすべて抜け落ちて、足元がふわり、と浮くように無くなっていく感覚。
不安定な足元、空っぽの自分、透明な世界。誰の目にも映らない、くだらない、首から上しか存在しない、それだけの──
この錨がなくなったら、いずれ俺は消えて無くなってしまうんじゃないかと、ずっと思っていた。
それが、今だった。
心許ない地の底が一斉に崩れて、足元が一気に浚われていく気配。
透明で曖昧でなにもない、過去も未来もわからない、希釈された世界の中に、俺が均一に溶けていく。
楽しかったことも嬉しかったことも、ずっと覚えていたかったことも、ぜんぶ無くなっていく。
「…………俺、……」
俺は、なんなんだろう。
問いかけに、答えは一切与えられなかった。見つけることもできなかった。
俺はただ呆然と椅子に腰掛けて、静かになった俺に満足した母があれこれ決断を迫るのを、こくこくと機械的に頷いていた。無くなっていく感覚が、じわじわと俺のことを消していった。




