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【完結・BL】転校生に学年トップを奪われたから弱みを握ろうと友達のフリして近付いたらとんでもない修羅場が待っていた  作者: Ru
【前編 / 04】 『時よ止まれ』

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 次に目を開いたら、夜中になっていた。


 部屋の中が真っ暗で、カーテンが開けっ放しになっている。

 無意識に眼鏡をさぐって、時計を見ると夜の十時を過ぎていた。


 もそりと起き上がる。頭の痛みや身体の熱さは、かなりましになっていた。

 いつの間にか寝間着が変わっているな、と思って、昼間の記憶がほとんどないことに気付く。


 なんとなく、宗像が来た気がする。お茶を出した記憶はあるから、それは間違いないだろう。

 その後のことははっきりしないが、なんだかとても良くしてもらったような。寝間着が変わっているのも、おそらくはその一つだろう。


(相変わらず、びっくりするほど出来たやつ……)


 もそもそと起き出して、しゃっとカーテンを閉める。振り返って電気をつけ、まぶしさに一瞬目を細めた。

 そのとき、枕の端に、見慣れない点が見えた。


「……あれ?」


 赤黒い、小さなシミ。血だろうか。そういえば、片方だけ耳が痛い。

 ピアスをつけた耳にそっと触れると、じんとした痛みが走って思わず顔をしかめた。これは多分、ちょっとだけ裂けている。


(うげ、枕にでも引っ掛けたか……?)


 とりあえず、枕カバーは洗濯確定だった。ふー、と息をつき、ベッドに腰掛ける。具合はまだ本調子とはいかないけれど、かなり良くなっている。


 なんだか久しぶりに、本当にぐっすり眠った気がした。

 ものすごく幸せな夢を見たような気もする。余韻のようにじいんと残る、満たされた感覚。どんな夢か覚えていないことが残念だった。


 視線を投げると、机の上にタブレットが置いていた。宗像が持ってきてくれた忘れ物。

 そこまでのことは、まあまあ記憶にある。俺が休んだからって、わざわざ持ってきてくれるとは。どうせ次の日に学校で渡せばいいものを、俺があれを大切にしているのを知っているからだろう。いつも通りの、完璧な気遣い。


 今日ばかりはそれが助かったな、と思って立ち上がる。喉が乾いていた。キッチンで、麦茶でも飲もう。具合悪いときは、ミネラルも取った方が良さそうだし。


 廊下を歩いていると、LDKに電気がついているのに気付いた。どうやら母は帰っているらしい。俺はそっとドアを押し開けた。

 ダイニングに座った母が、俺に気付いて振り返る。珍しい。思わず目を丸くした。


「ああ、凪」


 さらに珍しいことに、声をかけられ、名前を呼ばれる。

 俺はますます目を丸くして、おかえり、お母さん、とだけ言った。ずいぶん久しぶりな感じがした。


「ちょうど良かったわ。凪、ここに座りなさい」

「え……待って、ちょっと麦茶──」

「座りなさい」

「……わかった」


 きっぱりした口調に、俺は喉の乾きを満たすことを諦める。

 ぺたぺたとフローリングを歩いて、帰宅したばかりと思われる母親の正面に座った。俺と母の間に鏡が立っていないことが、なんだか不思議だ。


 母は俺の着席を見届けると、ねえ、と切り出しはじめた。


「あのね、お母さんね、ずっと考えてたの。凪のために、どうするのが一番いいかって」

「え……うん……」

「それでね。ずっと考えて、わかったのよ。やっぱりU大じゃだめだって」

「……え?」


 思わず顔を上げる。母は顔をしかめると、床に置いた鞄から、なにやら紙をばさばさ取り出した。プリンターで印刷したものや、どこかのパンフレット、冊子やチラシが大量に並ぶ。


「U大なんかじゃだめだったの。あんなの、世界規模だと大したことないわ。もっと海外ランキング上位の大学を狙っていかないと」

「で、でも、ずっとU大って言って……」


 俺の言葉にかぶせるように、母が言う。


「必要なのはもちろん語学力と、そうそう、論理的な討論は最低限できないとね。他にも、国内の大学とは違うスキルがいるし。学部次第ではもっと色々必要になるわね。せっかくだから医学系なんてどう?」

「え、え? 待って、えっと、どういうこと……だって俺、U大って、先生にも」


 母がなにを言っているか、わからない。だってつい一年半前まで、M高とU大に行きなさい、それがあなたの未来のため、他の可能性なんて必要ない、ってずっと言っていたのに。


 俺があまりにもしどろもどろなのに苛立ったのか、母はかすかに声を険しくした。


「だから。U大なんかじゃだめって言ってるでしょ。お母さんの話聞いてた?」

「き、聞いて、た……」


 こくこくと頷く。聞いてはいた。ただ、意味がわからないだけで。

 母は呆れたように息を吐くと、いいわ、と言って広げた冊子や印刷物をかき分けた。


「とりあえず予備校の説明会に行きましょ。よさそうなの三、四校は見繕っておいたから」


 ばさばさと押し付けられた大量の紙を見る。予備校の説明パンフレットだった。受け止めきれず、はらはらと数枚の紙がテーブルに落ちる。

 見下ろした紙は予備校のスケジュール表だ。放課後から休日まで、ほとんどびっしり埋まっている。


 あまりにも過密なスケジュールに、俺は狼狽えた。こんなのじゃ本当に、家と学校と予備校の往復しかできない。むしろ移動時間すら危うい。


 生物室での時間を思い出して、俺は思わず待って、と声を上げていた。


「ま、待ってよ。予備校って……だって俺、生研部が」

「え? なにって?」


 母が心底意外そうに目を見開く。俺は胸元に紙を抱いたまま、えっと、とごにょごにょつぶやいた。


「せ、生物研究部……俺、副部長だし……」

「あなた、そんなのしてたの? まあいいわ、辞めて」

「え……っ?」


 あまりにもあっさりと言い放たれ、俺は呆然と顔を上げる。いや、あの、と言葉を重ねた。


「ま、待ってよ。俺の言うこと聞いてた?」

「お母さんはなんでもちゃんと聞いてます。部活でしょ? それも研究系。そんなの、大学に行けばいくらでもできるわ。今やるべきことじゃない。あなたの未来のためなのよ」

「で、でも、そんなの急になんて無理──」

「じゃあ三日あげるから。その間に根回ししなさい。副部長なんでしょ? 融通くらい利くわよね」

「じゃなくて……!」


 俺がなにを言い募っても、母は聞く耳を持たない。

 待ってと何度言ったって、繰り返されるのは「あなたの未来のため」という、一年半前に浴びるほど聞いた文言だ。呆れたように母が言う。


「あなた、そんなに聞き分けの悪い子だった? 今頑張れば、あとで良いことがあるの。あなたの未来のため、将来のためなの。わかってちょうだい」

「だって、未来未来って、俺の今はどうなるんだよ……!」

「もう……楽しい事ならあとでもできるって、何度言わせるの? お母さんの言うとおりにしてれば間違いないの。今まで、お母さんが間違ってたことある?」

「それは、……ないけど……」

「ほらね?」


 だめだ。言い返せない。

 母はいつだって正しくて、間違ってなくて、俺のことをなんでも心得ていた。俺みたいな子供の反論なんて、彼女の前では赤子の手を捻るように押し潰されてしまう。


 それでも、諦めきれなかった。俺は押し付けられた紙を抱きしめて、違う、と声を荒げた。


「お、俺、生研部にいたい。やっと見つかったんだ。居ていい場所も、楽しい時間も、と、友達も……」


 友達、という言葉が涙じみて震えた。

 そうだ、宗像と本当に友達になれたら、どんなによかっただろう。

 嘘なんてつかず、『悪魔との契約』なんて始めからなくて、ただ素直な気持ちで、生物室のドアを叩いていたら。


 そのとき、ふーっ、とため息が聞こえた。たんっ、と母の手がテーブルを叩く。あからさまに苛立った仕草に、思わずびくっとした。


 苛立ちも不快感も隠さない表情。母がこらえるような顔をして、押さえきれない本音がこぼれた、そんな口調で、叫んだ。



「ちょっと、しっかりしてよ。

 お母さん、もう次の子は産めないんだからね!?」



(……えっ──)

 その言葉に、愕然とする。俺の頭が反射的に理解を拒否して、でも、投げつけられた言葉の内容は、数秒もしないうちに落ちてくる。


 実感がじわじわと、足元から黒いものとなって広がった。


 母の瞳、真っ黒で底のない、なめらかなその表面に、呆然と目を見開いた俺が映っている。でも。


 母の目は決して俺を映してはいないのだと、それどころかずっと昔から、俺が母に見つめられていると信じていた頃からそうだったのだと──はっきり、わかった。わかってしまった。


「……あ、……」


 力が抜ける。強く抱きしめすぎてぐしゃぐしゃになっていた紙が、ばらばらと床に滑り落ちた。

 ちょっと、と母が咎める声がする。それなのに、喉が詰まって、苦しくて、ひとつたりとも返事ができない。


 なにか決定的で、致命的なものが、崩れていく音がした。

 打ち込んだ錨がすべて抜け落ちて、足元がふわり、と浮くように無くなっていく感覚。

 不安定な足元、空っぽの自分、透明な世界。誰の目にも映らない、くだらない、首から上しか存在しない、それだけの──


 この錨がなくなったら、いずれ俺は消えて無くなってしまうんじゃないかと、ずっと思っていた。

 それが、今だった。


 心許ない地の底が一斉に崩れて、足元が一気に浚われていく気配。

 透明で曖昧でなにもない、過去も未来もわからない、希釈された世界の中に、俺が均一に溶けていく。

 楽しかったことも嬉しかったことも、ずっと覚えていたかったことも、ぜんぶ無くなっていく。


「…………俺、……」


 俺は、なんなんだろう。

 問いかけに、答えは一切与えられなかった。見つけることもできなかった。

 

 俺はただ呆然と椅子に腰掛けて、静かになった俺に満足した母があれこれ決断を迫るのを、こくこくと機械的に頷いていた。無くなっていく感覚が、じわじわと俺のことを消していった。



 

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