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【完結・BL】転校生に学年トップを奪われたから弱みを握ろうと友達のフリして近付いたらとんでもない修羅場が待っていた  作者: Ru
【前編 / 04】 『時よ止まれ』

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 数日後の週末。俺はまた宗像の家に向かっていた。

 期末考査直前の追い込みにと勉強に誘われたのだ。


 宗像の家にまつわる色々を思い出して言葉を濁す俺の内心を、なんとなく察したらしい。父親は一昨日から出張だから、と先手を打つように言われた。


 躊躇の理由はそれだけではなかったけれど、蝶の死骸については言えるわけがない。結局俺は頷いて、こうして宗像の家の前に立っている。


 インターホンを鳴らそうとして、伸ばした指先が止まった。

 以前この家に来た時に見たものが、強烈に脳裏に蘇る。散らばった翅、踏みにじられた胴体、千切れた脚。


 俺は黙って、小さく唾を飲み込んで、下を向いた。

 宙に浮かせた指が中途半端にためらって、俺はここ一週間ほど、あの光景をわざと忘れようと、思い出さないようにしようとしていたのだと気付く。心臓が冷たい鼓動を鳴らした。


(宗像は……いい奴だ)


 まっすぐで、誠実で、実直で。

 いつもストイックに自分を律して、誰に対しても完璧な気遣いを見せている。立ち振舞いだってちゃんとしていて、顔も頭もいいくせに、それをまったくひけらかさない。でも。


 まぶたの裏にちらちらと、引きちぎれた蝶の羽。俺はそっと目を閉じて、なにか予感のようなものを感じて、インターホンに伸ばした指をゆっくりと下ろした。指先がかすかに震えていた。


 引き返すべきか、迷っていた。それはこの場からという意味もあったし、それ以上の、宗像達也という人間の前に横たわるドアの前から、という意味もあった。


 目を閉じたまま、考えた。宗像という完璧な、でも、どこか俺にはわからない一面を持った男のことを。

 今までに起こったことや言われた言葉、触れられたときの感触や、一緒に過ごした時間の数々。


 信じられないほどたくさんのことが脳裏をめぐって、そして最後に訪れたのは、あのどうしようもなく俺を突き動かす〝なにか〟だった。

 抗いがたい、眩暈のするような、鮮烈すぎる生きた情動。


「……っ」


 空梅雨の、中途半端な空の下。俺は息を長く吸って、吐いて。覚悟を決めると、一歩前へ足を踏み出した。インターホンは鳴らさなかった。


 見つからないように、そっと家屋の横をまわり、裏庭の方に向かう。さっきまでどきどきしていた心音はいつの間にか、不思議なくらい静まりかえっていた。

 さく、と足の裏で土が鳴って、俺はゆっくりと奥へ進む。


 なにか冷たい、はっきりした予感のようなものがあった。その正体をきちんと自分の目で確かめようと、俺はこのあいだ蝶を見つけた場所に立つ。


 変化は、すぐにわかった。


「……やっぱり、あるんだ」


 ぽつり、とつぶやく。

 目の前には、なにかを土で隠した形跡。

 雑にかぶせられた土の端から、鮮やかな翅が覗いている。アゲハチョウ。


 俺はそっと足を持ち上げて、スニーカーの先でざっ、と土をはらった。薄くかけただけの土はすぐに蹴散らされて、下にあるものがあらわになる。


 踏み散らされた、おびただしい量の蝶の死骸。少なくとも一桁では済まないだろう。

 この前と同じ、翅をむしって、踏み潰して、何度もにじったような死骸だった。


 心臓がしいんと静まり返って、俺は不思議と淡々とした気持ちを保っていた。予感とか予兆とか、そういう冷たいものたちが、俺の心になにかしらの準備をさせていた。そのためだろう。


(……宗像の父親は、一昨日から出張に出てる)


 この死骸が、もし一昨日より前のものならば。もう少し損傷していてもいいと思う。今は七月で、梅雨の終わり際で、気温も高い。蟻に食われたり、腐り始めたり、していてもおかしくない。でもこの死骸は、そうじゃない。


 だけど、宗像が本当のことを言っている保証だってない。

 もしあの父親が一昨日からじゃなくて、今朝からの出張だったら。あるいは、宗像の知らないところで一度家に帰っているとしたら。その可能性だってゼロじゃない。他の可能性は残っている。どんなにかすかでも。


「……まだ、……」


 消え入りそうな声が漏れた。下を向いた視界の中央に、大量の蝶の死骸。恐れるように目を閉じた。まだわからないと、何度も唱えた。


 宗像だという確証はない。宗像の言葉のなにが本当でなにが嘘かなんて、俺はちっともわからない。完璧な言葉の裏なんかまるで上手に探れない、圧倒的にコミュ力が足りない。現実を見る力も、なにかを知る覚悟も、俺には、まだ。


 ひたひたと押し寄せる冷たい予感。堪えがたくてまぶたを開く。

 七月に入ったばかり、梅雨の最後の蒸し暑い空気の中。死んだ虫の翅をぬるい風がかすかに震わせていた。

 俺は鮮やかな色彩から目を背けて、少しだけ足早に玄関へと戻った。

 

 玄関まで戻った俺は、できるだけ平常の顔を作ってインターホンを鳴らして、宗像に迎えられるまま家に入った。例のちゃんとしたアイスコーヒーを手にした宗像に導かれ、二人で階段をのぼって、部屋に入った。鞄の中身を広げて勉強した。


 今すぐに引き返すべきだという強烈な本能の警告を、無視した理由はわからなかった。

 ただ、俺はあの閉じたドアの向こうに見える美しい剥き出しのもの、それが呼び起こしてくれる強烈な情動の、酩酊や眩暈に似た感覚を忘れることができなかった。


 シャーペンを走らせて、問題集を解いたり、宗像の解説を聞いたりしてるあいだ。俺は半分くらいしか勉強に意識を注ぐことができなかった。

 残りの半分はずっと宗像の方に向いていて、俺はノートに顔を伏せたまま、身体中の産毛が宗像のほうへそばだてられて、アンテナみたいになっているのを感じていた。宗像が転校してきた日のことを思い出した。


 ただ歩いて座るだけで、集団の耳目を集める完璧な男。誰も彼もが全身全霊で彼の気配を読み取って、一山いくらの友人候補が列をなし、彼の前へ乞うように並んでいる。

 俺だけは絶対にあんな列に入るもんかと思っていた、だけど。いま俺がやっていることは、彼らとなにも変わらない。


 ちら、と視線を持ち上げて、宗像を見た。

 男っぽい、整った顔立ち。実直な目元が伏せられて、かぶさったまつげが頬のあたりに影を落とす。視線が左右に動いて、参考書の中身をさらっているのがわかった。筆記具の走る音。


 俺はわざと手を止めて、宗像がそれに気付くのを待った。さっきから俺が手を止めるたび、宗像は顔を上げて、わからないところがあるか聞いてくるからだ。


 案の定、彼はふっと俺の様子に気付いて、ペンを止めた。

 俺はそっとシャーペンを置いて、視線を紙に落としたまま、耳元の髪をかきあげる。休日なのも手伝って、今日は透明じゃないほうのピアスをつけていた。たぶんこの距離でも目立つだろうとわかっていた。


 俺が手を止めているのなんて、完全に気付いているはずなのに。宗像はなにも言わなかった。ただ、宗像がかたり、とペンを置いた音だけが、静まり返った部屋の中に響く。


 正面の影がゆっくりと動いて、ローテーブルの上に落ちた影、宗像の腕のシルエットが、すっとこちらに伸びてくるのがわかる。部屋の空気が動く気配。


 伏せた視界の隅に、大きな手が見えた。少しずつ近付いてくるその指先を捉えて、俺はそっと顔を上げる。宗像は色のない、あの、よくわからない表情をしていた。


 視線がようやく交わった、と思ったそのとき。宗像の指がぴくっ、と痙攣した。伸ばしかけたそれが完全に静止して、そしてあの瞬間が訪れる。流星の音。


 宗像の、我に返ったような表情の中に、ありとあらゆる大量の情報が見え隠れするのがわかった。

 正と負とその中間のさまざまな感情が、現れては次々に消えていく。まるで星がまたたくみたいに、剥き出しの美しい、きれいなものが目の前に晒される。


 ぞくっ、と背筋が震えた。くちびるがわなないて、俺はかすかに指先を握りしめる。

 脳の奥がしびれたようにくらくらして、喉が渇いて、心拍が一気に駆け上がった。全身の感覚が鋭敏になって、あらゆる器官がひりひりとなにかを受信する。

 死んでしまいそうだと思って、それでもいいと思った。ほとんど麻薬じみた感覚だった。


 ずっとこの〝なにか〟を感じていたい、そう思った瞬間に。宗像はぱっと手を握りしめて、姿勢を正してしまった。いつもとなにも変わらない瞳が俺を見て、笑った。


「なに。わかんないとこあんの」

「……えっと、……大丈夫。ちょっと疲れたなってだけ」


 気が付けば、口から勝手にすらすらと言葉が出ていく。表面上だけは平静を装いながら、俺は情動の余韻に、ひとり胸を震わせていた。


 回数を重ねるたび、あの〝なにか〟はしだいに強く、蠱惑的になってきている。

 中毒性のある甘ったるい毒みたいな、得体の知れない情動。俺の中に眠っている、生きた、本当の、生々しくて鮮烈ななにか。


 宗像はちょっと休憩するか、と笑って、コーヒーのグラスを取った。ミルクのない、真っ黒い液体が、宗像の口元へと消えていく。


 それをじっと見つめて、俺はこの男のドアの向こう、たったいま閉じてしまったそこへ思いを馳せた。背中のあたりがぞくぞくした。ひたひたと押し寄せる、良くない予感。


(わかってる、……わかってるけど)


 この情動に身を任せるのは、良くないことなのだろうと思う。


 宗像が俺を、実験用マウスを見るのと同じ目で見つめていることなんて、もうとっくに気付いている。

 俺は俺で宗像を、ただの忌々しい復讐相手と思うことはもうできなくて、ごまかしはとっくに効力を失っている。未だに身体がぞわぞわする。


 絶対にやめたほうがいい、身を引いたほうがいい。

 それができないのなら、宗像の前で洗いざらい全てを白状して、ちゃんとごめんと謝ったほうがいい。


 宗像がなにか言っている。俺もなにか言っている。笑い声、まるで本当の友達同士みたいなからかいの応酬。言葉はわかっているし、応答もしている。でもその意味合いとか、真意とかを、俺はほとんど気に留めていなかった。


 宗像の目に俺はたしかに映っている、それを確信もしている。

 だけど俺の目に今の宗像はまるで映っていなかった。希うのはあのときの言葉にできない表情、信じられないほどたくさんの感情を浮かべては消していく、あの宗像のことだけだ。


 ただ思考ばかりがぐるぐると脳裏を巡る。

 情動への強烈な渇望と、今すぐやめたほうがいいという本能的な警告。


(今ならまだ、間に合うかも知れない)


 引き返せる。戻ることができる。

 そうだ、ちゃんと本当のことを話して、謝って。

 今からでも宗像と、ちゃんとした本当の友達に──


 そのとき、ばしん、とドアが開いた。すごい勢いだった。

 反射的にびくんと肩が跳ねて、渦巻いていた思考が全部吹っ飛んだ。


 振り向く。そこにはあの日と同じ光景があった。

 荒々しくドアを押し開けた、宗像の父親。険しい表情が、宗像を見据えている。


 ため息をついた宗像がグラスを置いて、両手を後ろについた。


「……俺に嘘の予定ばっか知らせるの、やめてくれる?」


 冷めた声。淡々とした眼差しが父親のほうを捉えて、宗像は見たことのない顔をしていた。とても静かな無表情。

 父親は俺のほうを見もせずに、低く言い放った。


「二度としないんじゃなかったのか」

「……してないよ」

「雑な嘘をつくな」


 地を這うように低い声。俺のことなどまったく気に留めていないらしい、宗像の父親は激しく舌打ちする。宗像は父親の方を見ないまま、ただ淡々と空を見つめていた。


「嘘じゃない。ていうか普通、そこまでする? 嘘の長期出張装って、普段より大きいキャリーケースまで引いて出てさ」

「誰がそうさせてると思ってる」

「父さんだろ。俺のことちゃんと信用してれば、こんな──」

「信用しろだと?」


 途端に父親の声が跳ね上がった。あからさまに苛立ったような語尾に、俺はびくりと背を震わせ、胸元をぎゅうと握りしめた。

 室内に一歩踏み出し、父親がかすかに声を荒くする。


「どれだけ前科があると思ってる。そのたびに嘘だの言い訳だの弁明だの……なにが『すべて完璧にするからお願い』だ。挙げ句、少し目を離したらまた──」

「っ……やめろよ、人が来てるんだぞ」


 宗像がわずかに顔色を変え、俺を指差した。父親の、射るように尖った視線がすっと俺を捉える。

 びく、と反射的に身を強張らせて、だが眼光はすぐ宗像の方に戻っていった。いい加減にしろ、と押し殺した声。


「そうやって、人様を巻き込んで誤魔化そうとするな」

「だから俺はやってないって言ってる」


 完全に緊迫した空気に、俺はただ完全に硬直したまま、おろおろと事態を見守っている。


 やった、やってない、そう言葉を交わす親子は、『なにを』という具体的な単語をいっさい使わなかった。

 でも、俺にはわかった。脳裏をよぎる鮮烈な色彩、むしられ、散らばり、踏みにじられた、大量の。

 父親が忌々しげに表情を歪め、深いため息をついた。額に手を当て、ああもう、と言う。


「やっぱり静江の影響か……多少素行が良くなったからって、着替えの差し入れだけでも許可したのがいけなかった」


 その途端。宗像がばっ、と顔を上げた。見たこともない必死な顔。鋭い声音が響き渡る。


「ッ──母さんは関係ないだろ!?」


 悲痛な、ほとんどすがるような声だった。

 父親がぴくりと口をつぐんだ。俺もなにも言えない。それきり、静かになる。


 痛々しい沈黙の中、全員が言葉を失って固まっている。なんともいえない膠着状態。

 父親はひどく忌々しげな顔で宗像を見ているし、宗像は射殺さんばかりの目で父親を見上げている。


 ちかちかと、脳裏で蝶の死骸が明滅のように浮かぶ。

 この父子の諍いの本質を、他人には隠そうとした部分のことを、おそらく俺は知っている。


 どうしよう、と心の中で何度も唱えて、俺はただ、浅くなった息を何度も吸って、吐いて、最後に一瞬だけ止めて、勢いよく吸うと。


(俺、俺は──……)


「う……裏庭のこと、ですよね……っ!?」

「……っ!?」


 めちゃくちゃにひっくり返った声が出た。

 宗像と父親が、びくっ、と身体を固くする。父親が目を見開き、ゆっくりと俺を見た。

 その視線から逃れるように下を向き、ぎゅう、と胸元を握りしめる。俺は必死で、ひたすら言葉を絞り出した。


「か、かか、感染症で……! せい、成虫がいっぱい死んじゃったんです。さっき二人で、その、埋める、埋葬、しようとしたんですけど、途中で用事できて、今まで、忘れてて、そのままで、だから今も、えっと、あの、……っげほっ! かは、うう……」


 あまりにもたどたどしい言葉で息を使いすぎて、俺は苦しさに激しく咳き込む。

 半ば涙ぐみながら、そういうことなんです、と何度も繰り返した。

 ほとんどは咳に紛れて半分も言えていなかったが、意味は伝わったようだった。

 父親が、苦々しさを隠しもしせずに黙り込む。


 一方の宗像は、目を見開き、食い入るように俺を見つめていた。

 一点からまったく動くことのない視線が、まっすぐに俺を捉えている。その目の中に、驚き以外のなにが隠されているのかは、俺にはちっともわからなかった。

 父親が舌打ちして、一歩下がる。低い声。


「……三島くんに感謝しろ。次はない。私は社に戻る」


 それきり、ばしん、とドアが閉まった。

 荒々しく階段を降りる音が、戸板一枚へだてて聞こえてくる。

 それが小さくなって、聞こえなくなっても、部屋の中に音は戻ってこなかった。


 完全に静止した、気まずすぎる沈黙。時計の秒針の音すら聞こえそうな静けさだ。

 宗像はどこか中空を呆然と見つめていて、その整った顔立ちが、ゆるゆると伏せられていく。


 俺はその推移の全てを見届けると、とても小さく息をついて、体の力を抜いた。

 恐る恐る視線を持ち上げ、宗像を見る。なんの反応もない。おずおずと声をかけようとして、


「あの、むなか──」

「…………ごめん。三島」


 ぼそりと、消え入りそうに小さな謝罪が降ってきた。


 宗像は下を向いたまま、じっとしていた。

 そこにはいつもの完璧な男の影なんて一つも見て取れなくて、俺の見たことのない、一人の未成年が座っているだけだった。


 今、宗像はどんな顔をしているのだろう。

 その顔を見たいと痛切に感じて、きっと宗像はあの、俺の情動を強烈に揺さぶる目をしているのだと思った。


 でも、俯いた顔に手で触れて上げさせるほどの勇気を俺は持ち合わせていなくて、重く気まずい空気の中、ただ黙っているしかできない。


 沈黙は破られることはなかった。

 一切の言葉を失ったまま、日が暮れるまで時間が過ぎて。

 俺は宗像に一言だけ挨拶すると、一分ほど待っても返事がないのを確認して、ひとりで宗像のうちを出た。宗像の見送りはなかった。



 

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