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【完結・BL】転校生に学年トップを奪われたから弱みを握ろうと友達のフリして近付いたらとんでもない修羅場が待っていた  作者: Ru
【前編 / 03】 蝶のゆく先

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21

 その、次の土曜日。

 俺は朝からひとり、バスに揺られて病院に行っていた。


 どうもここしばらく、体調が良くなかったのだ。重だるいような感覚と、目の奥のじいんとする痛み、そして締め付けられるような頭痛。


 先日までは我慢できる範囲だったのだが、宗像の家で冷風に打たれたのがまずかったらしい。頭痛がひどくなっていて、勉強時に集中力が続かないようになってしまった。


 急な医療費は計画が狂う。できるだけ病院なんて行きたくなかったが、勉学に支障が出ては仕方ない。俺は諦めて、総合内科の診察室に座ることになった。


 諸々の症状を正直に告白すると、先生はなるほど、とやわらかく言って、電子カルテに文字列を打ち込んだ。タイピングはそのままに、柔和な顔がこちらを向く。


「じゃあ、いくつか質問させてもらえるかな」

「はい」


 俺の頷きに微笑むと、先生は症状がいつから出たかとか、普段の生活についてとか、あれこれと聞き出しはじめた。ここで嘘をついても仕方がないので、正直に答える。


 だが、俺が言葉を続けるたび、先生は表情を曇らせていった。おずおずと尋ねる。


「……あの。俺、どっか悪いんですか?」

「いや、そういうのじゃないけどね」


 遠慮がちな笑顔。先生はタイピングの手を止め、椅子をくるりとこちらに回した。

 やわらかな視線が俺を見つめ、うん、と小さくつぶやく。


「まあ、率直に言うと。睡眠不足と、栄養不足。それとたぶん、ストレスかな」

「……そう、ですか」

「心当たりは……あるようだね」


 優しげな瞳で呼びかけられ、俺は思わず首を振っていた。


「いえ、べつに……ない。ないです、なにも」


 膝の上の手を、ぎゅうっと握りしめる。そうかい、とやさしい声が降ってきて、俺は黙って頷いた。

 だって俺は別に、体調を崩すほどのストレスなんか、なにも。


 俺はとくに生活に困ったこともないし、勉強だって人並み以上にはできる。友達だって、今まではいなかったし、俺の方はそんなつもりもないけど、宗像はたぶん俺を友達だと思ってる。部活だって入った。U大だって行けるって言われてる。不安になるようなことはなにもない。


 ちら、と脳裏をよぎったのは、中間考査の成績個票のなぐり書き。

 違う、と心の中で唱える。最近はずっと、思い出すことなんかなかったのに。なんで今さら、こんな。


 うつむいて黙り込む俺に、先生はわかったよ、とやさしく言った。くるりと椅子を回転させ、マウスを握ってかちかちやりはじめる。


「栄養剤を出しておこうか。あと、そうだね……不安を取る薬とか、良く寝付けるようなものは必要かな?」

「い――いらない、です。そんなの、なくても……平気です」

「そうかい」


 じゃあ診察はこれでおしまいだ、おだいじに、と先生は笑いかけた。

 俺は立ち上がって、ぺこりと頭を下げる。荷物を持って、引き戸を開けようとして、そのとき。背後から、やわらかい声がかけられた。


「無理にがんばらなくてもいいんだよ。君が弱いわけでも、悪いわけでもない。君たちくらいの年頃は、とても繊細だから」


 そういうものさ、と先生が微笑む。

 俺はぐっ、と胸の底が詰まるような感じがして、大丈夫です、と早口で言った。

 なんとか表面上だけの笑顔を作る。


「問題ないんです。本当に」

「……そう。でも、また具合が悪くなったら、いつでもおいでね」


 先生はそれ以上はなにも言わなかった。

 俺は最後にもう一度だけお辞儀をすると、黙って診察室を出た。




 会計を通して、番号がディスプレイに表示されるのを待っているあいだ。

 俺はぼんやりと、先生の言葉を考えていた。


(君たちくらいの年頃、か……)


 そういえば、もう少ししたら誕生日だ。

 十七歳。選挙権もない年齢。


 規則的に三桁の数字を表示するディスプレイをぼうっと眺めて、俺は息が詰まるな、と思う。

 胸元をそっと押さえる。久しぶりに、自分のことを考えた。


 未成年ばかり集めた教室という箱の中でじっとタブレットを見下ろして、空っぽの身体に知識だけざらざら詰め込んで、かろうじて存在を留めている、なにもない自分。


 宗像と出会うまでは、誰の目にも映らなかった。今だって、家の中では俺は完全に透明で、いてもいなくても変わらない、むしろ気付かれすらしないに違いない。


 息が詰まる。呼吸がうまく入っていかなくて、俺はディスプレイを見つめたまま、細くなった息をただ繰り返す。

 忘れかけていた錨が抜け落ちて、世界が半透明になる感覚。足元が、どうしてもおぼつかなかった。


(……本当は)


 これでいい、なんて、本心から思ってない。でもどうすることもできない。

 どこかへ行ってしまうこともできない。なにかを変えることもできない。


 だって俺はまだ未成年で、本当は親の管理下にあるはずで、俺という人間はまだ、この社会に存在していないからだ。誰に見つけてもらうこともない、透明なままの。


 俺はなにもない、なんの意味も価値もない、ただ首から上が中途半端にできが良かっただけの、それすら宗像には敵わなかった、ただの大人になれない存在だ。


「……っ、はあ……」


 ため息をついて、むりやり思考を遮る。建設的じゃない。もっと役に立つことを考えたい。


 俺は鞄からタブレットを取り出して、ゲーテの続きを読もうとした。

 でも、先生の言葉がちらちらと脳裏をよぎって、俺の思考を邪魔してくる。ややこしい文面に目が滑って、そろそろ前半が盛り上がってくるところだと言うのに、俺はちっとも集中できなかった。


(違う――違う。ストレスなんかじゃない)


 これでいいなんて思わない、でも。

 どうしようもなく堪えているなんて、思いたくない。


 俺はまだ大丈夫だ。こんなの、もらった薬を飲んで、少し眠れば治るはず。

 何度も心中で唱えるうち、気がつけばディスプレイにはとっくに数字が表示されていた。

 俺は慌てて立ち上がって、会計機の列に並ぶと、三割負担の金額を札で払った。




 もやもやした感情のまま、病院を出ようとする。

 そのとき、自動ドアの向こうにちら、と見覚えのあるシルエットが見えた気がした。


 え、と顔を上げる。目を凝らす。

 頭ひとつ抜けた長身のてっぺん、短く整えられた髪が、人々の向こうに見え隠れしている。

 手前の人たちが動くたび、ちらと見えるのはあの、忌々しいほど整った男っぽい顔。宗像。


(な、なんで宗像が、こんなとこに……)


 俺は慌ててソファに座ると、さっと身を隠した。

 ガラス戸を抜けて入ってくる人影を、背もたれ越しにそろりと観察する。


 大股で院内を歩いているのはやっぱり、宗像その人だ。なにか紙袋を下げている。ちらと見えた中身は、日用品や着替えのようだった。


 これは――チャンスかもしれない。

 あの、どんなに頑張ってもドアを開いてはくれない男の、内側を覗き見るための、千載一遇の。


 俺はひそかに決意を固め、そろそろと腰を浮かせた。

 一定の距離を保ち、そっと後をつける。宗像はエレベーターの前に立ったが、なかなか来ない上に辺りが混んできたことにためらったらしい。ふいと身を翻して階段に向かった。俺もそのまま後を追った。


 外来の階を通り過ぎ、宗像はどんどん上へあがっていく。追いかける俺はといえば、正直息も絶え絶えだった。なんであいつ、こんなに淡々と同じペースで階段をのぼれるんだ。引き離されないよう、必死で追いかける。


 いくつも階段をのぼりつづけ、とうとう宗像がフロアに入った。人気のあまりない、静かな階だ。ちらと表示を見ると、宗像が向かうゾーンには脳神経外科と精神科があった。


 宗像は迷うことなくまっすぐに、精神病棟の奥まで進んでいった。突き当り、ガラスの自動ドアがあるところまで来る。だが宗像が前に立ってもドアは開かない。不思議に思って目を凝らすと、ドアの横に大仰なナンバーキーがあるのが見た。


(これってもしかして、閉鎖病棟……?)


 宗像は何度か時計を見ながら、たまにちらりと辺りを見回している。そのたびに俺は、角の向こうに慌てて身を隠した。


 そんなことを何度か続けたあと。自動ドアの向こうに、看護師を連れた一人の女性が現れた。

 パジャマ姿の入院患者。年の頃は四十半ば。宗像に良く似ている。おそらくは母親だろうか。


 宗像がほっとしたように表情を緩める。

 見たことのない、無防備な、ただの子供みたいな顔だった。


 嬉しそうに笑う宗像が手を振る。母と思われる人は振り返さない。ただこわばった表情で、じっと宗像を見つめている。


 看護師がなにかを操作して、ガラス戸を開けた。宗像が中に入る。すうっ、とすぐにドアは閉まって、彼らはガラスの向こう側に遠ざかっていった。それっきり、静かになる。


(これは……潮時、かな)


 さすがにこれ以上できることはない。なんとなく、宗像の事情みたいなものはぼんやりと感じ取れたが、今日のうちに詳細を知るのは難しいだろう。しょうがない。


「……帰ろ」


 ふう、と息をつく。妙にしんとした病棟を引き返した。


 がらんとした清潔な廊下を歩いて、エレベーターのボタンを押しかけて、あ、腹減ったな、と考える。

 ちらと時計を見た。今から帰宅して昼食を作るとなると、あとの勉強時間に食い込んでくる。先生にもああ言われた以上、少し仮眠も取った方がいいだろうし。


(なんか食べて帰ろ……)


 下のボタンをやめて、上に向かうボタンを押す。エレベーターはすぐに訪れた。やや混んでいる箱に乗り込み、最上階の食堂に寄る。いちばん安い定食弁当にするかどうか少し迷ったが、先生の言葉を思い出し、ヘルシーベジタブル弁当にした。


 弁当の味は、相変わらずよくわからなかった。ただ繊維質なものが多いな、とだけ思って、機械的に箸を運び、返却台に盆を戻して、俺はふたたびエレベーターに戻った。時間が経ったからだろう、下りのエレベーターは空いていて、俺しか乗っていなかった。


 ぼんやりと、壁にもたれて下降Gを感じていると、ポーン、とエレベーターが途中で止まった。ドアが開く。乗ってきた人物を見て、俺はぎょっと目を見開いた。


「三島……」

「む、宗像じゃん」


 宗像が、じっと俺を見つめている。なんとなくなにか言いたげな瞳から目を逸らして、俺は

「ええと……こんにちはって言うんだっけ、昼だし」

 なんて適当なことを言った。


 宗像は返事をせず、ただ大股で俺の傍に歩み寄ると、同じように壁に身をもたせかけた。

 無造作な腕組み。俺はそっと横目で宗像を伺った。彼はこちらを見ない。

 整った横顔が、淡々と言った。


「おまえ、さっき病棟で、俺のこと見てたろ」

「……っ!」


 ぎくり、とした。気付かれてたのか。


「あ、や、やっぱ宗像だったんだ。似た人いるなーって、思ったんだ……」


 俺はあいまいな作り笑いを浮かべ、あくまで偶然です、という風を装おうとした。

 宗像は表情を変えず、ただ視線だけをそっと投げてよこす。口元がかすかに歪み、なにかおそらく、問い詰める言葉が出るのだろう、と思って。


「お……お父さんには黙ってるから!」


 俺は早口で先手を打った。宗像の組んだ腕がぴくん、と動く。

 開きかけた口が閉じて、宗像はそれきり口をつぐんだ。視線が逸らされ、彼は黙って前を見据える。気まずい静けさ。


 ゆっくりとGがかかり、エレベーターがようやく一階に到着しようとする、そのとき。


「……頼むわ」


 ポーン、という高い音にかき消えるような声だった。

 えっ、と顔を上げる。ドアが開く。


 宗像がゆっくりと振り返って、行くか、と言った。

 いつも通りの声だった。でも、外の光がまぶしくて、宗像が普段どおりの顔をしているのかどうか、俺には見て取ることができなかった。


 ただ、うんと頷いて、俺は彼の後を追う。

 宗像にはなにか、この病院にまつわる事情があるのは明らかだった。それを知っているのは、今のところ多分俺だけだ。


(これで、もっとこいつの懐に入り込めるのかな……)


 浮かんだのは期待や喜びというよりは、むしろ不安とか恐れとか、焦躁に近かった。理由はわからない。


 いつもより少し早足の宗像を追いかけ、二人して病院前のバス停に向かう。後ろ姿の宗像は一度も振り返らなかった。


 長いベンチに腰掛けて、無言の手が、とんとん、と隣を叩く。俺は失礼して、とつぶやくと、彼の隣に腰掛けた。


 宗像はなにも言わない。こちらを見ることもしない。ただ静かな目で、膝の辺りを見下ろしている。


(う……気まず……)


 俺は何度も彼の様子を伺っては、あまりのノーリアクションぶりに視線を爪先に落とす、という行為を繰り返していた。


 いつもの宗像なら、俺がここまで挙動不審になっていたら、笑ったり、軽口のひとつでも言うはずなのに。彼はなにも言わなかった。


 長ったらしい沈黙。

 空梅雨の、うすぼんやりした曇り空。遠くからロータリーを回って、バスがやってくる。

 俺はそっと腰を浮かせようとして、だが、宗像がぼそりと呟いた。


「あれ、駅には行かないやつ」

「あ……」


 そ、そうなんだ、と腰を下ろす。落ち着かない。

 ぱっと見ただけで駅に行かないバスだとわかるくらいには、宗像はここに良く来ているらしかった。


 だがそれを追及していいのかどうか、俺にはうまく判断ができない。なんだかデリケートな問題が隠れている気がして、コミュ力が圧倒的に足りていなかった。


 だが、俺の問いたげな気配に耐えかねたらしい。宗像が、ふーっ、と長い息を吐いた。ちら、とようやく視線がよこされる。低い声が静かに言った。


「たぶん、見てたと思うけど。うちの母親、ここに入院してんだ」

「そ……そうなんだ」

「そう」


 それだけを言うと、宗像はまた黙り込む。

 目の前にバスが止まった。大きな車体が俺達の視界を遮って、あたりを一段暗くする。プシュー、と空気が抜ける音とともにドアが開いた。


 宗像は少し影のある表情で、黙っていた。それ以上なにも言わなかった。


 俺は彼のことを観察するのを止めて、以前家に行ったときのことを考えた。


 よみがえるのは、宗像の父親の顔だ。

 病院には行ってないだろうな、という言葉、強かった語気、俺がいるにも関わらず険しかった表情。

 なんとなく、面会を禁じられているのかな、と推察する。その裏にある事情はわからない。


 俺はバスを眺めながら、俺の今の立ち位置で、なにをどこまで聞いてもいいんだろう、と思った。

 ただ、たぶん今日はこれ以上のことは聞けない、それだけはわかっていた。


 バスのドアが閉まる。そのとき、宗像がぼそっ、とつぶやいた。


「……知識は、俺を裏切ったりしない」

「――えっ?」


 耳を疑う。完全に独り言のささやき、でも、その内容はたしかに、俺が何度も胸のうちで唱えていたものと、まったく同じ言葉だった。


 目を見開き、宗像の方に向き直る。

 彼は俺を見ない。言葉の真意はわからない。

 それでも、その横顔に見て取れる瞳の切実さだけは、嘘じゃないと思った。


(宗像も――なにか、抱えてるんだろうか)


 知識という、絶対に裏切らないものに心を預けなければ立っていられないような、なにかを。


 俺は宗像に言葉をかけることもできず、かといって、無視することもできなくて。

 彼の方を向いたまま、じっと座っていた。


 駅には向かわないバスが、エンジン音を立てて去っていく。薄曇りの雲が途切れて、日差しが差し込んでくる。

 まぶしさに目を細めた。俺の隣で、宗像が小さく息を吐いた。


 

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