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今、とても鮮烈な〝なにか〟に、触った気がする。
でもそれは本当に一瞬で、正体を捕まえることすらできず、まばたきより短い間に通り過ぎていってしまった。水の底から星が消えた。
(なんだったんだ、今の……)
どくっ、どくっと心臓が鳴っている。背中の真ん中あたりが貫かれたようにぞくぞくして、首筋の肌が粟立っていた。
無意識に二の腕をさすって、気がつけば完全に止まっていた息、かは、と喉の奥が音を立てる。
俺は自分の内側を通り抜けていった、完全に未知の感覚に混乱して、宗像が今どういう表情をしているか、まったく見ることができなかった。
ただざあざあと降る雨音が辺りを包んで、定期的に轟く雷鳴が、どうしようもない俺たちを包み込む。雨はまだ、止む気配はなかった。
────【前編 / 03】 蝶のゆく先────
カーテンレールの上に、びしょ濡れの制服がかかっている。
俺はじっとりと湿って色が濃くなった布地をぼんやりと見つめて、ベッドに横たわっていた。
リビングで乾かそうか悩んだのだが、どうせなら夜も除湿機が稼働している自室がいい。そう判断してここに吊ったものの、俺は早くも後悔しはじめていた。
濡れそぼった制服を見るだけで、あの衝動が何度も蘇って、ちっとも落ち着かないのだ。
そわそわと鼓動を主張する心臓。全身の肌がぞわりと鋭敏になり、まとわりつく服の布地の感触が、やけに鮮明になる気配。こくりと唾を飲み込む。
(あれは、なんだったんだろう……)
わからない。
あのあと、宗像は急に無口になった。
俺は俺でよくわからない情動にものすごくびっくりしていて、ろくに喋ることもできなかった。
お互いに言葉少なに雨宿りをして、小降りになったタイミングで、なんとなく立ち上がって、駅に向かった。歩くうちに口数は少しずつ戻っていって、電車の中で宗像はもう、すっかりいつも通りだった。
眼鏡がびしょびしょでろくに前が見えない俺に手を貸したり、最近興味のある分野について話したり、ちょっとした馬鹿話で笑ったり。あのときの感覚は夢か幻だったんじゃないかと思うほど、いつも通りだった。
でも、と思う。
そっと耳に触れる。透明な、シリコンの手触り。蘇る感触に、震えそうになる。
この場所にたしかに、あの指が触れた。
(……嘘じゃないんだ)
思い出すだけで、鼓動が早くなる。
とくとくと音を鳴らす心臓。肋骨のあいだ、心臓の上に手をおいて、息をした。
胸の底、あの感触が、まだかすかに残っている。
空っぽの内側をこすれて落ちていく、圧倒的な質量の、鮮烈な〝なにか〟。まるでさざなみのように、何度となくあの情動が蘇っては消えていく。宗像の表情が、何度も頭の中で繰り返される。
あのたった一瞬、まばたきよりずっと短い、刹那のあいだ。
信じられないほど沢山のものが、あの瞳の上に時間差で現れて、入り混じっては消えていった。
正と負とその真ん中を行き来する無数の感情、それら全てがぐしゃぐしゃに混じり合って、たったひとつの生きた情動が、目の前に晒されたような。
言葉にできない、明言などひとつもできない、俺にはまだその意味がわからない、あの表情。ぞくりとする。
あのとき。一瞬が永遠になったように感じられた。
瞬間というものが信じられないほど間延びして、時間の感覚が失われて。
爪の先に宗像の制服が当たった感触、上まぶたと下まぶたが触れるまばたきの速度、俺の呼吸のはじまりから終わりまでのすべての経緯、そのなにもかもが、ひどく生々しく感じられた。生きていると思った。
部屋の中、ぼんやりとした視界の中に、濡れた制服。床に敷かれた新聞紙が、雫を受けて色を濃くしている。あれを着ていた放課後の時間が、嘘みたいに感じられる。でも、嘘じゃない。
あれこれ考えるものの、あの情動の正体は、やっぱりよくわからなかった。ただあまりにも鮮烈で、圧倒的で、リアルだった。わかるのはそれだけ。
「……寝よ」
ふーっ、と細い息を吐く。眼鏡を外し、スマホのアラームをセットする。
明かりを消して、ごそごそと布団に潜り込んだ。
暗闇の中でうっすら浮かび上がる、濡れた制服のシルエット。妙に胸が騒ぐ。
俺は小さく息を吸うと、ごそり、と寝返りを打って、視界から制服を追い出した。
背中の向こうで吊られている存在を、つとめて意識から外そうとする。
目を閉じて、浅くなった息を無理やり吸い込む。心臓がうるさい。
その晩はなかなか寝付けなかった。
それでも五時起きだけはなんとしても死守して、俺は寝不足で痛む頭を振り払い、一時間半ほど勉強してから学校に行った。