16
次の日。
天気予報はおおむね当たったが、最後の最後、夕刻に、裏切りといっていいほどの大ハズレを見せた。
とんでもないゲリラ豪雨。
(は――晴れって、言ったじゃんか……!)
ぜえぜえと息が上がる。びちびちと制服に打ちつける雨が、いっそ痛いくらいだ。
水をまとってじっとりと重い腕を振って走る。一歩踏み出すたび、びしゃっ、と足の裏で水がつぶれる音がする。
少し先で、宗像が振り返って怒鳴った。
「三島、急げ!」
「わ、わ、わかっ、てるよ!」
息が上がって、返事ができない。半ばヤケクソのように叫んで、俺はもつれかける足を必死に動かした。どおん、と近くでものすごい雷が鳴った。
生研部の活動を終え、二人で駅を目指して歩いているとき、ぱらぱらと雨が降り出したのだ。
天気予報外れたな、と笑っていられるうちはよかったのだが、空はにわかに掻き曇り、雨粒はみるみる大きくなり、気が付けばバケツをひっくり返したような雷雨になっていた。一分もかからなかった。
あまりにも唐突な天候変化に呆然とする俺をよそに、宗像はやべっ、とつぶやくと、猛然と走り出した。
え、と口を半開きにする俺を振り返って、早く、と叫ぶ。俺は訳もわからず、豪雨の中を全力疾走するはめになった。
凄まじい雷の落下音。コンクリートに叩きつける土砂降りの雨粒で覆い隠されて、半径二メートルくらいしか見えない。
視界不良の向こう側で、ぼやけた宗像の背中が、ばしゃばしゃと雨をかきわけていく。
(ば、ば、バケモンかよあいつ……!)
この路面状況で、あまりにも足が速い。みるみる引き離される。あっという間に距離が離れる。
とうとう土砂降りのカーテンの向こうに、大きな背中が消えてしまいそうになった、そのとき。急に宗像が振り返った。
ばしゃばしゃと雨を踏み抜いて、宗像が戻ってくる。
引き締めた男っぽい表情に、あとからあとから伝う雨、それを鬱陶しそうに払って、宗像は舌打ちした。
「行くぞ!」
「あ――うわっ!?」
あまりにも俺がとろくさいのに、とうとう音を上げたらしい。
ぐっ、と手を掴まれた。濡れたてのひらが、ものすごく熱い。びくっ、と咄嗟に引きかけた手を力任せに引っ張られ、俺は思わずよろけた。
「ま、待って、待てって!」
「いいから!」
あまりにもすごい雨に、叫ばないと互いの声が聞こえない。ほとんど転ぶように引っ張られ、俺は飛ぶような速度で走るはめになった。
信じられないほど一歩がでかい。雨粒がびしゃびしゃ顔に当たっていく。速度が自転車かよ、こいつ。
だが、それも長くは続かなかった。というか、続かなかったのは俺の息だった。
凄まじい速度で土砂降りを走り抜け、俺の息はどんどん上がっていく。
ぜえぜえと息を切らせて、待って、と叫ぶことすらロクにできなくなって、宗像はようやく俺が静かになったのがおかしいと気付いたらしい。え、という顔で振り返った。
「も、だめ……し……ぬ」
「死!?」
ぎょっとした顔をされる。いや、本当に死にそうなんだって。
吸っても吸っても酸素が足らなくて、吐く息が追いつかない。足ももつれて、まだ転倒してないのが不思議なくらいだ。
俺のべしょべしょっぷりを見て、宗像はちっ、とまた舌打ちをした。方向転換。ぐん、と手を引かれ、身体が九十度ターンする。大股が道を外れる。
どうやら、駅を目指すのは諦めたらしい。宗像は道から出て、川べりに突っ込んだ。
雑草まみれの斜面をざっ、と滑り降りる。当然、手を引かれた俺も道連れだ。
「うわ、うわ、うわぁああ……!?」
もう、ソリのないソリ遊び、みたいな無様な滑り落ちかた。
一方の宗像はうまく重心をコントロールして、ざっ、と河川敷に着地している。運動能力の差がすごい。
「うぐ……っ」
どしゃっ、と河川敷の草むらに尻で着地する。いたた、という間もなく、ぐい、とすごい力で引っ張り上げられた。もうこれ、連行とか乱暴とか、そういう言葉がふさわしくはないだろうか。
そのままずんずん奥へと連れて行かれる。そうして、大きな橋の下まで来たあたりで、宗像はようやく足を止めた。ふーっ、と安堵したような息をついている。
「っ……っ……は、はあっ、は、……っ!」
俺はといえば、息も絶え絶えだ。
あまりにもバカみたいな土砂降り、バカみたいな全力疾走と、バカみたいな斜面落下。ひどすぎる。
「ば、ば、……バ、カ……っ!!」
正直、あらんかぎりのボキャブラリーで罵ったって許されると思った。だが俺の喉から搾り出されたのはたった一言で、それすら、ぜえぜえ切れる息のせいで、ほとんど言えていなかった。
膝に手をつき、背を丸め、なんとか息を吸い込むも、苦しくてたまらない。
俺はどしゃっ、とその場に座り込んだ。どうせびしょびしょなのだ、今更地面に腰を下ろしたところで、大差なんてない。
がっくりと俯いて、ぜは、ぜは、と息も絶えんばかりに喘いでいると、ふは、と宗像が吹き出す音が聞こえてきた。
「ふ……は、はっはははは! ひっでえ!」
「なっ……!」
笑うか、そこで。よりによっておまえが。
ほとんど殺意を込めてきっと顔を上げる。
宗像は、肩を揺らし、腹を抱えて爆笑していた。雨でぐしょぐしょだからわからないが、下手したら涙ぐんでいそうな勢いだ。
(そういえば、こんな宗像、初めて見るかも)
宗像は愛想もいいし、礼儀正しいけどフランクだし、とっつきやすくてよく笑う。でもその振る舞いはどこか〝制御が効いている〟感じがあって、ここまで感情的に大笑いするのは、一度も見たことがなかった。
くははは、とまだ笑いを引っ込めることができないまま、宗像が俺の隣にどさりと腰を下ろす。持っていた鞄を投げ出して、はー、と半笑いで息をついた。
宗像の大きな手が無造作に髪をかきあげて、聡明そうな額があらわになる。普段隠れているそこが目の前にさらされて、なぜか一瞬だけ心臓がどきりとした。
咄嗟に逸らそうとした視線、だが一歩遅かったらしい。ばちっ、と視線が交わった。宗像が、少しだけ真面目な表情をする。
「タブレット。大丈夫か」
あの世代、生活防水じゃないだろ。
当たり前のようにそう言われ、俺は目を丸くする。え、と半開きになった口、宗像が控えめに言う。
「買い換えないってことは、大事にしてるんだろ」
「そ……え……あ」
うまく言葉がでない。
あんなに無茶苦茶な走り方をしたのは、そのためだったのか。
俺は呆然とうなずいて、もたもたと鞄からタブレットを取り出した。鞄もぐっしょり湿っているため、取り出すのに苦労する。
だが中身は思ったより悲惨なことになっていなかった。身体側のほうなんて、ほとんど濡れていない。念のため画面を起動させてみると、なんの問題もなくゲーテが表示された。ほっとした。
「大丈夫みたい」
「そりゃよかった」
はあっ、と宗像が息を吐く。しっかりした厚みのある胸板、ぴったりとシャツのまとわりついたそこが、いつもより早く上下している。どうやらあの全力疾走は、宗像にとってもそれなりの負荷がかかっていたらしい。
(俺のタブレットのために、わざわざそこまでする、とか)
どれだけ完璧人間なんだ。そう思って、だがいつものような反発心は、不思議なくらい湧いてこなかった。
もそもそと鞄にタブレットを戻して、俺は小さくつぶやく。
「そ……その……ありがとう」
「なにが」
「いや、だからその……」
そっと顔を上げる。だが、宗像の表情は『俺が早く雨宿りしたかったから走っただけ』という様子を作っていて、俺はそれ以上突っ込むことができなかった。うん、とだけ言って、下を向く。
ざあざあと雨が振っている。橋の下、しめった地面に座り込んで、橋の縁からは滝のように水が降り注いでくる。定期的に空がぱっと白くなり、秒もしないうちに落ちてくる、ものすごい雷鳴。
ぽた、ぽた、と膝の上に雫が垂れた。髪がべしょべしょで、額や頬に張り付いて、少し気持ち悪い。俺はそっと髪をかきあげて、耳にかけた。ちか、と指先に触れる、透明ピアスのシリコンの感触。
「はー……すごかった。いつ止むんだろう」
な、と呼びかける。だが宗像は返事をしなかった。身じろぎの気配すらなかった。
「宗像?」
「……」
顔を上げる。
そっと横を向くと、宗像の静かな目が、じっと俺を見つめていた。
何度か見たことのある、色のない、不思議な、よくわからない表情の瞳。
もう一度、宗像、と呼ぶが、返事がない。
宗像はただあの瞳をしたまま、じっと俺を見つめている。なんだ。
宗像が、そっと身を乗り出してくる。
地面についていた手、それが動いて、視界の端から、無骨な指先がゆっくりと近づいてくる気配。
「……っ!」
大きな手が、頬の傍を通り過ぎて、指先がそろりと耳に触れた。正確には、俺のピアスに。
耳たぶごと軽くつまむようにされて、俺はどうしたらいいかわからなくなる。
「む……宗像?」
どうしたんだよ。そう続きを言うことはなぜかできなくて、俺はおずおずと彼に手を伸ばす。
触れられた耳、その指先に、ほんのかすか、力がこもる気配。
そして俺の指先が、宗像の肩に触れるか、触れないかの、一瞬の刹那。
「――あ、……」
宗像が、はっ、と我に帰ったように俺を見た。その、言葉にできない表情。
(……あっ)
その顔を見た瞬間。
音を立ててなにかが光った気がした。
正と負とその真ん中を行き来する無数の感情、その全てがぐちゃぐちゃに混じり合って、たったひとつの生きた情動が、目の前に晒されたような、顔。
見たこともない宗像の、よくわからない、明言などひとつもできない、俺にはまだ意味の取れない表情。
たった一瞬だけ見えたそれが、まっすぐに俺の中へと落ちてくる。
透明で、曖昧で、いずれ無くなってしまう俺の姿を、この世界に留めてくれるもの。それがずっと欲しかった。
空っぽな俺の中に落ちてきたものが、内側にこすれていく、かすかな感触。俺の知っていた〝本当〟。
いつもなら神経をそばだてないと感じ取れなかったはずのそれが、信じられないほどの鮮烈さで、俺の内側に火花を散らした。落ちてきた、と思った。
水底へ流星のように落下する、圧倒的な質量。詰め込んだ知識とは比べ物にならない、強烈な〝本当〟の実感。たったひとつ、リアルな、真に迫った、嘘のない、ほんとうの――〝なにか〟。
(なんだ、これ――)
正体などわからない。
情動の名前を知らない。
ただ圧倒的なリアルだけが、俺の内側をこすれていって、ちかちかとまばゆい光を放っている。
俺は呆然と目を見開いて、言葉を失って。
目の前の宗像が震えながら息を呑むのを、ただじっと、バカみたいに見つめていた。
雷鳴が一度、豪雨の音にまじって、激しく轟いた。