15
あの『外出』以降も、生研部は平穏だった。
宗像と過ごす放課後は平和で、たまに面白事件なんかは起こるものの、おおむね順調だった。
本当に少しずつではあるものの、他のクラスメイトよりは、宗像に近付けている実感がある。問題はなにもなかった。
深夜、自室にて。
俺はひとおおりの学習を片付けて、ちょっとした〝課題〟に精を出しているところだった。
手元には電子書籍。見下ろしたゲーテは相変わらず、なかなか進みを見せてはいない。
正直なところ、文体が本当にまどろっこしくて、読んでいるとモヤモヤしてくるので、どうしても他の本ばかりに手を出してしまうのだ。
とはいえ、せっかく買った本を、途中で挫折するのはなんだか嫌だ。なのでちょっと我慢して読み進めている。これはもう、読書というよりは〝課題〟と言った方が正しかった。
この難解かつ周りくどい訳文はたぶん、原文が韻を踏みまくっているせいだろう。
日本語でもなんとか韻を踏んだ上で意味をきちんと翻訳しようとする努力は認めるが、正直ものすごく読みにくい。腰を据えて意味をとらないと、どうしても目が滑る。
はー、と何度目かになるため息を漏らし、俺はいったんディスプレイから顔を上げた。
宗像はこいつを読破したらしいが、何日くらいで読み終えたのだろう。たぶん俺よりは早いだろう。
「時よ止まれ、この瞬間こそは美しい、か……」
有名なセリフをぽつりとつぶやく。
主人公ファウストがこの言葉を口にすれば、悪魔との契約は果たされて、彼の命はそこで終わる。その魂は悪魔に奪われ、死後の世界で永遠の召使いとなる。そういう契約だ。
彼はあらゆる叡智をその身に詰め込んだが、それでも満たされることはなく、契約をもちかけた悪魔と共に、手を取り合って旅に出るのだ。
そしてファウストは知識欲と縁を切り、めくるめくような刹那の情動を求めていく。
この一瞬のためなら、命も魂も捨てていい。そんな瞬間があるというのなら、契約の台詞を言ってやろう、とファウストは言った。
この文面を見たときは、それはがっかりしたものだ。
せっかく人智のしもべとして、あらゆる知識を得たというのに。たった一瞬の刹那のために知識を捨て、魂すら捨ててもいいだなんて。愚か者のすることだ。
(俺には、まったく理解できない)
一瞬のために未来を捨てる。そんなのは常識で考えてもおかしいだろう。
少なくとも俺だったら、そんなバカな選択はしたりしないのに。
とはいえ、俺の未来なんてものは、半透明な水の向こうに見え隠れする蜃気楼と一緒だ。
曖昧な世界認識の中で、あってもなくても変わらない、そんなもの。
だって誰も俺の未来に、期待なんてしていないのだから。
そのとき、ふと胸に宗像の顔がよぎった。
あいつは、自分の未来についてどう考えてるんだろう。
あれだけ出来のいい男なのだ、将来の進路だって、職業だって選び放題に違いない。おそらくは志望校だって、しっかり決まっているだろう。
なんとなく惰性でU大を目指している俺とは、きっとぜんぜん違う。
もやもやとしたものを抱えて、かすかに下を向く。宗像のものとは違う、なまっ白い、痩せた腕が目に入って、うんざりした。
「……俺は……」
俺は、なんだ。
続きは出てこない。意味のないつぶやきだった。
足元が、不安定になってしまいそうになる。
打ち込んだ錨がかすかに揺らぐ、心許ない感覚。
宗像といると、ときおり、自分がなにもない人間だということを痛いほど思い知らされる。
それなのに宗像といると、ときどき、自分が空っぽな存在だということを、忘れてしまいそうにもなる。
よくわからない。息が詰まって、もやもやする。
俺は小さくため息をつくと、電子書籍のディスプレイを落とした。
今日はだめだ。明日にしよう。こうやってずるずる読破が遠ざかっていくのだとわかってはいたが、どうしても気乗りしなかった。
ぼすっ、とベッドに横たわる。ぼんやりとスマホを取り出して、天気予報をチェックした。
明日は梅雨の晴れ間が覗くらしい。どうせ今年は空梅雨なのに、これも一種の決まり文句か。
(明日は晴れるでしょう、か)
そのとき、ふと、私服の宗像が脳裏に浮かんだ。
――晴れてよかったな。
乗り換え駅、改札の内側で待ち合わせて、窓の外を軽く眺めて宗像はそう笑った。
あの休日はたしかに、ごくわずか、少しだけ、ほんのちょっと、楽しかった……と言っても、過言ではない気がする。たぶん。
明日は晴れ。それはたぶん、良いことなのだろう。
俺にはまだ、よくわからないけれど。
横たわったまま、淡いブルーグレーのカーテンを眺めた。
その向こうは今、曇っているのだろうか、星が見えるのだろうか。わからない。
ただ、明日は晴れだ。宗像が喜んだ天気。
「……寝よ」
リモコンを操作して、部屋の明かりを落とす。
スマホのアラームが生きていることをチェックすると、俺はごそごそ布団にもぐりこんだ。
まぶたの裏、笑っている宗像の表情がちらついて、だけどそれもすぐに消えた。