第七章 格闘技の原点、そしてバックボーン
ある日、中学校の裏庭で、三人の男子生徒に囲まれ、暴力を受けている少年がいた。
胸ぐらを掴まれ、みぞ落ち近くを殴られていた。
その少年は、声も出さず三人の男子生徒を睨みつけていた。殴られても、殴られてもずっと睨みつけていた。
三人の男子生徒に、お金の無心をされていたのだ。しかし、その少年は何度無心されても、殴られても、彼らの言う事は聞かなかった。
その場面に、偶然隣のクラスの椎名圭介が通りかかった。
「おい、やめろよ。三人で一人を殴るなんて卑怯じゃないか」
「お前には関係ねえよ。お前も痛い目に合いたいのか」
圭介は一人の男子生徒の胸ぐらを掴んだ。そして、三人を睨みつけた。二人の男子生徒が圭介に殴りかかって来た。圭介は二人の男子生徒の足に蹴りを入れた。二人の男子生徒はその場にうずくまり、しばらく立つことが出来なかった。
三人の男子生徒は弱々しい声で、圭介に謝った。
「謝るのは俺じゃねえだろう、こいつに謝れよ」
三人は殴った少年に謝り、足を引きずりながら裏庭から立ち去った。
「お前、隣のクラスの黒川翔太だろ」
「エッ、俺の事知っているの」
「知っているよ。お前、頭がいいんだって、学校中の評判だよ」
「俺、頭は良くないけど、でも助かったよ。ありがとう、名前聞いてもいい」
「俺か、椎名圭介って言うんだ。頭は悪いけど体には自信があるから、またいじめられる事があったらいつでも言って来いよ」
「うん、ありがとう」
これが翔太と圭介の出逢いだった。
それからの二人は、一緒に過ごす時間が多くなり、翔太のいじめもなくなっていた。
ある日、翔太は圭介に誘われ圭介の家に遊びに行った。玄関に入ると、隣から賑やかな音が聞こえた。
「翔太どうしたの」
「なんかすごい音がするんだけど、何にやってるの」
圭介は翔太の手を引っ張り、隣の建物に入った。数人の男女がグローブをつけ、ミット打ちスパーリングをしていた。
「お前んち、ボクシングジムしてるんだ、強いわけだな」
圭介の父親はボクシングジムを経営しており、元プロボクサーでチャンピオンベルトも持っていた。
「翔太、お前もやってみるか」
「うん、いいの、やってみたい」
翔太は初めてグローブをつけた。圭介の声に合わせ、サンドバックを叩いた。気持ち良かった、爽快だった。その余韻が忘れられずボクシングがしたいと強く思った。
翔太は夕食が終わると、父親の書斎をノックした。
「お父様、お話があるのですが」
「話、翔太から話とは珍しいな」
翔太の父親は笑みを浮かべ、読んでいた本から目を離し、老眼鏡を机に置いた。
「僕、やりたい事があるんです」
「やりたいこと、それはなんだ」
「あの、あの・・・」
「どうしたんだ、はっきり言いなさい。言いにくいことなのか」
「いえ、あのボクシングを習ってみたいのです」
「ボクシング、なんと殴り合いでもしたいのか」
「いえ、殴り合いではありません。体はもちろんですが、精神を鍛えたいのです」
「うーん、勉強はどうするのだ」
「もちろん勉強も頑張ります。ボクシングのせいで、成績を落としたりはしません。約束します」
翔太の父親は、大学病院で外科の教授をしていた。地域医療に貢献し、社会的にも認められる立派な医者であった。
子供は自分の持ち物ではない、子供に期待や夢があっても、子供の意思を尊重し、本人主体の成長を望むという教育方針だった。
翔太はそんな父親が大好きで尊敬していた。
「自分で決めたことだ。反対はしないが、お母様に心配かけないよう約束できるか」
「はい、約束します。お母様には、絶対心配かけません」
母親は、ボクシングに猛反対だった。しかし、夫に説得され反対することができなかった。
「あんな野蛮なこと、不良の集まりがすることですよ。怪我でもしたらどうするの」
「お母様、その点は大丈夫です。僕のそばには立派な外科医が付いています、心配しないで下さい」
翔太は笑って言った。
「お父様のこと言ってるの。理解のあるお父様がいてあなたは幸せ者ですよ、お父様には感謝しないとね。でも、怪我だけはしないで頂だい、約束よ」
翌日から、圭介の父親が経営するジムに通うようになった。圭介を見ながら、いつかは対等に闘えるボクサーになりたいと強く思った。
物心ついた頃から覚えた圭介の格闘技は、到底足元にも及ばなかった。しかし、圭介とのスパーリングがとても楽しかった。
圭介のパンチをもらいながら、二人の絆も強くなって行った。
ある日、翔太は担任に呼ばれた。
「黒川君、どうしたの、成績下がってるけど何かあったの。このままでは志望大学に入れないよ」
「はい、自分でも分かっています」
「じゃあ、自分でも分かっているのだったら
する事は分かっているよな」
「はい、分かっています」
翔太は職員室を出ると、すぐジムに向かった。担任の言葉、それよりも勉学とボクシングを両立できない自分に、父親との約束を守れない自分に腹が立っていたのだ。
ジムに着くと、圭介が待っていてくれた。
二人でスパーリングをした。気持ちの良い汗をかいた。
「翔太、今日はすごいよ。パンチがメチャクチャ重くて、俺、やられるかと思ったよ」
「そっかあ、ちょっとむしゃくしゃしていてね。圭介、学校はどう」
「うん、ぼちぼちかな。翔太の学校と違ってこっちは落ちこぼれの集まりだからな」
圭介は笑いながら言った。
練習後、二人は公園の片隅にいた。
「なあ、圭介、圭介は高校卒業したらどうすんの」
「う~ん、俺、頭悪いし、勉強も嫌いだし、小さい頃からずっとやりたい事があるんだ」
「分かってるよ。プロボクサーになりたいんだろう、圭介だったらなれるよ。ボクシングのセンスいいもん」
「翔太はどうすんの」
「俺かぁ、今悩んでる。ボクシングメチャ好きだけど、将来が心配なんだ。大学出て医者になろうかと思ってる。俺の父親、医者してるだろう。すごく尊敬してるんだ」
「そっかあ、諦めるのはまだ早いと思うけどどっちにしても俺は翔太を応援するよ」
翔太は家に帰って、これからのことを真剣に考えた。ボクシングは好きだけど、将来の生活設計を考えた時、ボクシングでは無理だと思った。
長男は医者になり、次男は医学部で頑張っている。やっぱり医者になるしかないのか翔太は悩んでいた。しかし、心とはうらはらでボクシングを諦められない自分がいた。
翔太は、暴力は好きではない。しかし、この二年のジム通いで多くの刺激をもらっていた。
アマチュアの試合をするたび、試合の流れを考えていた。
「この技は無謀なのか、それとも先見の明なのか」
翔太は試合をするたび、体だけではなく頭で考えながら試合の流れを作っていたのだ。
それから一週間後、翔太は、父親の勤める大学病院の待合室にいた。
待合室で多くの患者を目にした。家族が心配そうに付き添う姿をしばらく見ていた。
外に出ると救急車に出くわした。血まみれになった患者が運び込まれ、ストレッチャの上では医者が心肺蘇生をしていた。患者の流れる血の臭いが廊下を生臭く漂わせていた。
医者、看護師は一人の命を救うためにその瞬間と闘っていた。
その修羅場を見た翔太は、
「俺って、ちっぽけな人間だよな。自分の事しか考えてなかった」
悩んでいた翔太の心に変化が見えた。その足で、ジムの前に立った。ジムに入ると、先ず圭介の父親の元に歩みよった。
「会長、言いにくいのですが、ジムを辞めようと思います。将来を考えると、今が一番大事な時期で、両親にも心配かけたくないんです」
「悩んでいる事は圭介から聞いていたよ。このジムの中でひときわ目立っていたし、アマチュア戦でも無敗だったからな、残念だよ。でも翔太の人生だ、やめても圭介とは仲良くしてくれよ。医者の友達がいるって鼻が高いからな」
「はい、もちろんです。色々お世話になり、ジムの皆さんにも優しくして頂きました」
「それはお前がいい奴だからだよ。ここで鍛えた体で、今度は医療現場で闘うんだな」
圭介の父親は、力強く圭介の肩に手を置いた。
「はい、ありがとうございます。ここで鍛えた体で患者さんと向き合います」
ジム生が翔太を囲んだ。
「皆さん、ありがとうございました。すごく楽しかったです。一日も早くプロ目指して頑張って下さい」
「淋しくなるな~。むしゃくしゃした時は、いつでも俺たちを殴りに来いよ。待ってるからな」
「はい、ありがとうございます。殴りに来ます」
ジム内は大きな笑い声で和やかだった。
翔太は、最後に圭介の手を握り、
「圭介、ありがとう。あの中学校の裏庭の事絶対忘れない。あの裏庭の事があったから、俺、圭介と出会えたし、ボクシングも好きになれたんだよ」
「何に言ってんだよ。ボクシングやめたからって、俺たちの関係も終わっちゃうのか」
「そうよだな、もう少し考えてみるよ。圭介じゃあ、またな」
翔太は圭介の父親、ジムの仲間たちに別れを告げた。そして、外からずっとジムを眺めていた。居心地がよくて、なかなか離れられなかった。
翔太は格闘技を諦め、医療の道に進んだ。
時は過ぎ、救命センターで働いている翔太の姿が見えた。医療でも一番ハードな救命医療に自ら志願し、三十時間を超える勤務は珍しくなかった。ボクシングで鍛えた体が、医療現場でも生きていたのだ。忙しい毎日ではあったが、命と向き合い充実した日々を送っていた。
ある当直の夜、同僚が医務室でテレビを見ていた。ボクシングの試合を中継していた。
「翔太、見てみろよ。こいつ、メチャ強い。格闘技界を賑わせている奴だよ。ほんと、天才だよな」
翔太は画面に釘付けになった。目の前に、あの圭介がいた。たくましく力強くなった圭介がいた。
翔太は嬉しかった。圭介は夢を叶えていたのだ。
「この格闘家、椎名圭介だろう」
「そうだよ。エッ、翔太知ってるの。お前、格闘技には全然興味ないと思っていたよ」
「同級生なんだ。すごくいい奴なんだ」
「そうなんだ、同級生なのかあ。会ったらサイン貰ってくれよ」
「会う機会があったらね」
翔太はジムを辞めてから圭介に一度も会っていなかった。大学時代は勉学に、医者になってからも高度な技術を習得するため勉学、医療現場とハードなスケジュールをこなしていたのだ。
翔太はいつも通り、患者のために救命救急室で命と闘っていた。しかし、テレビで圭介の試合を見て以来、体に染みついたあの感触がよみがえっていた。圭介の闘いのシーンが夢にまで出て来るようになっていたのだ。
「圭介、強くなったなあ。才能はあったけど圭介も努力して来たんだよな。すごいよ、圭介。お前見て、またボクシングやりたくなって来た。まじ、やりてえよ」
翔太はボクシングを忘れていた訳ではなかった。翔太の心に閉ざされていた物が、息を吹き返えそうとしていた。
「今なら、年齢を考えてもまだ間に合う」
その思いが翔太を苦しめた。
ある日、翔太は父親を居酒屋に誘った。
酒を吞みながら、今の正直な気持ちを父親に話した。すると、父親は笑いながらボツボツ話し始めた。
「翔太、お前がいない時、お前の部屋に何度か行ってみたんだよ。グローブは無造作に置かれていたが、不思議なことに、一ミリのほこりもついていなかった。お前は毎日あのグローブを磨いていたんだろう。その時思ったよ。翔太はボクシングを忘れていない、いつかこんな日が来るんじゃないかと覚悟していた。たった一度の人生だ、好きなだけ格闘技をすればいい。もし駄目だったら、また医者をすればいいじゃないか。挑戦することは大切な事だ、過去を悔やむのだったら夢を追いかけるのも人生だ」
翔太は父親の言葉がありがたく、父親がとてつもなく偉大な人間に思えた。
そして翔太は、人目をはばかる事なく大きな声で、
「俺の父親は偉大だ。素晴らしい父親だ、俺も父親みたいな人間になる」
本当に、素直な気持ちが言葉に出た。
「おいおい、翔太やめなさい。恥ずかしいじゃないか」
二人は遅くまで酌を交わした。親子ではなく、男と男の酒であった。
翌日、翔太は外科部長室をノックした。
「はい、入りなさい」
外科部長は、学会の資料作りで忙しそうにしていた。
「黒川先生ではないですか。私の論文の手伝いをしに来てくれたのですか。まあ、座りなさい」
外科部長は、静かにソファに座った。
翔太は立ったままで、辞表を差し出した。
「これは、辞表じゃないですか。黒川先生、何があったのですか」
「いえ、何もありません。やりたい事をしたいだけです」
「やりたい事、それは何なんですか」
「今は言えません。病院には迷惑おかけしますが受理して下さい」
「これは困りましたね。黒川教授はご存じなのですか」
「はい、父、いえ、黒川教授には許可を頂いています」
「エッ、もう一度聞きますが、黒川教授も納得の上の辞表なんですね」
「はい、誠に申し訳ございませんが、受け取って下さい」
翔太は、晴れ晴れとした気持ちで外科部長室を後にした。
それから二カ月後、救命センターに翔太の姿はなかった。