第六章 恵民署での活躍
あれから二年の月日が流れていた。
翔太の髪は黒く伸び一つに束ね、恵民署で皆と仲良く働く姿があった。
「ショウタ、ショウタ」と村人が翔太を呼びかう声が恵民署だけではなく、村中でも聞こえるようになっていた。
翔太は流暢に朝鮮語を話していた。この二年で、ハンギョル、スア、イルム、ソヨナも日本語を少し話せるようになっていた。
翔太は山に登るのが大好きだった。スアと薬草を採る時間がとてつもなく好きで幸せな時間であった。
翔太が、「さくら」の歌を口ずさんだ。
「さくら、さくら、やよいの空に・・・」
それを聞いていたスアが、
「それはなんて言う曲なの。心地良い音色だわ、私にも教えて下さる」
いつからか、スアの「さくら、さくら」がいたる所で聞こえるようになっていた。
ある日、恵民署に老人が運び込まれた。心肺停止の状態で、ハンギョルがその老人を診ていた。しかし、脈を打っていない、息もしていない、心肺停止の状態である。
翔太は慌てて、心肺蘇生を行った。心臓マッサージを行い、人口呼吸も行った。すると
その老人は「フッ」と息を吹き返した。口から異物が出て来たのだ。何かを喉に詰まらせたようだ。
それを見ていたハンギョルは驚き、翔太の顔を見た。そして、尋ねた。
「ショウタ、お前は何をしたのだ。どうやってこの老人を助けたのだ」
「はい医官様、心肺蘇生をしたのです」
「心肺蘇生とはいかなる物だ」
翔太は心肺蘇生法について説明した。
ハンギョルは信じがたい表情ではあったが、その方法を書き留めた。
それを見ていた村人が我も我もと、心肺蘇生の仕方を学びたいと恵民署にやって来た。薬草も鍼も使わず、瀕死の人間をいとも簡単に助けたのだ。ハンギョルや門下生だけでなく、村民の驚きも尋常ではなかった。
翔太は、恵民署で心肺蘇生を教えた。村人は熱心に学び、心肺蘇生法を習得した。
「皆さん、これをしたからと言って、全ての人が助かる訳ではありません。これは、応急処置なのです」
村民たちは、翔太の説明などうわの空で、「これで助かる、助かる」
村民はそう言いながら、皆笑顔で帰って行った。
ハンギョルは翔太を呼んだ。
「ショウタよ、もうお前は山に行かなくてもよい、雑用もしなくて良い。今日から私と一緒に働くのだ」
「えっ、今日から医官様の元で働けるのですか」
「そうだ、私と一緒に民の命を救うのだ」
山登りが好きな翔太は、スアとの時間が少なくなると思うと淋しかった。しかし、その頃の翔太は、李氏朝鮮時代の医学に興味を持ち始めていたのだ。
翔太は村民の命を助けるために、漢方医学を学んだ。書物はハングル文字ではなく、漢字でうめられていた。
その漢字はほとんどが難読漢字であった。しかし、賢い翔太には多くの時間は要しなかった。
ある日、昏睡状態の男が恵民署に運ばれて来た。体が熱い、声かけに反応しない。かすかに息をしているだけだ。その傍らで、五歳くらいの娘が泣いていた。翔太は、その娘の頭を優しく撫でた。
ハンギョルは、その男の体を隅々まで触診していたが、右耳の後ろのところで、手が止まった。
「ショウタ、ここを触ってみなさい」
「はい、医官様」
翔太が男の右耳の後ろを触った。
「医官様、どうも腫れているようです」
「確かに、腫れている。中に何か入っているようだ」
「医官様、この男、私に預けてもらえませんか」
「ショウタよ、お前には治せるのか」
「分かりません。しかし、このままだとこの者は数時間で息絶えてしまうでしょう」
「分かった。お前に任せるとしよう」
それを聞いていた門下生のミョジュンはいい気持ちではなかった。
「師匠、いけません。資格のないこの者に任せるとは、この者を直ちに恵民署から追い出して下さい」
「ミョジュンよ。今の私ではこの男を助ける力がないのだ。ショウタに任せてみようではないか」
ミョジュンは腹立たしい気持ちを抑え、ハンギョルの指示に従った。
「医官様、この男を助けるために準備して頂きたい物がございます」
「薬草か、必要な物すべて言いなさい」
「はい、薬草も必要ですがこれから言う物を揃えて頂きたいのです」
「分かった、何でも言いなさい」
「はい医官様。小刀と綿、そして縫い針を用意して頂きたいのです。糸、できれば絹糸をお願い致します」
「ショウタ、何を縫うのだ」
「医官様、これから私のする事を黙って見ていて下さい。驚かないで下さい、医官様はただこの者を鍼で眠らせ、これから私がする手技を書き留めて頂きたいのです」
「分かった、やってみなさい」
スアが縫い針と絹糸を持って来た。そしてイルムに、その針を現代の縫い針の形を説明し、曲げるように頼んだ。
「兄貴、分かった。曲げればいいんだな」
「そうだ、イルム、頼んだぞ」
恵民署は慌ただしく、いつもの恵民署とは違い、皆が忙しく行ったり来たりしていた。
イルムが針を持って来た。
「兄貴、持って来たよ。これでいいのか」
「そうだ、イルム、ありがとう、上出来だ」
次に翔太は、スアに小刀、鍼、絹糸、を沸騰したお湯の中に入れるよう頼んだ。そしてケタンに、焼酎を持ってくるよう頼んだ。
「これで、準備万端だ。医官様、腫れの周りに鍼を打って下さい。できるだけ、この者が苦しまないようお願い致します」
翔太は男をうつ伏せにした。ハンギョルが鍼を刺した。翔太が焼酎を口に含み、患部目がけ勢いよく吹きかけた。
翔太が小刀を持った。男の体に近づけようとしたその時だ、ハンギョルが翔太の腕を掴んだ。
「何をするのだ。刃物で体を切ると死んでしまうではないか」
「医官様、この方法でしかこの者を助けられないのです。お許し下さい」
門下生のミョジュンが、
「師匠、ショウタはこの者を殺そうとしています」
ハンギョルはその時、翔太の厳しい表情を初めて見た。翔太の真剣な目を見ながら翔太の腕から手を離していた。
翔太は男の体に小刀を入れた。鮮血が飛び散った。翔太の顔にも血が飛び散り、その血をスアがぬぐった。
膿が混じった血が、次から次へと流れ、布団の上は血の海と化した。
「ショウタよ、これは膿のようだが、この膿を全部出しきればこの男は助かるのか」
「はい、医官様。まだ分かりませんが、この病気は『よう』だと思います。細菌の感染によって、皮膚の内側に膿が溜まっている状態です。小さな傷から菌が入り込んで、感染したものだと思われます」
「その膿を出したのか」
「はい、膿は全部出しましたので、様子を見るしかありません」
「次は何をするのだ」
「はい医官様、これから傷口を縫い合わせます。見ていて下さい」
その時、門下生のミョジュンが、
「医官様、こんな事をさせていいのですか。このままだと、この男は死んでしまいます。布を縫うように人の体を縫うとは不届き者でございます」
「ミョジュンよ、ショウタを信じてみようではないか。ショウタ、いいから続けなさい」
翔太は、イルムが曲げてくれた針と絹糸を手に持った。そして、傷口を縫い始めた。
それをじっと見ていたミョジュンは翔太をにらみつけていた。ハンギョルは翔太が行った手技を書き留めながら、
「ショウタよ、これで終わったのか」
「はい、医官様。全て終わりました」
それから一週間後、運ばれて来た男は、娘の横でおいしそうに粥を食べていた