第二章 タイムスリップ
翔太は寒さで、目が覚めた。リングの上ではなく、見知らぬ土地で目が覚めたのだ。ボクサーパンツ姿で震えている。
「エッ、ここはどこ」
周りを見渡すが、今まで見たことのない景色である。雪の中だ。
「寒い、まじ寒い。俺、死んじゃったの」
何が何だか分からず、途方に暮れる翔太。
すると、三人の男に囲まれた。今まで見たことのない風貌の男たちだ。
男たちは、翔太を見るとまるで怪物でも見るかのように怯えていた。翔太の顔は圭介のパンチで腫れ上がり、髪も金髪だ。指にはフインガーグローブ、そして体にはタトゥーが入っている。
「すみません、ここはどこですか」
翔太の声を聞くなり、男たちは一目散に逃げて行ってしまった。
二十分はたったであろうか、先ほどの男たちが戻って来た。横に美しい娘がいる。その娘が近づいて来た。
「どうされました」
翔太は答えたいけど、その娘が何を言っているのか、さっぱり分からない。言葉が分からないのだ。
娘は驚くことなく、震えている翔太に自分の肩かけを掛けた。そして、三人の男たちに自分が乗って来た籠に、翔太を乗せるよう命じた。
翔太は籠の中、寒さと痛みで意識が遠いてしまっていた。
翔太が目を覚ました。納屋のようだ。布団が掛かっている、暖もある、暖かい。
薬草の臭いが鼻についた。納屋のいたる所に、薬草が吊るされていた。
「痛え~。俺、何にしてるんだ。まじ、ヤバイよ」
翔太の体は、誰かが傷の手当をしてくれたのか、傷口を布で覆ってくれていた。
「腹減った、死にそうだ」
試合前の減量で、胃の中は空っぽ。減量は約一カ月前から始まる。翔太はこの一カ月の減量で、体重を十〇キロ減らしていたのだ。試合前日の公表計量まで、食べたい物も食べず、水も塩分も控えなければならない。この水抜きが、試合よりもきつい死との闘いなのだ。
契約体重まで落とすことができなければ、リングの上に立つことができない、翔太の体は空腹と痛みで疲れきっていた。
入口で物音がした。翔太はあわてて、薬草の中に身を隠した。
肩掛けを掛けてくれた娘が、翔太に優しく声をかけた。
「ケンチャナ」
「ケンチャナって、韓国語だよな。俺、今、韓国にいるの」
韓国ドラマの時代劇が好きだった翔太には聞きなれた言葉であった。
「ケンチャナ、そうか、大丈夫って聞いているんだ」
「ケンチャナヨ、大丈夫です」と答えたかったが、その後の言葉が出ない。翔太はうろたえていた。
娘は優しく微笑んで、お膳を置いて出て行った。
お膳の上には麦飯、ぜんまいのような煮物が湯気を立てて乗っていた。
「飯だ~あ」
翔太はガツガツ食べた。その温かい食事が五臓六腑に染み渡った。
「俺、まじ韓国にいるの。さっきまで、圭介と試合やってたよな」
翔太は、いくら考えても、今の自分におかれている状況が理解できなかった。
一時間は経ったであろうか、娘がやって来た。娘の横に、もう一人娘がいる。どうもここで働いている娘のようだ。二人の娘は傷の手当をしてくれた。二人とも慣れた手つきである。二人は何も言わず笑顔で出て行った。
「今、何時だろう」
翔太は、時計を探すが見当たらない。翔太が呟いた。
「ここに来て、今日で五日目だよな~」
翔太は、外の「明るさ」と「暗さ」で一日を数えていた。外の明暗で、一日の始まりと終わりを感じていたのだ。
翔太がタイムスリップして五日目の朝のことである。外に出ようと戸を引いたが、鍵がかかり外に出られない。
入口に耳をかざすと、数人の男の声が聞こえた。何か、もめているようだ。
「鍵はどこだ、早く開けろ」
しかし、誰も答えない。鍵は翔太をかくまってくれた娘が持っていた。それを知っている家僕たちは何も言えなかった。主の娘であるお嬢様に口止めされていたのだ。暴言を吐かれてもグッと我慢していた。
お嬢様と一緒にいた下働きの娘が、慌ててお嬢様のもとに走った。そして、納屋の鍵がないと大騒ぎしていることを話した。
お嬢様は、鍵を持って足早に納屋に向かった。
「やめなさい、鍵は私が持っています」
「師匠にハマゴウを取って来るように言われたのです」
「私が持って行きます。あなたは下がりなさい」
お嬢様は、門下生がいなくなったのを確認し、納屋の鍵を開けた。
翔太は、いつもの娘が入って来たので、ほっとした。
『ハマゴウ』とは、解熱、炎症を抑える薬草である。お嬢さまはハマゴウを手に、父親のもとへ走った。
お嬢様の父親は医官(医者)である。庶民のためにこの恵民署で働いていたのだ。
恵民署とは、民を治療する病院であり宮殿の外に設けられていた。
父親の名はハンギョル、李氏朝鮮では誰もが知っている名医である。
御医、つまり、王の命を預かる最高の医者を二年前までしていたのだ。
しかし、彼は権力に興味を示さず、自分が習得した技術や知識を、貧しい民のために役立てていたのだ。
日本でも、江戸時代に『士農工商』があったように、李氏朝鮮時代にも厳しい身分制度があった。
『両班・中人・常人・賤人』特に、賤人は奴婢が多く、家畜のように扱われ、苦しい生活を余儀なくされていた。
お嬢様の名はスア、年齢は十八歳。色白で美しく、端正な顔立ちをしていた。
スアは、幼い頃、母親を亡くし父親の愛情と厳しさで、優しく分別のある娘に育っていた。