第98話 贄 ―ワン・フォー・オール―
背後で自分の名前を叫ぶ夫の声が聞こえた気がしたが、千代田青華が振り返ることはなかった。
千代田純太郎。悪くない男だったが、高身長で低脂肪な体と女性受けする貌を息子に遺伝させた時点でもう用は済んでいた。
(やっぱりダメね。人を殺したことのない男は)
人を殺した者は、魂の階位が上がる。
それは単純に他者の生命を奪う行為とは限らない。生命にも色々ある。選手生命、科学者生命、政治家生命……。
人生のどこかで、なりふり構わずライバルの生命を絶った人間は一皮むけて強くなる。
他者の命を喰らった者は、それまでの自分を抑えつけてきた殻を破り、人を超えた何者かに変貌するのだ。
ヤクザ社会において、実際に人の命を奪った者が一目置かれるようになるのはそのもっとも直接的な例である。
「きゃははははははは!」
「やめっ! 誰か! 助けッ! あッ! あッ! これ以上はッ! 金ならいくらでも――うごッ!?」
狂騒に包まれる体育館を背に、青華はそっとスマートフォンを見つめた。
(よくやったわ、育郎さん)
上昇志向の強い人間は、本能的に知っている。
競争など生ぬるい。
殺人経験こそが、勝ち組への最短距離なのだと。
そんな殺人者を目指す者たちが作り出したシステムの1つが『いじめ』である。
いかにして罪科を隠蔽し、罪悪感を軽減しながら人を殺すか。その答えが群集心理の利用だった。
大勢で少しずつ罪とも言えない咎を犯し、やがては殺人という大罪を成し遂げてその恩恵を享受する。
これこそ、人が長い歴史の中で作り上げた真の成功者のメソッド、勝利の方程式である。
往々にして成功者と言われる者ほどいじめに寛容であり、過去の加害行為を武勇伝のように語るのがその証左である。
(待っててね、育郎さん。私の理想の男!)
全てはこのためだった。
妹尾真実。正直どうでもいい女だった。我が弱くて友達の少ない者なら誰でもよかった。必要なのは、自分の子がストレス無く人を殺すことができる土壌を作ること。
いじめの参加者は多ければ多いほど、行為は過激化する一方で1人1人の負担は減る。
ならば、親子2代にわたるいじめられっ子を作ればよい。
妹尾明。真実と純太郎の間に生まれたとされる子。
だが、より大きな視点で見れば、彼はある意味で千代田青華が作り出した命であると言える。
育郎を理想の男として育てるための生贄として。
そして、育郎は青華の敷いたレールを見事に走り切った。
(いいわ。愛してあげる。愛しい我が子。いえ、あなたが望むなら、夫としても――!)
だが、そんな彼女の肩を、ぞわりとした感触が包み込んだ。
「逃ガサンヨ、青華……」
「あなた!?」
振り返った彼女の前にいたのは見捨てた夫ではなく、ぶよぶよとした醜悪な脂肪の塊だった。
「校長……」
発作を起こし、白目を向いてぶっ倒れたはずの校長が、白目のまま歯をむき出して笑った。
「青華……キス、シテクレ……」
足元から脳天へ、凄まじい蟻走感が駆け抜けた。むき出しの腕に、自分でも見たことのない鳥肌が立つ。
「離れろ気持ち悪い!」
振り払った校長の手首が弾け飛んだ。廊下の壁に血と肉片の染みができ、白い骨が落ちる。
「ひっ!?」
手首を失ってもなお、校長は「あへ、あへ」と笑っていた。
「ソノ肉体ヲ、抱カセテクレ……」
「誰が! アンタごときに――!?」
肉塊がガマガエルのように跳躍し、のしかかってきた。
「嫌ァッ! んん――ッ!?」
廊下に押し倒され、強引に唇を奪われる。
青華は歯を食いしばって抵抗するが、校長の舌はお構いなしに頬の裏側を舐めまわしてくる。
あまりの嫌悪感に吐しゃ物がせり上がり、胃酸が喉を焼く。
(駄目! 耐えなきゃ!)
だが、所詮理性では生理現象に抗うことはできず、食いしばった歯の内側は胃液に満たされ、さらに鼻腔へと溢れ出た。
「あっ――はっ――!」
体が空気を求め、意識とは関係なく口を開いてしまう。
そこへすかさず校長の舌が侵入した。口腔を這い回るねっとりとざらついた感触。
(気持ち悪い! 気持ち悪い気持ち悪い!)
好きでもない男に体を触られ、侵入される恐怖と嫌悪感。
だが、千代田青華を襲う恐怖はそれだけではなかった。
(何? これ?)
口の中を這い回る感触が変わってゆく。
チクチクとした固い感触。それがいつの間にか頬をパンパンに膨らませるほどに詰め込まれている。
口と口の接合部から何かが溢れ出る。その正体が視界の隅にちらりと映った。
黒い百足。
(――!!!)
もはや、思考すら言葉にならなかった。
青華が全身で声にならない悲鳴を上げたその瞬間、校長の体が爆ぜた。
血と肉片が周囲一帯を天井に至るまで赤黒く染め上げ、黒い雨がボトボトと降り注ぐ。
前後不覚に陥った千代田青華は、血まみれの白骨にしがみつきながら、ただひたすら汚物にまみれた髪を振り乱していた。
◇ ◇ ◇
「まったく騒がしいでちゅねぇ、プリンちゃん~」
中年の女性が1人、小さなポメラニアンを抱いて遊歩道を歩いている。
子犬は飼い主の腕の中でじたばたともがいているが、女性は意に介さずふわふわの体を撫で続ける。
『現在、大規模な山火事が発生中です。危険ですのですぐに避難してください』
巡回しているミニパトから明らかにこちらに向けられている勧告を、女性は鼻で嘲笑った。
「山火事なんて、別に家が燃えるわけじゃあるまいし、避難なんて大げさでちゅよねぇ」
そんな時、子犬が「ヒャン! ヒャン!」とけたたましく吠え始めた。
「あら、ご機嫌斜めねぇ。やっぱりちょっと煙いかしら」
子犬はある一点を見つめて吠えていることに、中年女性は気付いていない。だがほどなく、淡い靄の向こうから1人の少女が現れた。
「あら、あらやだ……」
風になびく長い黒髪を見て、女性は口惜しそうに道をよけた。
檀家の令嬢。
女性がどんなに見栄を張ろうが、存在感では決して太刀打ちできない日和見町のファッションリーダー。
「あ~ら麗さん、町に戻っていらしたの? あら素敵なコートねぇ」
彼女が羽織るパリッとしたベージュのコートを褒めちぎる。その裏に潜んでいる凶器と狂気の存在などつゆ知らず。
吠え掛かる愛犬の口を必死に塞ぎながら媚びた笑みを浮かべる女性を、麗は一顧だにせず通り過ぎようとしたが――
「……」
彼女の足が止まった。
「ごめんなさいねぇ、プリンちゃん、今日はなんだかご機嫌が悪くって……」
「バカ犬が」
「なっ――」
「そんなんじゃ、生きていけないぞ」
麗が何を言っているのかわからず、意味もなくあたふたする女性。
一方、子犬はようやく何かに気付き、吠えるのをやめ、飼い主の腕の中でプルプルと震え始めた。
大気が震えている。
何かが近づいて来る。
「やだ、何?」
大気の震えはやがて、うなりを伴って鼓膜を苛む重低音に変わっていった。
「やだ……」
この音には覚えがある。
それは背後から聞こえてきた。
振り返った女性の目に、黒い大型バイクが映った。
地に伏せて獲物を狙う肉食獣を思わせるシルエット。この町に住む者なら誰もが知る、和久井家の御曹司の愛車である。
「んもう……」
女性は慌てて車道に背を向ける。
和久井春人なら、面白半分に子犬を取り上げ、嬲り殺しにしかねない。
実際に初代プリンちゃんは春人に吠え掛かったところを足蹴にされ、和久井相手に訴えることもできず泣き寝入りしたことがある。脚が醜く歪んだ子犬を保健所に引き取らせる面倒はもうごめんだ。
バイクが彼女たちの側を通り抜けようとするその時だった。
麗が、コートの内側に隠し持っていた物を取り出した。
(刀?)
麗はずらりと刀を抜くと、赤銅色の鞘の方をバイクに向かって突き出した。
鞘は見事にタイヤホイールの間を縫い、制御を失ったバイクは横転し、激しく火花を散らし、回転しながら路上を滑ってゆく。
「え? え? え?」
自分が何を見ているのかわからず、ひたすら口をパクパクさせる女性をよそに、麗は手からだらりと白刃を下げながら路上に倒れているライダーに近づいていく。
女性は混乱しながらも、ライダーの着ている体にピタリとフィットしたレザースーツが、白とピンクがあしらわれた、やけにガーリーな色あいであることに気付いた。
よく見ると体格も細く、丸みを帯びている。
フルフェイスのヘルメットをかぶっているためその顔は見えないが、どうやら和久井春人ではないようだった。
「わわ、私、見てた……」
震えるポメラニアンを抱きしめながら、中年女性は喚いた。
「そのバイクが勝手に転んだのよ! 檀さんは何も悪くないわ!」
たるんだ顔に媚びた笑みを張り付ける女性を、麗は一顧だにしなかった。
アスファルトに手を付き、立ち上がろうとするライダー。その手の甲に、軍刀が突き立てられた。
「よぉ、姉原。痛ェか?」
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