第97話 悪人 ―ヒューマンビーイング―
「僕たちは罪を犯した」
宇都宮直樹はカサカサに乾いた手を合わせ、言葉を紡いだ。
「人は、いや、生きとし生けるものはみな平等だ。なのに僕たちは己の浅はかな欲望のために、何人もの人を傷つけてしまった。彼らの人生を、そう、『生』を奪ってしまったんだ。僕たちは償いようのない罪を犯してしまった」
唖然とする和久井春人。彼の背後でも、手下の不良たちが顔を見合わせている。
「和久井君。僕は自分の罪深さを知った。そして恐れた。因果応報、過去の行いが因となり、現在に報いとして顕れる。姉原サダクは、まさにその報いなんだ」
「!」
姉原サダクの名前を聞いた瞬間、春人は猟銃を振りかぶった。
「ほざくな!」
銃床で宇都宮の脳天を打ち据えようとする。だが、その直前に宇都宮の手が銃身を握る春人の手を包み込むように押さえていた。
「ひどいケガだ。和久井君も、本当は恐いんだろ? わかっているんだろ? 姉原サダクには勝てないって」
「……バカが」
屈辱に顔を歪める春人に対し、宇都宮は瞳に澄んだ光を湛え、穏やかな笑顔を見せて続ける。
「でもね和久井君。何も恐れることはない。僕は見つけた。出会ったんだ。救いの道に」
離した手を、再び胸の前で合わせる。
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。悪人正機、かの親鸞聖人は、『人は善人でさえ浄土に行ける。悪人ならばなおさらだ』と説いた。僕たちのような罪深い人間でも、仏法に帰依し、一心に『南無阿弥大仏』と唱えれば罪は赦され、救われるんだ!」
「……」
春人には、色々と間違えている宇都宮の言葉を正すだけの教養も、反論するだけの知性も無かった。
ただ単純に、(こいつはもうだめだ)と思っただけだった。
「さあ、僕と共に行こう。『南無阿弥大仏』を唱えて救われるんだ! 親鸞聖人の法力が込められた霊石が今ならたったの20万円で――」
「うるせぇ!」
春人は今度こそ、猟銃で宇都宮の顔面を殴打した。
コキン、と軽快な音とともに、宇都宮は砕けた顎をぶらつかせながら白目をむくと、埃の積もった野球用具箱に頭から突っ込み、沈黙した。
春人の心の中で、自分の縄張り――聖域を汚された不快感が湧き上がり、彼は倒れ伏す宇都宮の体に唾を吐きかけてその苛立ちを紛らわした。
「行くぞ」
踵を返す春人。だが、彼に従っていた不良たちは顔面を蒼白にして立ちすくみ、春人の言葉などまるで聞いていなかった。
「おい! ボケッとすんな! 行くぞ!」
「ナム……アミ……ダイブツ……」
「あ?」
宇都宮の体がゆらりと立ち上がる。
「ボクタチハ……罪ヲ……犯シタ……」
彼は、傾いた首で、おぼつかない足取りで、なおもしゃべり続ける。口の端からは血とよだれがとめどなく流れ落ちている。
「許サレナイ……ドンナニ謝ッテモ……何ヲシテモ……償エナイ……」
その両目から溢れる出ているのは涙ではなく、うねうねとのたうち回る黒い百足だった。
◇ ◇ ◇
「きゃははははははは!」
体育館では、恐ろしくリアルな鬼ごっこが繰り広げられていた。
すでに何人かの町民が鉄パイプと出刃包丁の餌食となって転がっている。
青年も、少女も、老人も、金持ちも、貧乏人も、鬼に捕まった者はみな平等に殺された。
「ひ、ひひ、ひ……」
体育館の一角に追い詰められた人々へ、少女はヒタヒタと近づいていく。
「誰か、何とかしろ! 相手は女の子1人だぞ!?」
「だったらお前が何とかしろよ!」
「何人かで一斉にかかるんだ。そうすれば……」
「誰か1人は死ぬだろ! 確実に!」
彼女を取り押さえようとした勇敢な者は真っ先に鉄パイプを頭蓋骨に打ち込まれ、首に出刃包丁を突き立てられた。
もはや残っている者たちに、彼女に抗える気力と体力を持っている者はいない。
「みなさん落ち着いて、ここは冷静に……」
そんな者たちの中に、日和見町町長、千代田純太郎の姿もあった。
「千代田君?」
その声に、殺人鬼の少女が反応した。
「千代田君の……千代田君のせいだからね……? 私たちはただ、ほどほどに遊んでただけだったのに……、アンタが空気読まないでガチであんなことするから! 私たちはそんなつもりじゃなかったのに! アンタが! アンタが!」
「き、君は勘違いをしている! 私は育郎じゃない!」
「何でぇ? 何でアンタが能天気に生きてんの? 何でうちらが殺されなきゃいけないの?」
「待て! 落ち着いて! 冷静になるんだ!」
「うちらは! ただ見てただけなのに! 妹尾君を殺したのはアンタなのに! 何で!? 何で!? 何でェ!?」
引きつった笑い顔のまま、恨み言を吐き散らす少女。その両眼からは黒い涙がのたうっている。
「アンタを……アンタを殺せば……私ら、許してもらえるかなァ……?」
「何?」
少女の言葉が、体育館に膨満していた空気の成分を変えた。
「な、何を……」
無数の手が、千代田純太郎の背中を押し始める。
1つ1つの力は弱い。偶然触れてしまったと言われればそれまでの、ささやかな力。
1つ1つの意思は些細なものだ。町長を頼りたかったといわれればそれまでの、小さな意思。
だが、気が付けば純太郎は町民たちの前に立たされ、凶器を持つ少女と対峙させられていた。
「待て、本当に育郎が彼を殺したのか?」
「アンタが……殺したァ……、ボールをぶつけて、頭を打って……」
「たしかにあの漫画では育郎のボールが妹尾君の頭に当たっていたが、その後も彼は立ち上がっていた! そうだ、彼は立っていた! 生きていたんだ!」
「……」
「育郎は殺していない! 妹尾君を殺してなどいないんだ!」
少女の進みが止まった。
両腕をだらりと下げた前傾姿勢で、その場にゆらゆらと佇んでいる。
(説得できたか?)
ちなみに、彼が息子の弁護のためつい数分前まで『でたらめ』『でっちあげ』と腐していた漫画を根拠として挙げている皮肉には彼自身気付いていない。
(青華――?)
一瞬の気のゆるみだった。
それは恐らく、長年にわたって安全地帯から下々の者を見下すように町に関わってきた千代田家の傲慢が招いた隙だった。
自分はこの町にいる限り命も財産も安泰であると、心の奥底で信じて疑わなかった。
だからこそ、純太郎は狂気に支配された殺人鬼を前にして、自分の命よりも背後にいる妻の視線を気にしたのである。
(え――?)
そして、そこにいると信じていた妻の姿は、人の群れの中に隠れてどこにも見当たらなかった。
「青華! どこへ――おごッ!?」
後頭部を襲う、重く冷たい衝撃。
「関係ねぇ! つーかどうでもいい!」
少女の甲高い声が脳内に響く。
「殺すんだ! みんな殺す! 平等に殺す! 姉原さんの代わりにここにいる全員ぶっ殺してやるんだ!」
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