第94話 混合物 ―アロイ―
『鏡』。
それは、精神の牢獄である。
その牢獄は内面が鏡張りのようになっていて、閉じ込められた者は発した感情がそのまま自分に反射する。
「あっ、あっ、あっ……」
例えば、女性を犯したいと考えた者は、自分が犯される幻影に支配されてしまうのだ。
「彼はどうなるんです?」
そう問いかけてきた銭丸刑事の目には、うんざりしている雰囲気がかすかに含まれていた。
それも仕方のないこととは思う。
15年もの間、怪異と付き合ってきた私とは違い、彼にしてみれば超常現象は姉原サダクだけで食傷気味だっただろうから。
「これまでの検体を見る限り、一度『鏡』に囚われた人間が本来の自意識を取り戻すことはありませんでした」
「サンプル?」
黒光りする銃口が、再び私に向けられる。
「由芽依さん、あんた人を何だと思ってんですか!」
「他人だと思っています」
他にどう答えればよいのだろう?
「こんなの、殺人と同じだ!」
『殺人』の言葉に、慧の長身がびくっと震えた。私は彼女を招き寄せ、頭を撫でて安心させてやる。
「殺人とは言えないでしょう。ああして脳も心臓も動いているわけですし」
「……」
「確かに、彼の自意識は今、『彼の妄想する鹿谷慧』になっている状態で、元の人格がどうなってしまったのかは全くわかりませんし、この先、元に戻る可能性も極めて低いわけですが……。それでも『死』とは言えないでしょう。せいぜい意識不明の重体あたりが近いのではないでしょうか?」
「残酷だとは思わないんすか?」
「残酷でしょうか? そこの彼が――名前は知りませんが、彼が彼として生きてきたその連続性の果てに今の苦痛を味わっているのなら、それは残酷と言えるでしょう。しかし、今、彼の体を借りて苦痛を味わっているのはあくまで『鹿谷慧』、それも、彼の妄想が生み出したいわばバーチャルな人格です。それは無為ではありますが、残酷ではないと思うのですが」
銭丸刑事が私をじっと見つめている。
まただ。
またこの目だ。
人が異邦人を見る目。
「由芽依さん。あなた、一体何者なんですか?」
「一言でいえば、『混じりもの』でしょうか……」
服の上から胸の傷をなぞる。
散弾銃で撃たれた傷ではない。そんなものはとうに塞がっている。
触れたのは15年前につけられた、決して消えることのない切創だ。
「15年前、私は姉原サダクに体を乗っ取られかけました。でも助かった。銭丸さん。あなたの推理通り、妹の輝夜を身代わりにして」
私は慧から銅の短剣を受け取ると、それで自分の腕を切り裂いた。
「「「うわッ!?」」」
その場にいたほぼ全員が悲鳴を上げた。短剣は私の腕の皮をはぎ、筋を切り、肉を削ぐ。
あちこちで嘔吐する音とともに胃酸の臭いが立ち上る。
「そして、私にはこの体が残された」
現れたのは黒い骨。この色から、炭素素材のごとき強靭さを思うか、それとも呪われた怪異の禍々しさを思うか。
黒い骨にはみるみるうちに再生された筋繊維がまとわりつき、神経と血管が通り、皮膜に覆われてゆく。
「化け物かよ……」
和久井春人の言葉に、心が少なからず傷ついた。
「不死身ってことすか。姉原サダクと同じ」
「ええ。ちなみに、慧の片目に嵌め込んでいるのも、私の細胞を培養し、眼球もどきに分化させたものです」
銭丸刑事が納得いかないとばかりに嘆息する。
「どうしてですか? そんな体を持っているのに、どうしてこの町を巻き込んだんすか!?」
「こんな体だからですよ。この体はしょせん姉原サダクの機能の一部しか使えない劣化コピーにすぎません」
大量の蟲を使役することもできないし、他人の体を乗っ取ることもできない。
そこまで懇切丁寧に自分の欠陥を解説するつもりはないが。
「あ……」
その時、私の腕の中で慧が声を上げた。
「姉原さんが動き出しました」
「ようやく、か……」
慧に探知させていた姉原サダクの気配は、なぜかサニーバックスコーヒーの辺りで止まっていた。
――怨霊が喫茶店で何をやっているんだか。
「そういうことです、銭丸さん。私たちはひとまずお暇させていただきます」
「彼女を……」
銭丸刑事は、憐憫の目で慧を見た。
「彼女を、最後の1人にするつもりですね?」
「……初めは1学級、最悪でも校舎1つ分の犠牲で済むと思っていたんですがね」
この町の闇は予想以上に深かった。都会の無関心と田舎の陰湿さが同居した最悪の町だ。
「鹿谷さんをどうする気です!? まさか、彼女を第2の利田寿美花にするつもりじゃ――」
「そんな! ダメだ慧姉ちゃん! そいつから離れろ!」
だが、慧は私の胸の中で首を振った。私の予想通りに。
「ごめんね、終君」
慧は立ち上がり、片目を塞がれ、もう片方の目元を爛れさせた顔を少年に向けた。
「私は、あなたの思うような人間じゃない。私はそれだけのことをしたの。明君に、姉原さんに、殺されても仕方ないくらいの罪を犯したの。なのに、私はそのことをいつも忘れちゃう。自分は可哀想ないじめられっ子だって、そう思い込んじゃうんだ。あはは、私、こうなる前から、もうとっくに人間じゃなかったんだ。だから……」
彼女は、何かへの未練を断ち切るように告げた。
「もう、私は終君のことも忘れる。もう私を追って来ないで」
「……」
「鹿谷さん、それは――」
銭丸刑事が何か言いかけたが、慧はもう彼らの方を見ようとしなかった。そもそも見えないのだが。
「姉原さんが近づいてきます。速い――多分、車かバイクに乗っている……」
あまり猶予はない。
「銭丸さん、あなたには色々とお世話になりました」
「都合よく利用できたの間違いでしょ、あなたの場合」
いささか心外ではあるが、理解されないことには慣れている。
「お礼代わりに1つアドバイスを。銭丸さん、あなたの敵は姉原サダクではありません。あなたの敵は――」
そこで私は、地べたで身もだえる仲間を見捨てて蜘蛛の子を散らすように逃げていく不良たちの後ろ姿を見回した。
いつの間にか和久井春人も姿を消している。
「彼らのような存在。弱くて、愚かで、醜い――」
「あんたらも逃げなくていいんすか?」
「そうでしたね」
私も感じ始めた。
猛スピードで近づいて来る。
凄まじいまでの憎悪。一切の不純物を含まない、混じり気の無い漆黒の殺意。
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