第93話 幻影 ―イリュージョン―
「テメェェェェェッ!!!」
和久井春人は吼えた。
「兄ちゃん……」
対する終の顔からは怯えの色が急速に褪せ、消えていった。
(これが、あの怖くて怖くて仕方なかった兄貴なのか?)
いつも退屈そうで、気まぐれで、残酷で。
何をするかわからず、どこまで行くかわからない、暴力の向こう側に立つ恐怖の男。
だが、それは一種の幻影だった。
そのタネの1つは『早さ』である。
チンピラにしろヤクザにしろ、喧嘩をするにはまずは因縁をつけるところから始まる。
自分の正当性を主張し、心理的に優位に立ったところで暴力へシフトするのがセオリーである。
だが、和久井春人は因縁や威嚇の過程を極端に短縮し、常に相手よりも1手早く暴力を行使する。
先手を制した者が後の展開を有利に進めるのは自明の理だ。
タイミングを読み、卑怯と言われないギリギリのラインを突けるのは確かに春人のセンスだろう。
だがそれ以前に、手品の第2のタネとして、この町における彼の地位がある。
この町の経済と裏社会を支配する和久井家の御曹司。
彼は他の者たちと違い、この町では己の正当性を主張する必要がそもそも無いのである。
仕掛けがあらわになったことで恐怖の仮面が取り払われた時、そこにいるのは見栄とハッタリで悪の世界を綱渡りしてきたお坊ちゃんだった。
「6人……」
突然、慧がつぶやいた。
春人の口がにやりと歪む。
「おい!」
その声に応えて、校舎の影からぞろぞろと現れる6人の男子たち。体格はまちまちだが、軽薄な目つきと締まりのない口元が妙に共通していた。
「「野球部……」」
慧と銭丸刑事の沈痛な声が重なった。
日和見高校野球部。それは表向きで、実態は部室をたまり場にする不良たち。
2-Aの良心の一角だった佐藤晶を寄ってたかって暴行してその心身を壊し、妹尾明を死へ追い込んだ悲劇の元凶。
それが久遠燕と海老澤永悟を復讐へと駆り立て、姉原サダクを呼び出すことへとつながる、いわばこの一連の事件の戦犯とも言える存在。
和久井春人の恐怖を下支えする第3のタネ、『集団』。
「よぉ、鹿谷……」
「巫女さん姿、似合ってんじゃん」
「動画見たぜ、お前、その恰好でもやってたよな」
一瞬、慧の体がひくっと強張った。
「何だよお前ら、何言ってんだよ!」
意味を完全には理解していないものの、芽生えかけた思春期の感覚が彼らの言動に激烈な嫌悪を覚え、終は怒りで髪を膨らませながら慧の前に立つ。
だが、集団心理で気が大きくなっている若者たちは少年の存在など歯牙にもかけない。
「和久井君、いいの? この女ヤッちゃって。こいつ、弟君のアレじゃなかったっけ?」
「知るか。なぁ終、兄に逆らったんだ。こうなることは分かってたよな?」
「……」
終は、慧にばれないように歯を食いしばった。
背中が寒い。自分は取返しのつかないことをしてしまったのではないかという恐怖がじわじわと足元から這い上がって来る。
「いやいやいや、君たち何言ってるの? 俺、これでも警察なんだけど? 銃も持ってんだけど?」
見かねた銭丸が口を出すが、彼らは「へっ」と嘲笑っただけだった。
「ま、そりゃそっか。今までが今までだし」
この町の警察は和久井家の言いなりだ。春人の悪行を止めるどころか、隠ぺいの手助けさえしてきた。
「でも、これからはもう違うよ。悪いけど、警察はもう君たちを守れない。何なら、より多くを守るために少数を切り捨てることだって――」
だが、銭丸が言い終わらないうちに、少年たちはそれぞれポケットから何かを取り出した。
「君たち、そんなものどうやって……」
拳銃だった。口径は小さく、外見も見るからに粗悪だが、それがむしろ本物であることを証明しているようだった。
「親父の真似してみた。案外簡単に手に入るもんだな」
「バカ野郎……」
銭丸は歯噛みする。
チャイナマフィアかロシアンマフィアか知らないが、田舎成金の息子がまともに太刀打ちできる相手ではない。こんなくだらないことで関りを持ってしまったら、この先ろくなことはないだろう。
姉原サダクが来なくても、この町は遅かれ早かれ詰んでいたかも知れない。
「兄ちゃん……」
銭丸の考えは、終も同じだったのだろう。
そのつぶやきには、絶望というより、呆れや諦めの色合いが濃かった。
そして、春人の鋭敏な感性はそれを聞き逃さなかった。
「撃て」
静かに、そして厳かに、春人は命じた。だが――
「え?」
「いや、流石にまずくね?」
配下の反応は今ひとつだった。
「ったく、何でわかんねぇんだよ! 1発撃ちゃあケリがつくんだよ! 撃てよ!」
「い、いや、あっはは……」
お前撃つ? 他が撃つなら俺も撃つ。6人の間でそんなアイコンタクトが交わされていた。
「終君」
そんな中、銭丸ができるだけ口を動かさないよう、聞こえるか聞こえないかくらいの小声でささやいた。
「俺があいつらを引き付けるから、慧ちゃんを連れて逃げろ」
「え……」
「心配すんな。刑事は防弾チョッキを着てるんだ」
薄々、それが嘘だと感じていた。
でもそれで自分の命と、何より大切な人の命を守れるなら、真実には気付かないふりをするべきだと語りかけてくる、内なる声が聞こえてきた。
和久井終は、ある意味でやはり和久井春人の弟であり、和久井家の人間だった。
言葉より実行。
考えたら――いや、感じたら即行動。
それが、彼ら和久井家が遺伝子に刻み付けてきた生存戦略だった。
終は銭丸に体当たりする勢いでその体を慧に押し付けると、自分は彼らの前で大きく手を広げた。
「おい! 撃つなら撃てよ! ビビッてんのかクソ兄貴!」
「!」
異様に長く感じられたコンマ数秒の後、春人の体が跳ねた。
手近な者から拳銃を奪い取り、引金に指をかける。
ぱん。
彼らの存在感を象徴するかのような、失敗した柏手のごとき軽薄な音が響く。
「ッ……」
襲い来る激痛に備え、ぎゅっと目をつぶる終。
「い、痛ェ……」
だが、悲鳴を発したのは終ではなかった。
恐る恐る目を開く。
そこには、彼の体を背後から抱きしめる長い腕があった。
白い振袖が、まるで親鳥の翼を思わせる。
その手には赤銅色の鞘に納められた短刀が握られていた。
以前、慧にわがままを言って見せてもらったことがある。サンハラ神社のご神体に供えられている、銅製の守り刀だ。
鞘の1か所がかすかに凹んでいる。
「ありがとう終君。守ってくれて」
「結局守られてんじゃん」
ぎゅっと、腕に力が込められた。
少年の背中に、温かくて柔らかい感触が伝わって来る。
「……」
慧はゆらりと立ち上がると、両目に巻かれていた包帯をするすると外した。
「げ、キモッ」
誰かの発した心無い言葉にわずかに反応しつつ、慧は流れ弾を足に受けてうずくまる男子に近づいてゆく。
「何だよ……くそ、来んな化け物!」
彼女の異様な姿に流石の春人も反応できないでいる間に、彼女はその不良の髪を掴むと無理やり上を向かせ、その顔を覗き込んだ。
「ひ……」
周囲が赤く爛れ、上下のまぶたを切り取られた右目にはめ込まれていた義眼がぐるりと回転する。
「何だよ、その目……」
そこにあるのは、一切の光を映さない、真っ黒な瞳。
「やめろ……、見るな! 見るな! 見るな! 見るなァァーーーッ!」
彼は慧の手を振りほどき、陸に打ち上げられた魚のように全身で跳ねながら逃げようとする。
「ごめんなさい」
慧の義眼が再びぐるりと回り、白眼に戻る。
彼女の謝罪を合図に、彼女に見つめられたその野球部員はいきなり地面に四つん這いになった。
「嫌ッ! やめて! やめてェェェ!」
そして妙な口調で絶叫し、腰を前後に動かし始める。
「嫌ッ! 嫌ぁ! あっ、あんッ!」
その異様な一人芝居を、誰もが唖然と見つめるしかできなかった。
「ちょ! 小学生の前で何してんだ!? 鹿谷さん、君は彼に何をしたんだ!?」
銭丸はようやく声を上げる。
「……」
唇を歪めながら顔を伏せる慧。
「……鏡ですよ」
疑問に答えたのは、ダークグレーのスーツを赤黒く染めて地面に倒れていたはずの人物だった。
「え?」
人間らしからぬ動きで、ゆらりと立ち上がる灰色の女。
「何だ、まだ片付けてなかったんだ」
「申し訳ありません、朔夜様!」
慌ててぺこりと頭を下げる慧。
「ッ――」
その光景に終は思わず目を伏せる。
「由芽依さん、鏡とは?」
「あぁ……」
由芽依朔夜は、隈に縁どられた目で悶絶する不良をつまらなさそうに一瞥する。
「精神の鏡とでも言いますか。彼はその鏡の中に囚われたのです。彼が慧にぶつけようとした欲望を、自分にぶつけられる幻影に」
「やめへぇ! 何でも言うこと聞きましゅう! おクスリ! おクスリはもうやめへぇ!」
それは、はたから見れば壮絶な自慰行為にしか見えないだろう。
「かつて江戸川乱歩は『鏡地獄』という作品の中で、内面を鏡にした巨大な球体の中に入って発狂した男の物語を書きましたが……」
白目をむき、口から泡を吹きながら、彼は尚も犯されるのを止めようとしない。
「男の見た地獄は、存外こんな感じだったのかもしれませんね」
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