第92話 駒 ―ポーン―
自分の胸に穿たれた大穴を見ても、私の心はいささかも動かなかった。
体を吹き抜ける風は、そのまま私の吐息のようでもあった。
「……」
私に銃口を向ける銭丸刑事は呆然としている。拳銃から煙は出ていない。
当然だ。
私を撃った者は、私の後ろにいるのだから。
「クソ女ァ……」
振り返るまでもなかった。
銭丸刑事を除けば、この町で銃を持っていて私を撃つ可能性のある人物は1人しかしない。
「兄貴……」
和久井家の次男君がつぶやいた。その生意気で可愛らしい顔には、隠し切れない怯えの表情が浮かんでいる。
「テメェ、よくも、よくも俺を……、俺を……」
背後で、その兄貴が何やら喚いている。
「だましやがったな」「虚仮にしやがって」「焚きつけやがったな」、どれでもいいから早く何か言えばいいものを、語彙が足りないのか自分が被害者になったと認識するのはプライドが許さないのか、単に頭に血が上ってただでも遅い回転がさらに遅くなったのか。
「お疲れ様、春人君。よくあの状況を切り抜けましたね」
だから、手助けしてやることにした。
「あなたには感謝しています。私の思い通りに動いてくれて。おかげで私は姉原サダクの動きを誘導し、あなたとその取り巻きという不確定要素を排除することができた。あなたは私が今まで出会った中で、最も優秀で、ふふ、最も愚かな駒だった」
「――!!!」
声にならない叫び。
彼の服に仕込んだ超小型カメラの映像では、確か和久井春人は右手を散弾で撃ち抜かれているはずだ。
そんな手で猟銃を撃った技能は確かに天性のものだろう。
「慧」
私は側に立つ少女に命じる。私が見出し、磨き上げた最強の駒に。
「彼の相手を。私が目覚めるまでに、エンジンを温めておきなさい」
「はい。朔夜様」
散弾に貫かれた傷をあらためる。どうやら肺と心臓の一部が損傷しているようだ。
傷が回復するまで、数分の間ではあるが私は意識を失ってしまう。
だが、今の慧ならば私がいなくても手負いの和久井春人の1人や2人、問題なくあしらうことができるだろう。
「起きたら、また褒めてあげる」
慧の頬をひと撫でし、私の身体は糸が切れたように地に伏した。
◇ ◇ ◇
「ざけやがって……」
町の影の部分を支配し、ゆくゆくはこの町の闇を牛耳ると言われる少年は今、惨憺たる姿をさらしていた。
よれよれに伸び、所々が裂けたTシャツ。全身は青痣や擦り傷にまみれ、食いしばった歯は何本か抜け落ちている。
そして右手は、親指と人差し指を残して大きく欠損していた。
「テメェら……」
和久井春人は壊れた手でかろうじて猟銃を構え、その場にいる者たちに順番に銃口を向けていった。
「姉原はどこだ?」
「俺たちは知らない。遅かれ早かれここに来るだろうけど」
答えたのは、拳銃を春人に向けた銭丸だった。
「テメェら邪魔するな。姉原は俺が殺る……」
いつになく怒りの波動を垂れ流す春人。だが――
「あの、和久井君……」
おずおずとした声が彼の前に立ち塞がった。
「脈が弱いよ。呼吸もおかしいし……」
「鹿谷……」
春人が凄む。
両目に包帯を巻いた巫女装束の少女が、その大きな体をびくっと震わせた。
「テメェいつから俺に口利ける立場になりやがった?」
「あ、ごめんなさい。でも、このままだと和久井君、死んじゃうから――」
刹那、轟音と共に春人の猟銃が火を噴いた。
「姉ちゃん!?」
終が叫ぶ。
「あ、大丈夫。ありがとね」
だが、その返答は何事もなかったかのようで、それどころかどこかのほほんとした雰囲気すらあった。
「何……?」
いつの間にか、慧の体は元居た場所から一歩ほどずれた位置にいた。
9粒の散弾は1つとして少女の体をかすめもせず、校舎の壁面を削りとって周囲に漆喰の欠片をまき散らすにとどまっていた。
「見えなくてもね、感じるんだ……」
能天気の中に、ほんのわずかに寂寥の混じった声。
「だからって、銃弾を躱すのかよ……。マジであいつに何されたんだよ……」
終が湿った声を漏らす。声には、自分の手の届かない場所に行ってしまった憧れの人への想いが沁み込んでいた。
「ふーっ、ふーっ……」
怒りが収まらないのは春人だった。
今だかつて、自分が、自分の振るった暴力が、ここまでないがしろにされたことはなかった。
彼の世界で、およそ考えられる最大限の侮辱。屈辱。そして敗北感――
「ざけんじゃねぇぞコラァ!」
春人は猟銃の銃口を掴み、バットのように振りかぶりながら慧に向かって突進した。
「あっ――」
銭丸は拳銃を構えていたがゆえに反応が遅れた。彼がアメリカの刑事だったら、この場を収めたのは彼だっただろう。
「やめろ!」
代わりに、終の体が兄と慧の間に割り込んだ。
両手を突き出し、渾身の力で兄の体を突き飛ばす。
「ッ……」
無様に尻を地べたにこすりながら、春人は呆然と弟を見つめていた。
「あ、あぁ……」
対する終も、生まれて初めて兄に――絶対的な上位者に歯向かった恐怖に震えていた。
「終……テメェ……。もうこの町でまともに道歩けると思うなよ……」
「う……」
細い足が生まれたての小鹿のように震え、歯がガチガチと音を立てる。
和久井終は、恐怖に顔を歪めながら、声を絞り出した。
「うるせぇ、バカ」
ブツン、と。
この場にいた誰もが、彼らの間に張り巡らされていた何かの糸が切れたのを感じた。
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