第91話 別離 ―ブロークンハート―
「慧姉ちゃん……」
周囲を赤黒く爛れさせた白眼がぎょろりと動く。
「大丈夫なのかよ……」
恐る恐る問いかける終に、慧は儚げに微笑んだ。
「大丈夫。ありがとう。ごめんね」
「どう見ても大丈夫じゃねぇよ! 見えんのかよ!?」
「あ、ごめん……、そうだね、えっと、何にも見えないかな、あはは」
相変わらず、ヘラヘラと媚びた笑みを浮かべる口元。
「あ、でもね、目は見えなくても意外と光は感じるんだよ。うまく言えないけど、感じるの。だから1人でご飯も食べれるし、漫画はさすがに読めないけど、でも割と生活には不自由しないかなーって」
「バカ! それじゃゲームもできねぇ! スマホも見れねぇ! 不自由しまくりだろうが!」
「ひっ、ごめん、そうだね、そうだよね……」
終は首を振る。またやってしまった。どうして自分はこうも感情を抑えることができないのか。
「あは、ありがとね」
「……何が、だよ」
「初めて叱ってくれたなーって」
「……」
和久井家の次男坊。家の外ではちやほやと担がれるが家の中ではないがしろにされる日々。空しくて惨めで心細い日々の鬱憤を、彼は年上の許嫁に一方的にぶつけてきた。
思えば、慧のことを思いながら声を荒げたのは、これが初めてだった。
(何やってたんだ、俺)
ただ、好きだったのに。ただ、甘えたかっただけなのに。
「ごめん、慧姉ちゃん。今まで、俺、ひどいことばっかしてきた。もう2度としないから、帰って来てよ」
「終君……」
少年の言葉に誘われるように、慧の足がふらりと歩む。
「ごめんなさい」
だが、そんな慧の体に覆いかぶさる灰色の影。
「あ……」
慧の足から、かくんと力が抜ける。
少年の目の前で、憧れの女性の唇が奪われた。
「ごめんなさい、終君。私は、もう戻れない」
真っ白に麻痺した少年の脳に、残酷な言葉が沁み込んでゆく。
「ごめんなさい……。私、もう、人を、何人も、何、人、も……」
塞がれた目と、抉られた眼窩から血の混じった涙があふれる。それをぬらぬらと光る蛇のように長い舌が舐めとった。
「あぁ……」
両目に包帯が巻かれていく。
それがスイッチであるかのように、慧の体から感情が消えた。
「立ちなさい、慧」
「はい、朔夜様」
差し出された手を取る慧。
そこへ、ガチリと撃鉄を引く金属音が響いた。
「小学生に何てモン見せてんすか」
「それはお互い様でしょう。その銃、ここの刑事課が使うものじゃないですよね」
銭丸保孝と由芽依輝夜。
一度は相棒として肩を並べた2人が、今は銃を向ける者と向けられる者として対峙していた。
「その子を放してください」
「無理です。鹿谷慧は、姉原サダクを殺すことができる唯一の人間ですから」
「一応、目的はブレてないんすね」
「当然です。私は、姉原サダクを殺すために今まで生きてきた」
目をすっと細める銭丸。その瞳には、刑事の眼差しが宿っている。
「何のために? 姉原サダクは、由芽依さんにとっての何なんすか?」
「質問は明確にお願いします」
「15年前、本当は何があったんすか? 由芽依さん、由芽依朔夜さん。15年前、あなたと、姉原サダクと、本物の輝夜さんとの間に何があったんすか?」
「あぁ、やはり調べたんですね」
やつれた目が、どこか遠くを見つめた。
「そりゃこれでも刑事なんで。それに、警察学校時代の同期とは割と仲良しなんすよ」
「で? どこまで?」
「15年前。姉原サダクが現れるきっかけになった聖ガラテア女学院のいじめ事件。1人の生徒を自殺に追い込んだいじめグループの主犯は、由芽依朔夜さん、あなただった」
「……」
一瞬、由芽依の目が側らの慧を見た。両目を塞がれた少女は、キスの余韻に浸っているかのようにゆらゆらと揺蕩っている。
「そして、由芽依輝夜さんは、あなたの妹の名前だ。彼女は表向きは白血病で亡くなったことになっている……」
銃口が、由芽依朔夜の心臓に向けられた。
「これは俺の推測ですが、15年前、あなたは妹を身代わりにして姉原サダクから逃げ延びたんじゃないですか?」
女の唇が、ふっと歪んだ。
「まぁ、結果だけを見ればそういうことになりますか」
長い髪を煩わし気にかき上げる。
「だから何です? 姉原サダクを消さなければ、今度の被害は15年前の比ではない。動機はどうあれ、私たちは姉原サダクを止めたいという思いは同じはずです。他に代替案が無いのならここは私に任せていただけませんか?」
「嘘だ」
銭丸は短く切り捨てた。
「サダクはこの町を滅ぼそうとしているのかもしれない。でも、それはあなたも同じだ。この山火事、起こしたのは彼女じゃない、あなたでしょ」
「断言しますね」
「盗んだ車であちこち走り回ってりゃ、そりゃね。田舎警察だからって、ちと舐めすぎじゃないっすか?」
「確かに」
由芽依朔夜は降参とばかりに両手を上げた。
「まぁ、今でも日和見警察署のことは無能だと思っていますが、銭丸さん、あなたのことはもっと警戒するべきでした」
「何を企んでるんです!? 町を封鎖して、人を学校に集めて、どうやって姉原サダクと戦うつもりですか!」
「恐らく、あなたが想像している中で最悪の方法で」
「由芽依朔夜!」
銃声が響いた。
女の胸に、深紅の風穴が開いていた。
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