第90話 謝罪 ―アピ・ポリ・ロジー― ◇校長制裁その2
「あぁー! あぁぁー!」
床に倒れ、陸揚げされたエビのように痙攣しながら、校長は駄々をこねる赤ん坊のように泣き続ける。
「どうしたんだ、叔父さん?」
遠巻きに眺めるだけの周囲の者たちに代わり、千代田純太郎は仕方なくステージを降りて駆け寄った。
「耳、耳……百足……」
泣きじゃくりながら訴える校長。
「耳に百足が入ったのか?」
コクコクと頷く。
(こんな時に何やってんだ)
純太郎が内心で毒づいたその時だった。
「たいしょくきーん!」
突然校長が叫んだ。
「嘱託! 教職員研修センター相談役! 退職金! あと1年でぇぇぇぇぇぇぇ」
「ちょ、叔父さん何言ってんだ!?」
教職員研修センター相談役とは、千代田校長が定年退職後に新設される役職であり、つまり現時点ではこの町に存在しない。
千代田家の者が定年後に名誉職に天下り、多額の退職金を得ることは公然の秘密である。
いくら巷でささやかれていようが問題はないが、本人が直接口にするのはさすがに問題だ。
だが、誰よりも驚いていたのは校長自身だった。まん丸く目をむき、慌てて手で口を塞ごうとする。
「助けてくれ、純太郎! 百足を取り出してくれ!」
片手で口を塞ぎ、もう片手で耳を指差す滑稽とも言える姿勢で、校長は叫ぶ。
そもそも、口を押えながら叫ぶという行動が矛盾である。
「わかった、すぐに病院へ――」
「!」
病院という言葉を聞いた瞬間、校長の顔から一気に血の気が引いた。
何かに怯えたように首を振る。頸椎が折れるのではないかと思えるほどの激しさである。
「いったい何があったんだ!? ちゃんと説明してくれ!」
「純太郎……」
救いを求める目が純太郎を見上げる。だが、彼の背後に立つ妻青華の姿が目に映った時、校長の顔つきが変わった。
「純太郎! おお女! お前の嫁! いい女だなぁ!」
「おい!」
口を押え、ぶんぶんと首を振る。こんなことを言うつもりではなかったと。
だが、風船のように膨らんだ頬から噴出するように暴言が飛び出してくる。
「青華を抱かせろ! 学校は俺の国! 生徒を抱いた! その母親も抱いた! お、お、親子丼!」
純太郎は察した。
校長は、何かをされたのだ。
その結果、彼は思考と言動が直結し、本音を隠すことができなくなってしまったのだ。
はっと周囲を見回す。
不穏な気配が、今はまだ種火程度だがちらちらと揺らめきつつあるのがわかる。
「があああああああ!」
校長は突然、エビぞりで跳ね回りながら体育館の床に頭を打ち付け始めた。
「わ、た、し、が、悪、か、った!」
「叔父さん?」
「せの、お、あ、き、ら、君!」
「ッ!?」
額が割れて血の雫が飛び散る。
「失われ、た、命、尊い! でも、生徒、たち、の、未来、も、大事! 大事なもの、金!」
いじめが明るみに出るたびに議論される問題。
加害者もまた生徒である以上、学校は彼らを守り、更生に力を注がねばならない。
しかし、それが実質加害者を無罪放免にすることにつながり、被害者は忸怩たる思いを抱くことになる。
「悪、い、のは、我々、大人! 大人の関係!」
食いしばった歯の隙間から血の混じった泡を吹きながら校長は叫び続ける。が、本能と口を直結させられているためか妙な言葉が混じっている。
「いじ、め、を、見逃し、1人の命を、守れな、かった……。それ、は、教師、と、親……、大人、たち、の、責任……避妊具は着けない……ぐぐ……」
叫ぶたびに唇を強く噛みしめ、卑猥な連想が飛び出すのを何とか食い止めようとする。
「私たちは! 覚悟が足りなかった! 1人の命を背負う覚悟! 1人1人の未来に向き合う覚悟! 足りなかった! だから逃げた! 隠した! 本当は! 家族に謝罪し! 生徒たち全員が更生するまで何年かかろうと力を尽くす! それが! 責任を取るということだった! すまなかった!」
真っ赤に膨らんだ校長の顔。
締め上げられた喉から絞り出されるような謝罪の言葉。
それは明らかに彼の本心ではなかった。
これが、校長に与えられた罰。
本音が駄々洩れするように脳を破壊された上で、心にもない言葉を言わされる拷問。
彼は今、自分が最も言いたくない言葉を、全身全霊で言わされているのだ。
そして、それをやり遂げた彼にもたらされるのは――
「待て、待て……、話が、話が違う……」
突然、校長の体が小刻みに震え始めた。
「私は謝罪した! 大勢の前で懺悔した! これでもういいだろう!? これで許してくれると――!」
校長のたるんだ顔が恐怖に強張っていく。
彼自身が理解していた。自分の口を動かし、言葉を紡ぐことで理解せざるを得なかった。
教育者を名乗りながら、喪われた命から目を背け、邪悪の芽を摘み取ることを怠った者に、存在する意義など欠片もない。
存在意義のない者の謝罪など、塵芥ほどの価値もない。
「嫌だ! 『そこ』は嫌だ! 金ならいくらでも出す! 家も! 手形も株券も権利書も! やめてくれ! 娘も孫もくれてやる! そこだけは! だったらいっそ! いっそ殺してくれ! その目で見ないでくれ! 殺してくれ! 殺して殺して殺して――」
ぐるん、と校長の眼球が裏返った。
最後に大きくその身体をビクンと跳ね上げ、それきり校長は動かなくなった。
「叔父さん?」
何度かその身体を揺さぶった後、純太郎は恐る恐る校長の胸に耳を当てた。
心臓が動く音がする。
同時に、大量の何かがぞわぞわと蠢いている音も。
「うわ!」
全身に鳥肌を立て、純太郎は飛び退いて床に尻もちをついた。
(これが、姉原サダク……)
半信半疑だった存在が、純太郎の心の中でにわかに実体を得てゆくのがわかった。
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