第9話 傷 ―スティグマ―
――この半日、私たちも遊んでいたわけではない。
私たちは亡くなった米田冬幸の自宅を訪ね、彼の母親からこのスマホを借りたのだ。
「由芽依さん、そろそろ教えて下さいよ。あなた一体何を調べてるんですか?」
「言ってもいいけど、聞いたら警察を辞めることになるかも」
不満げに口を紡ぐ銭丸刑事を尻目に、私はスマホをノートパソコンにつないだ。
このマシンには、鑑識課の知り合いを通じて盗み出した暗号解析とデータ復元ソフトがインストールされている。
米田がプログラミングのスペシャリストでない限り、このスマホのセキュリティは在って無いようなものだ。
銭丸は私が何をしているのか解っていないらしく、ぼーっと私の所作を眺めていた。
果たして、いくつかの画像と動画ファイルが私たちの目に止まった。
「これって、合意の上じゃあ、やっぱないっすよね」
ここに来て、初めて銭丸の目に警察官の光が宿る。
もっとも、これを見て胸の奥が灼けつくような怒りを覚えないなら、そいつは警察官ではない。
「由芽依さんは分かってたんすか? 初めからこのことを……」
そう。
分かっていた。
姉原サダクが作り出す死体の周りには、いつもどす黒い瘴気が漂っている。
◇ ◇ ◇
「うっ、うぐっ、うえ、うえええっ……」
鹿谷慧は顔の筋肉をこわばらせて必死に泣くまいとしていた。
見ようによっては微笑みにすら見える。
恐怖と恥辱、負の感情が掛け算されて生み出された正の表情。笑顔と言うには、哀し過ぎる。
「鹿谷さん……」
「消して……消してください……お願い、ですから……」
「ええ。もちろん消去する。このことは誰にも言わない」
本来ならば証拠の隠滅だが、今は彼女の信頼を得ることが先決だった。
彼女の目の前でスマホを操作し、動画と画像を消去する。
「これでもう大丈夫。つらかったでしょう」
「……」
「もう耐えなくていい。いくらでも待つから、泣いていいよ」
だが、鹿谷慧はふるふると首を振った。
そんな彼女の様子に、私は心臓を締め付けられる。
彼女が泣かないのは、気丈なのではない。
彼女は知っているのだ。耐えがたい心の痛みを鎮める方法を。
スマホからデータを消去するように、苦痛と屈辱の記憶を記憶野から深層心理へ封印する方法を。
頭の中で処理が終わったのだろう。少女の顔に、また卑屈な微笑みが浮かぶ。
でも、そうやって封印した記憶は、未来永劫彼女を苛み続けるだろう。
時には悪夢として、時にはフラッシュバックとなって。
少女の心をここまで追い詰めた米田少年は確かに卑劣だ。
だが、教室のあの様子――黙秘権を持ち出し保身を考える者、まるで自分を鼓舞するかのような軽口を叩く者――彼らには米田に対しても何か後ろめたいものを隠しているように見える。
そして、それは容易に想像がつく。
あの教室の中では、米田もまた虐げられる存在だったのだろう。
彼にも彼の絶望があったと思う。
傷ついた心がずっと、声にならない悲鳴を上げていたことだろう。
彼の過ちは、その心の傷を自分より弱い者の血で癒そうとしたことだ。
彼女はどうだろう?
鹿谷慧が、この過ちの連鎖の終着点だろうか?
私は彼女の瞳を覗き込んだ。できるだけ穏やかな目線になるよう気を付けながら。
「1つだけ聞かせて。姉原サダクを呼んだのはあなた?」
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