第87話 追跡 ―ハント―
慌ただしく行き交う人々の間を、少女は鼻唄を歌いながら悠々と歩いていた。
黒を基調にしたセーラー服にロングコートを肩掛けするという、日本人にはなかなかできない着こなしは、彼女の肉体とセンスに対する絶対的な自信の現れだろうか?
彼女の周囲にはまるで見えない障壁が存在するかのように、どんなに慌てている人間も彼女だけは巧みに避けて通っていた。
古風に切り揃えられた黒髪。長い後ろ髪を束ねて風になびかせるその姿は、武家の姫君を思わせる。
その顔つきは穏やかで、口元はほころんでさえいる。だが、その目はまるで猛禽のように鋭く、なぜか涙が絶えることなく流れ続けていた。
「檀麗さん」
彼女の前に、スーツの上にジャンパーを羽織った2人組の男性が立ちふさがった。
「神奈川県警の者です。ちょっとお話を」
警察バッジを見せる男たちを、麗は鼻で嗤った。
「今かよ?」
「……」
男たちは一瞬たじろぐ。
確かに今は山火事で町を出られない上に、日和見警察署はまだパニックから抜け出せていない。
「今、だからだ」
刑事のうち、年長と思われる白髪交じりの男が一歩進み出た。
「君には、母親殺害の容疑がかかっている。それと、日本刀を持って家を出たという執事の通報も――」
「母親殺害? おかしいな……」
麗は細い顎をつまむようにして考え込む。
「父親も殺したはずなんだが?」
「「!?」」
全身を緊張させる刑事たち。
だが、その時にはすでに年配刑事に体を密着させるほどに間合いを詰めていた。
「ッ……」
2人の身体の間には、鈍く光る白刃があった。
「邪魔をするな。こんな時にクソ真面目に仕事するヒマがあんなら、年寄りに手でも貸してやれ」
気迫の勝負だった。
体を強張らせ、浅く荒い息をするしかできなくなった男たちを背に、麗は悠然と歩き出す。
――避難場所は日和見高等学校校舎です――
街頭スピーカーからは千代田町長の渋い美声が響いている。
「日和見高校か……」
首にかけた小瓶をそっと撫でる。
「そうだな。落とし前つけたら、また3人で楽しくやろう……」
◇ ◇ ◇
(バスケしたいなぁ)
ベッドに半身を横たえながら、各務野紗月はぼんやりと考えていた。
体はどこも悪くないのに、医者は自分を退院させてくれる様子がない。
それどころか、検査や治療といった類の医療行為をしてくれたことがない。
あるのは意味の解らない問診と、たまに打たれる効果を説明されない注射だけだ。
こちらから何か尋ねても、医者はひと言も答えてくれない。
(私、何の病気なんだろ?)
枕元を見ると、千羽鶴が1つ増えていた。
(志津、また来てくれたんだ)
自分を訪ねてくれるのは、親友の桂木志津だけだ。
だが運悪く、彼女が来てくれた時に限って自分は眠ってしまっているらしい。
(体、鈍ってんだろうな。退院したら、これまで以上に練習しなきゃ)
今、自分が無為に時間を過ごしている間にも、親友は先に進んでいる。
そう考えると、じわじわとした焦りを覚えずにはいられなかった。
そんな紗月のいる病室に、数人の看護師が慌ただしく入って来て紗月の向かい側に位置するベッドを整え始めた。
(同室の患者さん?)
誰だろう? 歳の近い女の子だと嬉しいのだが。
今はとにかく話し相手に飢えている。
だが、看護師は紗月の目線に気付くと、慌てて紗月の周囲のカーテンを引いて視界を閉ざしてしまった。
「こちらへどうぞ」
男の声が聞こえる。この病院の院長の声だ。
「しばらくの間、ここにいてください。決して大声は出さないように」
それに対し、老いた男性の声が返した。
「冗談じゃない! 私はケガ人だぞ! 私を誰だと思っている!」
「だから大きな声を出さないで!」
もめているようだ。
自分の側で男の怒声が聞こえるのは嫌な感じだが、同時に何が起こっているのか楽しみでもある。
紗月は抜き足差し足でカーテンに近づくと、隙間からそっと向こう側を覗いてみた。
(あれは……)
ベッドの上で横たわっているのは、脂で顔をテカテカさせた初老の男性。
男性の着衣は乱れに乱れており、ところどころに血がにじんだワイシャツは、なぜか片側だけがノースリーブになっていた。
その男性を、紗月は知っていた。
(校長先生? おやじ狩りでもされたの?)
いったい、校長の身に何が起きたのか?
紗月は胸を躍らせながら外の世界に見入っていた。
「まったく、私を誰だと思っている!? この私を一般病棟に入れるなど……」
校長は、普段生徒たちの前では決して見せないであろう、醜い大人の表情を浮かべていた。
まあ、生徒たちに見せる愛想笑いも十分醜いものではあるが。
「ご理解ください。今、外来は大騒ぎで、興奮した人々がいつ押し寄せて来るかわかりません。ここが一番安全なんです」
普段の事務的で偉ぶった態度はどこへやら、へこへこと頭を下げる院長先生。
「だったらせめて、専属の看護婦をつけてくれ。それととっとと手当をしてくれ。痛くてかなわん」
院長は「はぁ」と頭を掻きながら返事をし、側にいる若い女性看護師に「あとは任せた」と吐き捨て、足早に立ち去った。
(あれ?)
見たことのない看護師だった。
だが、妙な既視感があった。
すらりと長い手足、顎のラインで切り揃えられ、艶やかに波打つ黒髪。
「傷を確認しますので、シャツを脱がさせていただきますね」
「あ、うむ」
看護師はてきぱきと校長の服を脱がせ、傷をあらためてゆく。
「ひどいですね、痛かったでしょう」
「ああ。まったくひどい目に遭ったよ」
「消毒します。ちょっとだけ沁みますからね」
「ん」
消毒液を塗られるたびに、校長は顔をしかめる。だが、そのたびに彼の表情からは険が取れ、子供のような顔つきになっていた。
年齢で言えば看護師の方がずっと年下のはずなのに、2人の雰囲気はまるで姉と弟だ。
「手際がいいな。まだ若いのに」
看護師は「恐れ入ります」とぺこりと頭を下げる。
「弟が、よくケガをさせられていたので」
校長はデレデレと看護師に見とれていて気付かなかったようだ。
だが、紗月は彼女の言葉に何か、とても嫌なものを感じた。
心の古傷を抉られているような不快感。
「ではご用がありましたらいつでもお呼びくださいね」
看護師は立ち上がると、不意にこちらを見た。
(!?)
その瞬間、凄まじい悪寒が紗月の背中を抜けた。
口元に浮かぶ、穏やかな微笑み。
慌ててベッドにもぐりこみ、布団をかぶる。それで逃げられるはずもないのに。
(ヤバい……ヤバいヤバいヤバい……)
何がヤバいのか、自分でもわからない。
ただ、あの看護師の微笑みには何かとても恐ろしいものを感じると共に、紗月の中からも黒いもやもやとしたものが急激に膨張し、思考を侵蝕してくるのを感じていた。
その闇に触れてはいけない。その闇を見つめてはいけない。
何かおぞましいものを思い出してしまう。
思い出されてしまう。
手の平によみがえる、固く冷たい感触。
何かを砕き、潰す、鈍い衝撃。
(志津、助けて)
このとき、紗月は心のどこかで自分がとても滑稽なことを考えているような錯覚を覚えた。
慌ててぎゅっと目をつむる。
だが、まぶたの裏に横たわる誰かの血まみれの背中が浮かんだ。
(何これ!?)
刹那、シャッ! とカーテンが引かれた。
「ひっ!?」
思わず振り返った紗月の目を、真っ黒な瞳が覗き込んでいた。
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