第84話 小市民 ―パブリック―
気まずい沈黙が車内を支配していた。
日和見高校2年A組の1人、根津宗一郎とその家族は、中古のセダンに詰め込めるだけの荷物を詰め込み、この町からの脱出を試みていた。
根津宗一郎は、和久井たち不良グループから日常的に暴力を振るわれていたクラスカースト最底辺の1人である。
背丈が低く、この歳ですでに中年のビール腹のような腹回りをしている。
糸のように細い目からは、この世のあらゆるものに対するじっとりとした妬みに満ちた光が漏れている。
「……」
助手席に座る宗一郎は、窓から外を眺めたままひと言もしゃべらない。
父親はハンドルを握りながら何度か息子の様子をチラチラと窺うが、話すきっかけをつかめずにいた。
息子に話しかける勇気が出ない。
別に息子を恐れているわけではない。
ただ、嫌なのだ。
この歳になって、息子とは言え年下の同性に向かって頭を下げるのが。
もともと、あまり家族と会話するタイプの父親ではなかった。宗一郎もまた父親に似て、自分から学校であったことを話すような子供ではなかった。
「……」
後部座席には2人の女性が座っている。
1人は宗一郎の母親であり、彼女は息子とそっくりの姿勢で窓の外を眺めている。
彼女は理屈ではなく感情でものごとを判断するタイプであり、自分の非を認めるくらいならヒステリーを起こして暴れ回り、事を有耶無耶にする方を選ぶ女性である。
この時も、母親は己の自尊心を優先し、意地でも自分から口を開くまいとしていた。
「宗ちゃん」
結局、車内の圧に耐えかねて沈黙を破ったのは宗一郎の姉だった。
「もうすぐ町を出るよ。そしたら、嫌なことは全部忘れて、一からやり直そ?」
それまでも根津家はすれ違いがちな家庭だったが、状況が激変したのは今年の春だ。
宗一郎が家の貯金を使い込んだり、万引きをはたらくようになったのだ。
この時、根津家は全員が選択を誤った。
父親は息子を殴り、母親は泣き叫び、姉は無関心を決め込み、本人は沈黙した。
誰も事態の根本に目を向けようとしなかった。
自分以外の誰かが解決に向けて歩み出すことを期待し、結果誰も動かないことに苛立っていた。
もっとも、彼らには彼らなりの理由があった。
全員が薄々察していたのだ。
原因を突き詰めることは、妹尾明の死に行き当たると。
事実を見つめることは、彼らの闇を見つめることだと。
父親は高校生時代、妹尾真実を抱いた男子生徒の1人だった。
不良グループの末端だった彼は、散々に弄ばれて自力で体を起こすこともできないほど疲弊していた真実の後始末を押し付けられ、彼女を家に送る途中の草むらでその汚され切った体を抱いた。
地獄そのものの時間を耐え抜き、ようやく家で休めると思っていた少女を襲った絶望を思うと、今も胸が締め付けられる。
母親もまた、学生時代から真実をいじめていたグループの1人だった。
当時、女子グループのお局的存在だった千代田青華(当時は旧姓の仲島だった)に逆らえなかった。――と、思い込もうとしていた。
仕方なく悪事に手を染める可哀想な自分に酔いながら、『消毒』と称して真実の局部に熱湯や唐辛子などの刺激物をかけるといった遊びをしていた。
姉もまた然りだった。彼女が幼いころから、この町にとって妹尾母子は何をしてもいい存在であるというのが暗黙の了解だった。
彼女もそれに倣い、子供の頃は明のいじめに加担し、高校を卒業して勤め人になってからは真実の勤め先(昼は清掃員、夜はスナック勤めをしていた)に嫌がらせのクレームを入れてストレスを発散していた。
そして宗一郎自身も。
妹尾明がいる限り、自分はクラスカーストの底辺になることはないと安心していた。
安心して、妹尾明に対して虐げる側に回る愉悦を存分に味わっていた。
明が死ぬまでは。
根津一家は小市民だった。
長いものに巻かれ、自分より立場の弱い者をいびることに内心苦しむふりをしながら、結局そのおこぼれに与ってしまう程度には小市民だった。
だから今も。
彼らは自分を守り、他者を責めながら心の底ではこう思っていた。
(自分たちはか弱い。だから仕方なかった。だから許してもらえるはずだ)
「何だ?」
最初に異変に気付いたのは、運転席の父親だった。
「ちょっと、臭くない?」
じきに、後部座席に座る姉も気付いた。
その時にはもう、辺りはもうもうと立ち込める煙に包まれ、わずかな先も見えない状態になっていた。
「山火事だ!」
灰色の煙の向こうに、かすかに赤い炎が透けて見えた。
あっという間に峠は渋滞となり、進むことも退ることもできなくなっていた。
この時、一家は密かに町を出ようとしていた者が自分たちだけではなかったことに気が付いた。
「何やってんだ! 進め!」
「バカヤロウ! 車を捨てろ!」
「煙にまかれるぞ!」
車の外では怒声が交錯し、クラクションが鳴り響いている。
「「……」」
そんな中、根津一家はそわそわと身じろぎしつつも黙り込んでいた。
彼らは自分の頭で考え、動くことができなかった。誰か、判断力に富んだ強者――少なくとも自分に代わって責任を背負ってくれる誰か――に腕を引っ張ってもらえなければ何もできない者たちだった。
(どうすればいい? どうするのが正解なんだ?)
その時だった。
1台の大型バイクが宗一郎の前をすり抜けていった。
(あれは、和久井?)
気高い獣を思わせる、漆黒の車体。洗練された曲面で構成されたフルフェイスのヘルメット。
すれ違う一瞬だけ、目が合った気がした。
(いや、違う)
バイクは確かに和久井春人の物だが、搭乗者は明らかに彼ではなかった。
遠ざかっていく背中からは、あの男特有の陰鬱で廃退的な破壊衝動を感じない。
(あの雰囲気、どこかで?)
交差した視線。
やや浮世離れした、穏やかな眼差し。
「あっ――」
連想されたのは、柔和に微笑む桜色の唇だった。
「あね……はら……」
暴力の化身である馬場信暁を残虐な死へと誘った、あの微笑――
「「うわあッ!」」「「きゃあッ!?」」
その時、悲鳴が上がった。
隣に座る父親の口から、母や姉の口から、そして自分自身の口からも。
否、悲鳴は車外で逃げ惑う人々の口からも聞こえていた。
「蜘蛛!?」
それは、500円玉ほどの大きさをした、丸っこい腹を持つ真っ黒い蜘蛛の群だった。
どこから入って来たのか、蜘蛛はあっという間に車内に溢れかえった。
「「「!!!???」」」
一家は悲鳴にならない悲鳴を上げて車から飛び出す。
そこはすでに蜘蛛にまとわりつかれた人々によって混乱を極めていた。
「毒だ! 毒がある!」
「誰か! 何とかしてくれ!
「嫌ッ! 嫌ァ!」
恐慌をきたした女性が、髪を振り乱して狂ったように群がる蜘蛛を踏みつぶしている。
その死骸からは、なぜかツンと鼻を刺すガソリンの臭いがした。
「待って……違う……」
家族と離れ離れになり、人の渦に飲み込まれながら、根津宗一郎はつぶやいた。
「違うんだ、姉原さん……。僕は……」
次第に濃さを増していく煙と、ちらちらと垣間見える炎。
「妹尾と同じ被害し――」
刹那、その言葉だけは言わせまいとするかのように、凄まじい爆風が辺り一帯をなぎ払った。
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