第8話 犠牲者 ―スケープゴート―
「失礼します……」
蚊の鳴くような声と共に、鹿谷慧はのっそりと生活指導室に入って来た。
先刻の久遠燕のような背筋をピンと伸ばした張りのある姿勢とはまるで真逆の、だらしのない前傾姿勢。
でもよく見ると、彼女は背が高くて顔が小さい。9頭身、もしかしたら10頭身あるかも知れない。
同性の私が見てもはっとするような恵まれたスタイルなのに、卑屈を絵に描いたような姿勢のせいで完全に台無しだった。
彼女は顎を引き、こちらをすくい上げるような上目遣いでこちらを見る。
震えるようにまばたきする瞼からのぞく、うっすらと潤んだ瞳が全力で訴えかけて来る。
――私は、決して逆らいません。
「座って。楽にしていいよ」
少しフランクに話しかけると、鹿谷慧は言われたとおりに少しだけ肩の力を抜いて椅子に腰かけた。
彼女の長身は、脚の占める割合が多いのだろう。
こうして椅子に座ると、彼女はびっくりするほど小さくなった。
細かい所作に落ち着きがない。
特に目はキョロキョロと動き、定期的にこちらを窺う。
そんな彼女の目をみつめて微笑みかけてやると、彼女も釣られるように微笑んだ。
締まりのない口に、八の字に歪んだ眉。媚びへつらうという言葉がこれ程似合う笑顔もそうないだろう。
そんな彼女の素の顔立ちは、よく見ればけっこう整っている。切れ長の目と通った鼻筋にボーイッシュなショートヘアがよく似合う。
左右の耳には2つずつ、小さなピアスがついている。
造形だけ見れば凛々しささえ感じる美形なのに、奴隷根性丸出しの笑顔のせいで完全に台無しだった。
本来ならアクセントとしてとても似合うはずのピアスも、水に浮かんだ油滴のようにまったく馴染んでいない。
恐らく彼女自身にそのつもりは全くなく、むしろ意図としては真逆なのだろうが、鹿谷慧は目の前にいるだけで相手を苛つかせる因子を数多く備えていた。
思わず「もっとしゃんとしなさいよ」と背中でも叩きたくなる。
――お姉ちゃん。
いけない。
私はこっそり深呼吸して気持ちを切り替えた。
「今回は大変だったね。事故とは言え、神社で人が亡くなって」
「あ、はい……あ、いえ……」
「米田君のことだけど」
縮こまった肩がビクッと跳ねる。
銭丸刑事が心配そうな目を向けて来た。今からこんなに怯えられては、とても本題に入るなんてできないんじゃないか? 彼の目はそう言っている。
「鹿谷さん」
だが、私は進んだ。進まなければならないのだ。
「ここに、米田君のスマートフォンがあるの」
少女の顔色がさあっと青ざめた。
「あ……あ、あの……み、見たんですか……」
「……ええ」
「あ……あああ……あああああッ……」
絞り出される声は、悲鳴と言うにはあまりにも弱く、痛々しかった。
それでも彼女にとっては、それが魂を搾り上げるようにして発した絶叫なのが分かった。
「ッ――!」
もはや縋るというより祈るような目で、少女は私の隣にいる銭丸刑事を見つめる。
「……」
彼は答えなかったが、それこそが回答だった。
「嫌……嫌ッ……」
とうとう、鹿谷慧の目が絶望に染まった。
両手で顔を覆い、椅子の上でその大きな体を丸め、石のように固まってしまった。
「え、えっと……」
オロオロと狼狽える銭丸刑事を軽く睨む。
そこは嘘でも「自分は見ていない」と言ってほしかった。
いや、悪いのは私だ。
彼にしてみれば、わけのわからない個人的な暴走に付き合わされている上に、慣れない青少年の対応に気を使えと言われても困惑するだけだろう。
「ごめんなさい。銭丸さんは席を外していただけます?」
「え? いや、そういうわけには……」
私が彼に捜査の意図を隠しているように、彼もまた私に隠していることがある。
考えるまでもなく、彼の本当の任務は私の監視。
私の真意がわかるまで、私から目を離すなと言われているのだろう。
「お願いします」
だから、私は頭を下げて頼む以外に方法はない。
「あの子にとって、あの動画を見た者は等しく脅迫者なんです。特に男性は」
膝を折りたたみ、両手で耳を塞いで完全防御形態に入ってしまった鹿谷慧を見やる。
「今のままだと、この先の彼女の言動は銭丸さんの一挙手一投足に左右されてしまいます」
「いやぁ、僕はそんなつもりは――」
銭丸が手を動かした瞬間、少女の身体がさらに強張った。
その様子に、彼の目に憐憫の色が浮かんだ。
「……廊下にいます」
扉が閉まり、私たちは狭い部屋に2人きりになった。
私は彼女の側にしゃがんだ。自分の目線が彼女よりも下になるように。
「辛いことを思い出させてしまってごめんなさい」
首筋から背中にかけてをそっと撫でながら、彼女の浅く、荒く、不規則な呼吸が落ち着くのをじっと待つ。
米田冬幸のスマートフォン。そこに保存されていたのは、恐怖と羞恥に染め上げられた鹿谷慧の姿だった。
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