第79話 掃除 ―クリンナップ― ◇和久井建設残党の処刑
『日の湯』。
そこは、日和見町のオアシスである。
一家にひとつの浴室が当たり前になりつつある現代日本においてなお、日の湯は人々の交流の場として親しまれている。
「はぁ……」
日の湯の番台、三浦公介は今日も机に頬杖をついてぼーっと外を眺めていた。
番台と言っても、昭和のドラマに出てくるような、男湯と女湯の間の台で見張りをしているようなものではない。彼が座っているのは入口正面に備え付けられた近代的なフロントカウンターである。
三浦は20歳の時にこの銭湯を急逝した父親から相続した。経営のノウハウを教えてくれた母親も間もなく他界し、彼は今1人でここを切り盛りしている。
「聞いた? 今度は高校の先生ですって」
「怖いわねぇ。やっぱりよそ者の仕業かしら」
「でもその先生、裏で生徒に手を出してたみたいよ。ほら一緒に亡くなったのも……」
「ほんと、今の子は信じられないわー」
身体からホカホカと湯気を上げ、おばさん以上老婆未満といった妙齢の女性たちが3人、ペチャクチャとしゃべりながら通り過ぎる。
(ったく、あることないこと、よく舌が回るよな)
まあ、目新しい話題であるだけまだマシだ。
いつもなら決まった話題で決まった個所で盛り上がり、そして決まった結論を出す退屈極まりない音声を強制的に聞かされるのだから。
それは男性客でも変わらない。
このオアシスにやって来るのは、ある例外を除いて男も女もこのくらいの年齢層である。
彼女たちとすれ違うように、趣味の悪いスーツを着たガタイのいい2人組の男たちが入ってきた。
三浦はげんなりと肩を落とす。
彼らこそが常連の中の例外的存在なのだが、それは決して歓迎すべき客ではなかった。
「おう、大人2人」
ニヤニヤと笑いながらフロントに脂ぎった手をべたりとつく。
「……どうぞ」
デスクの下に取り置きしてあるロッカーのカギを渡す。
「いつも悪ぃな」
彼らは料金を払うこともなく、大声で怒鳴るように卑猥な会話を交わしながら脱衣所へ消えていった。
(クソ。残党が……)
三浦は口の中で毒づいた。
彼らは、言ってしまえば客ですらない。
いまはもう存在しない、和久井建設営業2課。この町の経済を支配する和久井建設の暗部を担ってきた暴力装置。
和久井ビル襲撃事件により、社長である和久井准二や専務の馬場をはじめ、その大半は命を落としていたが、たまたま出張などでその場にいなかった数人が今もこうして町のそこかしこで横暴を働いている。
社長の長男である春人が実権を握った暁には、彼らが中心となって第2の営業2課が組織されるのは確実であり、人々は今の段階から彼ら『残党』に媚びへつらわなければならなかった。
――ちなみに、あの現場にいながら生き延びた者たちは全員が発狂し、瞬間接着剤で唇を水道の蛇口にくっつけ、水を全開にして内部から破裂した者や、自らの糞便を喉に詰めて窒息死した者がいると言われているが真偽のほどは定かではない。
(しょせん噂だ。現実は何も変わりゃしない)
生あくびで苛立ちを吐き出そうとしたその時だった。
「すみません、大人1人です」
「はい、480え――」
あくび混じりの言葉が不意に詰まった。
目の前にいるのは、手足のすらりと長い黒髪の少女だった。口元には穏やかな微笑みが浮かんでいる。
ややサイズの大きいゆったりとした白いTシャツに、ダボッとした黒のワイドパンツ。かなりくつろいだ服装だが、ウエストが細いのでシルエットにメリハリが利いている。
「あとすみません、手ぶらなんですが……」
「ああ、石鹸とシャンプーは200円、貸しタオルはサービスで」
「では一式お願いします」
少女の朗らかな微笑みにつられるように、三浦の口元がほころんだ。
(やっぱり、若い子はいいなぁ)
日頃、干からびかけた人間たちばかり見ているせいだろうか。三浦にとってはこの少女こそがオアシスであるかのように思えた。
――数十分後。
「とってもいいお湯でした! ありがとうございました!」
ほんのりと頬を染め、細い身体から牛乳石鹸のほのかな香りを発しながら、少女はにこやかにお辞儀をしてきた。
「それはよかった。また来てね」
「はい!」
よほどお風呂が気持ちよかったのだろうか。少女は軽やかに歌を口ずさみながら日の湯を後にした。
(何だか、やけに古い感じの歌だな)
どこかで聞いたことがあるような気がするのだが、どうしても思い出せない。
もっとも、三浦がこの日の湯を継いでまだ5年。弱冠25歳の彼が『林檎の木の下で』という曲名を知らなくても無理はなかった。
問題なのは、三浦が少女の可憐な顔立ちを記憶に焼き付け、知る由もない歌を思い出そうと脳の容量を使っている間に、料金を払わずに風呂に入った男たちの存在を忘れてしまっていたことである。
……彼らはついに浴場から出てくることはなかった。
もしかしたらボイラーの清掃をする時、三浦は煤の量がやけに多いと感じるかも知れない。
◇ ◇ ◇
日の湯を後にした姉原サダクは、うーんと伸びをしながら人気のない土手をゆったりと歩いていた。
夕方の秋風がサダクの湯に火照った体を優しく撫でる。
そんな彼女の前に、軽ワゴンが耳障りなブレーキ音と共に停車した。焼けつくゴムの臭いがツンと鼻を突く。
停車と同時に、ガラの悪い男たちが3人、車から飛び出してサダクをとり囲んだ。
「姉ちゃん、ちょっと来いや」
1人がドスの利いた声と共にサダクの白く細い腕をつかんだ。
「……?」
間髪入れず、男たちの屈強な腕が少女の細い体にまとわりついた。
抵抗らしい抵抗もできないまま、暗い車内へと引きずり込まれてゆく少女の細い身体。
猛スピードで走り去るワゴン車。
エンジン音が遠ざかり、土手は何事もなかったように静けさを取り戻した。
「……」
しばらくして、土手の影から中型犬を連れた老人が恐る恐る顔を出した。
老人はきょろきょろと周囲を見回し、他人の目が無いことを確認する。
「何も見てない。そうだよな?」
老人はそう犬に話しかけ、ワゴン車とは反対の方向へ足早に去っていった。
☆ ☆ ☆
和久井建設従業員(元営業2課):焼死。
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