第75話 耳鳴 ―ティニタス― ◇担任教師の制裁その2
「終わったの……?」
「わからん」
笛木教諭の返答は頼りなかった。大河内多喜は舌打ちを隠そうともせず、首を巡らせて背後の暗闇に目を凝らした。
後続の車両は見当たらない。救急車が暴れ回った影響と、何よりも路上に転落したサダクの身体が交通を止めているのだろう。
「あぁ……どうなっちまうんだ……」
笛木が頭を抱える。
「ちょっと! 前見てよ!」
多喜は慌てて担任教師を叱咤した。
「今は少しでも距離を稼いで。県を越えれば警察の管轄が変わるから、少し余裕ができるんじゃない?」
「大河内……お前、どこでそんなこと覚えた?」
「ドラマ」
今どきの女子高生は強ぇな、と笛木は疲れた目でつぶやいた。
そんな彼を、多喜は少しだけ元気付けてやることにする。
「……余裕ができたらさ、適当なホテルで休もうよ」
シート越しに笛木の耳元で囁く。さりげなく『ホテル』の発音を強調して。
「ああ、そうだな」
にわかに活力を取り戻した担任の目に見えないよう、大河内多喜は密かに嘲笑した。
「千聖も、それでいいよね?」
もちろんホテルで休憩することにではなく、休憩中に何をするかについての確認である。
「……」
だが、日和見町2大美少女の片割れは、シートの上で自分の体を抱くように体育座りをしながら震えていた。
「千聖?」
「どうしよう……。どうしよう多喜……」
千聖は蚊の鳴くような声をあげ、不安げにこちらを見つめてきた。
「ちょっと何なの?」
「姉原と目が合った……」
「はぁ?」
千聖の視線が揺らぎだす。しだいに焦点が合わなくなってきた。
「ねえ、多喜。あのこと覚えてる?」
その美貌には、死人のように血の気がない。
「何のこと?」
「中学ん時さ、うちら、うっかり藤下センパイとの約束すっぽかしちゃってさ」
「……」
藤下とは、この町を縄張りにする半グレの暴走集団のまとめ役だった男である。
「あの時、言い訳のために妹尾をダシにしたよね……」
「覚えてない」
嘘だった。その時のことは後味の悪い記憶として多喜の頭にも刻まれている。
あの日、2人は隣町で芸能界の関係者と嘯く男性に声をかけられ、中学生には不相応なお小遣いと限定品のアクセサリーに釣られてちょっとした食事と撮影ごっこを楽しんだ。
その後、藤下との約束を反故にしてしまったことに気付き、2人は焦った。
本当のことを話すわけにはいかなかった。せっかくつかんだ大口の顧客を手放すのはあまりに惜しい。
だから2人は、苦し紛れに『妹尾明にしつこく誘われ、断れなかった』と嘘をついた。
結果、妹尾明は全治6か月の大けがを負った。
そして、あくまで噂だが、明の母である妹尾真実はお詫びとして息子の目の前で藤下の仲間全員の相手をさせられたと聞いている。
「あの噂……マジかなぁ……」
千聖の体は、まるで全裸で真冬の屋外に放り出されたようにガタガタと震えている。
「藤下センパイもこの辺で死んだんだよね……。ねぇ、うちらやっぱり、妹尾に恨まれてんのかなぁ!」
「っさいな!」
多喜は思わず千聖の髪をつかみ、その頬に平手を見舞った。
「恨まれてるに決まってんじゃん! だから逃げてんじゃん!」
千聖の首を締め上げるようにシートに押し付ける。そして醜く歪んだ美しい貌で、相手の歪んだ美貌を睨みつけた。
「みんなやってた。どいつもこいつも、都合が悪いことは全部妹尾に押し付けてた。でも、うちらだけ仕返しされるっておかしくない? おかしいよね? だから逃げんだよ。使えるものは何でも利用して逃げ切るしかないんだよ」
千聖は、不安でいっぱいな子供の顔でしゃくりあげていた。
(その顔、マジで腹立つ)
彫りの深い大人びた顔立ちの多喜に対し、あどけなさの残る愛嬌が千聖の武器だ。ただし、この武器は男性に対しては即効性の媚薬のような効果を生み出すが、同性には吐き気にも似た嫌悪感を呼び覚ます。
「じゃあ……、じゃあもし、町の人がみんな姉原に殺されたら、多喜はどうする?」
「はぁ?」
みんながしていたことで自分だけ罰を受けるのは嫌。だから逃げる。それが大河内多喜の言い分である。
だとしたら、みんなが罰を受けるなら自分も喜んで罰を受けるのか? そう問われているのだが多喜は理解していなかった。
「逃げるに決まってんじゃん。私、殺されるようなことしてないし」
多喜の答えに、千聖は「あはっ」と無邪気とも言える笑顔を浮かべた。
「聞いた? ねぇ今の聞いた? コイツ何も反省してないよ?」
「はぁ?」
「私は、私はずっと苦しかった。ずっと妹尾君に謝りたかった。妹尾君が死んじゃって、私、ずっと後悔してたの! 本当! 信じて!」
「……アンタ、誰に言ってんの?」
もう、多喜の声は千聖の耳に届いていないらしい。彼女はどこへともなく、だが明らかに誰かに向かって必死に訴えていた。
「本当は、本当は私、妹尾君のことが好きだったの! だから、ついあんな嘘を! 本当にごめんなさい!」
「ちょっと、千聖!? 何言ってんの!?」
明らかに異常だった。両眼が真っ赤に血走り、正常な彼女なら決して出さないであろう、洟とよだれが可憐な顔を汚している。
「お願い! お願いお願いお願い! 許して! 妹尾君のお母さんに全部打ち明ける! 謝るから! 一生かけて償うから! だから、だから――」
シートの上で千聖の身体がぎゅっとうずくまる。そして次の瞬間――
「お願い! 私を食べないで! 姉原さァァァーーーん!!!」
絶叫した千聖の両目から、血涙が噴き出した。
「千聖!?」
口や鼻はもちろん、全身の毛穴からも霧のような血が噴き出す。
肌が赤黒く泡立ち、肉と共に溶け落ちていく。まるで、これこそが千聖の本当の顔であると主張するかのように。
「嫌ッ! 嫌ァァァーーーーーッッッ!!!」
血肉の中から現れた白骨が、瞬く間に黒く変色していく。黒い骨格に表情筋の繊維が生え、やがて骨格を覆い、表面に白い皮膜を張ってゆく。
抜け落ちた茶髪に代わり、艶やかな黒髪が生え揃うと、そこにはもう小笠原千聖はいなかった。
「姉原……さん……」
姉原サダクがにっこりと会釈する。
「ち、千聖、は……?」
多喜の問いに、サダクは自分のこめかみのあたりを指差した。
「この辺りにいますよ。何か悲しんでるみたいですが、そのうち気にならなくなると思います」
そんな、耳鳴りの診断をする医者のような淡白さでサダクは答えた。
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