第73話 類焼 ―コラテラル・デス― ◇寿美花兄、ついでに制裁
「あ……」
大河内多喜が後部座席のドアを開けた瞬間、中にいた少女と目が合った。
「あーぁ……、そういうこと」
やがて納得したように頷く。
「あぁ、はいはい」
同時に車の中にいた少女――小笠原千聖も何かが腑に落ちた顔で運転席に座ろうとする男をにらみつけた。
「いや、これはその、偶然だ」
2人のジト目に見据えられ、笛木洋平は頭を掻いてごまかそうとした。
大河内多喜と小笠原千聖。2人は2-Aの中では目立たない部類の生徒である。
勉強、スポーツともに学業成績は中程度。問題行動はないが、代わりに他に模範を示すような活動もない。
だが、そんな2人にはある共通の特徴があった。
大河内多喜は、背中にかかるほどの長い髪を一部お嬢様結びにした清楚な雰囲気の少女である。通った鼻筋と細い顎、全体的に彫りが深い顔立ちで、切れ長の目を長いまつ毛が覆っている。
小笠原千聖は、大河内とは対照的なショートヘアだが、三つ編みをカチューシャのように頭に巻いた王冠編みのおかげで落ち着きのある雰囲気を醸し出している。整った顔立ちにありがちな冷たい印象はみじんもなく、笑顔の愛らしさを容易に想像できる愛嬌がある。
そう、この2人は2-Aに留まらず、日和見高校きっての美少女として通っていたのである。
「早く乗るんだ」
急かす担任に、大河内多喜はあからさまな不信の目を向ける。
「どこ行くんですか?」
「安心しろ。俺の母方のばあちゃんの所だ」
「どうして?」
「決まってるだろ。逃げるんだ」
美少女2人は顔を見合わせた。
「何で? うちら、佐藤さんのことは何も――」
千聖の疑問に、笛木は首を振った。
「佐藤じゃない。紅鶴や神保が殺されたのは、多分妹尾の……」
「「ッ!」」
美少女2人の喉が、そろってごくりと鳴った。
「うちらだけじゃない」
小笠原千聖が苛立たし気に前髪をいじる。
「つーか、教師らに責められる筋合いはないですけど?」
「わかってる。責めてるんじゃない。この町にいるのは危ないって話をしてるんだ」
「そんな……。だったら、その、和久井君とか檀さんの方がよっぽど――」
「やめなよ」
多喜が止めようとするが、千聖はまくしたてる。
「だいたい! 妹尾のことは千代田君が――」
「千聖!」
鋭い声を浴びせて千聖を黙らせると、多喜は車に乗り込んだ。
「刑事が言ってた。姉原にとっては、擁護した人も黙認した人も同罪……」
「ッ……」
聞きたくないとばかりに、千聖は両手で耳を覆った。その仕草に、多喜はわずかに眉をひそめる。
あの日以来、多喜は両親に何度もこの町を出たいと訴えた。だが、両親はまるでこの土地に根を張っているかのように動こうとしなかった。
姉原サダクはもう死んでいるのだから。
それが両親の言い分だった。
多喜は思う。
姉原サダクは初めから1度は死ぬつもりだったのではないだろうか?
2-Aに罪の意識と罰の恐怖を植え付けるだけ植え付けて、この町から出られない無力感をじっくりと味合わせる。
精神的な嬲り殺し。
事実、多喜は何気ない日常を送りながら精神はぐったりと疲れていた。
少なくとも、この町から逃がしてくれるなら、ひと晩くらいは目の前の担任と寝てもいいかと思えるほどには。
それは千聖も同じだろう。
だから彼女は笛木教諭の欲望を本能的に感じ取りながらも、車から出ようとしないのだ。
「早く行こ、先生」
「ああ。シートベルトしろよ」
アクセルを踏み込もうとした笛木だったが、突然目の前に人影がよぎり、急停止した。
「あ゛ーっ!」
笛木は雄たけびため息ともつかない、苛立ちの声を上げる。
人影は、顔を脂ぎったボサボサの髪と無精ひげで覆った、どうにも不潔さを感じる男性だった。
「誰?」
「隠れてろ」
千聖の問いに、笛木は首を振ってまったく答えになっていない返事をする。
男性が運転席のドアガラスを乱暴に叩く。
「何だ先生! 逃げるのか!?」
「……」
「妹を死なせておいて、自分だけ逃げるのか!?」
座席の影に頭を隠しながら、千聖が小声で「何なの?」と多喜に問うてくる。
「もしかして、寿美花の……」
近所の噂で聞いたことがある。
その命と引き換えに姉原サダクを退けた利田寿美花。クラスメイトから『お母さん』のあだ名で慕われていた彼女には無職で引きこもりの兄がいると。
そのろくでなしの兄は、寿美花に対してまさに母親のように依存していたという。
しかも、噂には寿美花の父もまた彼女に対し逃げた妻の代わりをさせていたという下衆な尾ひれがついている。
「何だよオイ!?」
寿美花の兄が、後部座席で息をひそめていた多喜と千聖に気が付いた。
「日和見高校の2大美少女じゃねぇか! 最低だな先生オイ!」
高校生から見れば中年にしか見えない男性が、自分たちの事情に詳しいことにゾワゾワとした生理的な嫌悪感を覚える。
「やめてください! 危ないから離れて!」
笛木の言葉に、男はさらにいきり立つ。
「お前ら、寿美花に助けられておきながら線香の1本も供えに来ない! そんで自分たちだけ逃げるのか!?」
バンバンと後部座席のドアを叩く。
発情したチンパンジーを思わせる男が窓を触った場所には、白い脂がくっきりとこびりついている。
(もうやだ。マジでこの町)
騒ぎを聞いて、近所や通りすがりの人々が集まって来る。
だが、誰も彼もが遠巻きに眺めるだけで止めようとする者は1人もいない。
「先生、出して!」
ついに堪らなくなり、多喜は叫んだ。
「でも……」
「このままじゃ殺される! 早く!」
笛木は1度思い切りクラクションを鳴らすと、車を急発進させた。
だがこの時、タイミング悪く男が車の前に回り込もうとしていた。
「「「あ」」」
間の抜けた声は、車の中からも外からも聞こえた。
鈍い衝撃。
男の身体がボンネットに乗り上げ、ずるずると沈んでいく。
男はほんの数秒、抗うような動きを見せていたが、しだいに蟻地獄に飲まれるように視界の下方へ消えていった。
「あぁ……」
笛木の口から怯えた声が漏れる。
「止まらないで! 行って!」
笛木が一瞬だけ多喜の顔を振り返る。
その目は、「言い出したのはお前だからな」と語っていた。
◇ ◇ ◇
「……」
利田寿美花の兄は、路上で万歳の恰好をしたまま仰向けに倒れていた。
車の下、タイヤとタイヤの間を何とかすり抜けたものの、中年太りの突き出た腹が車の底部にこすり、そこだけシャツのボタンがむしり取られていた。
呆けたようにポカンと口を開けている彼の頭は、実際のところ真っ白に染まっていた。
まさか、物理的な反撃をされるとは思ってもみなかった。
彼の趣味は、ネット上の掲示板荒らしや企業への苦情電話だった。
ネットの口論で彼は負けたことがなかった。もっとも、ネット上の議論に敗北者は存在しない。適当な相手に適当に咬みつき、暴言を吐き散らしてストレスを発散したら、あとは擁護者たちのコロニーに逃げ込んで傷をなめてもらいつつ勝利宣言をするのが作法というものだ。
それをぬるま湯のように感じ出したら、次は企業への苦情電話である。
相手の生の声を聞くのは、匿名で文字だけのプロレスよりもずっとスリリングだ。
しかも、社員教育の行き届いた企業ほどこちらに反論をして来ない。大企業に就職している者たちが自分に『申し訳ございません』と言ってくれるのは気持ちがよかった。
そんな彼の最新のトレンドは、学校への苦情だった。
こちらは最愛の妹を失っている。この優位は圧倒的だった。
学年主任や教頭を呼び出して床に手を着かせ、頭を下げさせるのは、まさに無双の快感だった。
なのにまさか、いち担任に反撃されるとは。
立派な轢き逃げをしておきながら、相手は車から降りるどころか、窓さえ開けようとしなかった。
(バカにしやがって……)
近所の住民や野次馬が集まっている。
――この人、ほら、利田さんのところの……。
――ああ、あの。
――寿美花ちゃんはいい子だったのに……。
(やめろ)
夢が醒めてしまう。
大企業の社員、教師、警察――。そんな者たちに頭を下げさせ、詫びの言葉を吐かせていた自分が崩れてしまう。
早く部屋に戻らねば。
部屋に戻れば寿美花がいる。
あられもない姿の寿美花の画像が、音声が、動画が、かけがえのない思い出が自分を癒してくれる。
だが、体を動かそうとすると、頭の中で釣り鐘が鳴り響くような錯覚に襲われる。
動けない。指先ひとつ動かすことができない。
(帰らなきゃ。帰らなきゃ。帰らなきゃ)
降り注ぐ視線が針のように痛い。
(見るな! 俺を見るな! 俺は帰る! 帰るんだ!)
なおももがく彼の手が、不意にひんやりと冷たく滑らかな感触に包まれた。
「頭を打っています。動いちゃダメ」
優しく諭すような話し方。
(寿美花?)
だが、白く霞む視界に入って来たのは、妹とはまるで似ていない少女だった。
「救急車を呼びました。だから、気をしっかり持って、少しだけ頑張って」
きれいに切り揃えられた、緩やかに波打つ黒い髪。神秘的な白い肌。すっと通った鼻筋に、穏やかに微笑む淡い桜色の唇。
「あっ、あっ……」
相手を美少女と認識した瞬間、彼の頭は極度の興奮と緊張に支配されていた。
(メイド服、着てくれないかな)
いや、きっと着てくれる。そんな確信が彼の中に芽生え、早くも思考全体に根を張っていた。
すでにこうしてお互いに名前も知らないうちから手を握ってくれているのだ。好感度はすでに高いレベルにある。あとは2、3回の会話イベントをこなすだけで彼女は自分に身を委ね、自分の子を喜んで孕んでくれるに違いない。
「救急車が来ました。もう大丈夫ですよ」
彼は全身の力を振り絞り、少女の手を掴む。
「お願い……そばに……いて……」
こうして弱々しい自分を見せると、寿美花はどんな時でも甘えさせてくれた。彼女もきっと――
「ええ、もちろん」
笑顔で応えてくれた少女の背中に、天使の翼が見えた気がした。
救急隊が駆け付け、担架に乗せられる。
「付き添います」
芯の強さを感じさせる少女の声。
「えっと、あなたは?」
困惑気味な救急隊に対しても、彼女ははっきりと
「家族の者です」
と答えてくれた。
(あぁ……)
運命だと思った。
彼女は、自分と結ばれるために現れたヒロインだ。
これまでの屈辱に耐える生活も、最愛の妹の死も、すべてはこれから始まる物語の序章だったのだ。
担架が動き出し、救急車の後部に入ろうとしたその時だった。
少女の唇が、彼の耳元にそっと近づいた。
「妹さんから伝言です」
「――え?」
それまでの温もりに満ちた声とは打って変わった、冷たく、生気を感じさせない響きだった。
「お兄ちゃんより大切な人ができました。さようなら」
「今、何て――?」
少女はそれきり、彼の手をすげなく振り払い、さっさと救急車に乗り込んでいく。
「君! 何して――うわ!」
「ぐっ――!」
悲鳴と共に、どさりと重い何かが落ちる音。首が動かない彼には何が起きているがわからない。
突然、救急車が急発進した。
「お゛ッ――!?」
がたん! と担架が車体から振り落とされた。寝かされていた彼の頭を強烈な衝撃が襲う。
――警察に連絡を! 救急車が奪われた!
――そんなことより、この人を早く病院へ!
――呼吸が! 脈が!
喧騒がやけに遠く聞こえる。
(待って、待ってくれ……)
手を伸ばしたいのに、今度こそピクリとも動かない。
(誰だ? 俺より大切な人って?)
耳に残るのは、名前も知らない少女の冷たい別離の言葉。
(嫌だ! NTRは嫌だ! 寿美花! 戻って来てくれ寿美花!)
男は、そのみじめで滑稽な姿を衆目にさらし、迷子のようにすすり泣く。
だが、そんな彼の泣き声に応える女性は、ついに現れないまま、彼の意識は奈落の底に飲み込まれていった。
☆ ☆ ☆
無職 利田満:脳挫傷により死亡。
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