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第72話 大人 ―アダルト―

 どうして高校教師になったのか?

 周囲からはよく問われるし、同業者からさえ真顔で問われることがある。


 こういう時、笛木(ふえき)洋平(ようへい)はいつも『若者が立派な大人になる手助けをしたいから』と答えている。

 その言葉じたいに嘘はない。

 だが恐らく、質問者たちの考える『立派な大人』と笛木の考える『立派な大人』は違っている。




 夢を持ち、理想を掲げ、目標を設定して全力で挑む。

 人は、それが立派な大人だと言うかも知れない。

 だが笛木に言わせれば、そんなものは現実を知らない子供と大して変わらない。

 人生は、現実は、ゲームとは違うのだ。




 笛木は初めから教師になりたかったわけではなかった。

 本当はプログラマーとしてゲーム制作に関わりたかった。そのために大学を厳選し、自らスマホアプリを作るなどの実績を重ね、高倍率の競争を生き残って就職した憧れの企業は――時代遅れのワンマン社長、太鼓持ちしか残っていない役員たちに導かれる沈みゆく船だった。


 就職したての頃は気付かなかった。

 むしろ、あの過酷な労働環境や上意から下達されてくる理不尽を、自分がプロになった証であると誇らしくさえ思っていた。


 入社3年目。

 決算書の偽装が発覚したその企業はあっという間に破産した。


 会社を信じて任せていた保険の類いは、実は給料から天引きされていただけで加入などしていなかったことが判明した。


 一瞬で失業者となった笛木。その両肩にどっと押し寄せる疲労を自覚した時、彼はようやく自分の社会人としての3年間と、それまでに費やした青春の年月が全て徒労だったのだと思い知った。


(夢だの理想だの、そんなものを信じている奴は大人じゃない)


 笛木は思う。


(本当の大人は、現実と絶望を知っている)


 例えば、この自分のように。




 ――先生。やっぱり私、納得できません。




 不意に、凛とした眼差しが思い出された。


佐藤(さとう)(あきら)……)


 生真面目で正義感の強い女子のクラス委員長。

 真っ直ぐな瞳と、きりっとした太い眉が印象的な少女だった。

 正直言って、2-Aは彼女のリーダーシップと利田(りた)寿美花(すみか)の包容力でかろうじて崩壊を免れている状態だった。


 そして、もう1人……。




 ――私もう、妹尾(せのお)君のこと黙って見ていられない! こんなのおかしいです!




「くそ……」


 気持ちよく酔っていたのに。


「理想じゃ、誰も助けられないんだよ」



 妹尾明。



 笛木は彼のことが嫌いではなかった。むしろ感謝すらしていた。

 何をしでかすかわからない和久井家の不良息子、豊かな教養の内側に猛獣のような凶暴さを秘めた檀家の令嬢、親がいろいろな意味で厄介なことこの上ない千代田の息子、ごみ溜めから這い上がった得体の知れない不良娘――


 問題児が1人いれば、多感な子供(バカ)たちはすぐに影響されて30人の問題児となる。

 そんなインフルエンサーを4人も抱えていながら今まで学級が崩壊しなかったのは、妹尾明のおかげである。




 歪みのしわ寄せを一手に引き受ける犠牲の羊(スケープゴート)




「円滑な社会には蔑まれる者が必要なんだ。悲しいけど、それが現実だ」


 そして立派な大人とは、現実を直視し、受け入れられる者である。


 彼を虐げていた2-Aの生徒たちは、将来このことを後悔する来るかもしれない。

 彼のことを思い出した時に飲む酒はいつもより苦く感じることだろう。

 だが、それこそがほろ苦い大人の味というものである。


 かく言う笛木自身、今日はウィスキーがやけに不味く感じる。


「忘れろ忘れろ。もう終わったことだ」


 悪酔いした頭でしみじみとそんなことを考えていると、スマホが鳴った。


『件名:【業務連絡】明日から授業を再開します』

(ったく、こき使いやがって)


 能天気に第2の夏休みを満喫しているであろう生徒(ガキ)共と違い、教師(おとな)たちは不快で理不尽で多忙な日々を送っていた。

 生徒の親やPTA、その他正義漢ぶったヒマな老人やマスコミくずれの対応。

 都会未満のこの町ではどこに知人の目があるかもわからず、教師は通販でも使わなければ酒も買えない日々を送っていた。


(さっさと寝よう)


 ウイスキーを一気にあおると、笛木は簡易ベッドに倒れ込む。

 生徒(ガキ)共の相手をするには、体力をできるだけ温存しなければならない。

 心地よい眠りの秘訣は、強い酒で脳を酔わせることと、お気に入りの女子生徒の姿を思い浮かべることだ。


 何人かの女子たちの、染み1つない素肌と媚びた瞳を想像していたその時だった。

 不意に1人の女子生徒が脳裏に浮かんだ。

 彼女が自分の教え子だったのはわずか数日。だが、その印象は強烈に記憶に残っている。


 すらりと長い手足、艶やかな黒髪、穏やかに微笑む薄桃色の唇――




 そして、光の無い、真っ黒な瞳。




「うわッ!」


 笛木は跳ね起きた。

 言いようのない悪寒がまとわりついている。

 周囲を見回すが、当然()()がいるはずがない。


 だが、はっきりと感じた。

 彼女の目線。()()()()という感覚。


「お前なのか?」


 どこへともなく話しかける。


紅鶴(べにづる)神保(じんぼ)を殺したのもお前なのか、姉原(あねはら)!」


 まるで答えるように、ガラスの容器に入れっぱなしの氷が「からん」と音を立てた。




 ()()




 肌に触れる空気は生ぬるいのに、なぜか身体の芯が冷えていく。

 身を震えさせる悪寒は、いつの間にか黒い(もや)となって笛木の背後に揺蕩(たゆた)っていた。


(錯覚だ。気のせいだ!)


 必死に自分に言い聞かせるが、不気味な空気の存在感は増す一方で、質量すら得ているのではないかと思えて仕方がない。

 理性でいくら説得しても決して抗うことのできない、本能的な確信。


「待て! 俺は、俺は何もしてない! 佐藤のことも、妹尾のことも、俺は何も――」


 ガクガクと震える足がテーブルに触れ、グラスが落ちて「がしゃん!」と割れた。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーーッ!!!」


 その瞬間、笛木の精神の均衡が崩れた。

 彼はついに背後を振り返る勇気を出せないまま、タンクトップとトランクスという姿で外へと飛び出した。




  ◇ ◇ ◇




 笛木を乗せた車が急発進する音が聞こえた。

 誰もいなくなったはずのリビングの片隅、光の届かない暗がりに淀んでいた空気が、不意にゆらりと(うごめ)いた。


 陰の中からゆっくりと立ち上がる、すらりとした体格の少女。

 姉原サダクは開け放たれたドアに目を向け、遠ざかる車のバックライトに向かって脚を踏み出そうとして、はたと止まった。


 キッチンカウンターに並ぶ酒瓶。


 サダクは笛木が飲んでいたウィスキーの瓶をしげしげと見つめていたが、しばらくして適当なマグカップに氷を入れてウイスキーをなみなみと注いだ。


 すんすんと臭いを嗅ぎ、困ったような顔で首を傾げる。

 だが意を決したようにマグカップに口を付け、真夏に麦茶でも飲むようにぐいっと飲み干そうとして――


「けほッ! けほッこほッ!」


 盛大にむせた。


「……」


 恨めし気にウィスキーを睨むサダク。ふと、その隣にある丸っこい瓶に気付いた。

 (いぶか)しみながらも、好奇心に負けたようにその瓶を取り、ふたを開けて臭いを嗅ぐ。


「!」


 サダクの顔が輝いた。

 適当なグラスに中の物をなみなみと注ぐ。そして勢いよく飲み干そうとして――


「けほッ! けほッこほッ!」


 盛大にむせた。


「……」


 目尻に涙を浮かべながら、瓶のラベルに光の無い目を凝らす。


「チョコレート……リ……リキュール?」


 どうやら自分の知っているチョコレートとは何かが決定的に違うらしい。

 サダクは少し寂しそうに大人の階段を昇るのを諦め、逃げ出した獲物を追いかけるべく歩き出した。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

続きが気になるという方は、広告の下にある☆☆☆☆☆より評価をしていただけると嬉しいです。


今後ともよろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] プログラマー笛木の過去にオッさんは涙、確かにどこまでも昇り調子のゲーム業界を少年時代の輝く瞳で見ていたら頑張ってそれに続きたいと思います(*´-`)平成半ばからの業界の縮小する姿はホンマ泣…
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