第70話 足掻きその3 ―ユースレス3―
和久井終は、その光景をただ見送るしかなかった。
今日もまた針の筵のような学校の1日を終え、終は傷つき疲れた心身を癒そうとサンハラ神社の階段を上っていた。
どうして自分は、いじめられると分かっていて登校を続けているのだろうと思わないでもない。
子供だからよくわからなかったことにして、さっさと周囲の大人に詫びを入れて父の初七日を喪に服せばいいだけの話だ。
「くそ、長ぇんだよこの階段」
階段を上りながら終は1人毒づいた。
解っている。自分の心は自分で憎たらしいほど解っている。
自分を叱ってほしい。
体当たりで止めてほしい。
本気で自分に向き合ってほしい。
そんなひねくれた子供みたいな欲求のためだ。
終の脳裏に母の面影が浮かぶが、それはすぐに別の人間に置き換わった。
(慧姉ちゃん……)
自分が年相応の少年として甘えられる唯一の存在。
彼女の裸を思い出すと、胸が高鳴って息が苦しくなる。
実は少年はまだ、性というものをはっきりと認識していない。
兄の友人が口にする卑猥な言葉を聞いたり、女性の裸体の写真が載った雑誌を見ても、そこに魅力と嫌悪が相半ばする予感めいたものを感じはするが、心身の興奮には結びついていない状態だった。
だから、慧の裸身に対して少年が思ったのは、もっと単純で根源的な欲望だった。
もっと体をくっつけてほしい。
抱っこしてほしい。添い寝してほしい。
この想いは、慧と初めて出会った時からずっと少年の中で燻っていた。
だが、日に日に高まる欲求をどう扱えばよいか分からず、結果あの過剰な横暴さとなって発露していた。
赤ん坊の癇癪と言われてしまえばそれまでだ。
(わかってる。慧姉ちゃんは、俺のものじゃない)
終は、自分が日ごろ周囲に吹聴しているほど彼女が将来自分の伴侶になるなど思っていない。
むしろ、いつか慧は別の男性(終よりも年上の)と結婚するのだろうとさえ思っている。
ただ、少年がほのかに想いを寄せる女性が、兄嫁に――兄春人のモノになることだけは耐えられそうになかった。
だから彼は慧のことを自分の未来の妻であると嘯いた。
あのプライドの塊のような兄のことだ。弟のお下がりを嫁にするなんて間違ってもしないだろう。
彼の日頃の傍若無人な振る舞いも、周囲から白眼視されながら意地のように続ける登校も、全ては愛に飢えた少年が憧れの女性に向ける彼なりの不器用な愛情表現だった。
そして今、そんな彼の目の前で、鹿谷慧は得体の知れない邪悪な敵と相対していた。
普段は閉ざされている中庭に続く裏口が開いていて、興味本位でそこを通った先だった。
「あぁ、私はもう刑事じゃないの。今の私はただの由芽依輝夜だから。由芽依さんでも輝夜さんでも、好きに呼んでいいよ」
一見、どこにでもいそうな若い女性。
ダークグレーのパンツスーツに、無造作に束ねた髪。
その横顔には、柔和な微笑みが浮かんでいる。
(何だ、アイツ……)
大人なら、その化粧気のない顔やパサパサの髪、やつれた目元に騙されたかも知れない。
だが少年は、その人生経験の浅さゆえに、残酷なほど直接的に由芽依輝夜と名乗る女性を見た。
(道化師だ)
化粧気のない顔こそ化粧、微笑みは演技、すべては演出された偽り。
少年の目には、アメリカンコミックスに登場する悪役の姿が、かつて幼い彼を夜も眠れないほど怯えさせた恐怖の存在が映っていた。
「あ、あぁ……」
悲鳴にならない吐息は、魔人を見る終の口から発したものか、魔人に魅入られた慧の口から発したものか。
それきり、少年は思考を止めた。
その双眸は起きたことを写し取るだけのカメラとなり、その脳はありのままを記録するハードディスクと化していた。
慧に近づいていく女。
やせっぽちの少女が2人の間に割り込もうとするが、女の腕が一閃して家の奥へ吹き飛ばされる。
怯える慧。
女はそんな彼女の顔に手を伸ばす。
何か薬でも嗅がせたのだろうか、慧はストンと眠りに落ちた。
女はそんな慧の腕をつかみ、ずるずると引きずりながら近づいてきた。
(慧姉ちゃんを助けなくていいのかよ)
頭の奥底からそんな声が聞こえた気がしたが、終の体はその声を完全に無視して微動だにしなかった。
「……」
「……」
奪う者と奪われる者がすれ違う。
ちらりと、女の目が終を見た。
「――残念。もう少し絆が深かったら、使えたのに」
その光景をただ見送る少年の目から、一粒の涙が落ちた。
『残念』と言われたその意味を、彼は直感で理解していた。
◇ ◇ ◇
「嫌アアアアアーーーッッッ!!!」
少女の悲鳴は無限の暗闇の中に吸収され、消えていった。
「ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
返事はない。あるのは、ギシギシと軋む鎖の音だけだ。
「出して! ここから出してください!!」
鹿谷慧は目隠しをされ、固い床の上に転がされていた。
後ろ手に手錠を嵌められ、足には太い鎖が幾重にも巻き付けられている。
「助けて……お願い助けて……、比奈ちゃん……利田さん……」
ここがどこなのか、なぜこんなことになっているのか、皆目わからない。
あの時、由芽依輝夜が――正確には由芽依輝夜を名乗る女性が現れ、慧を庇おうとした比奈を平手一発で吹き飛ばした。
そして恐怖にすくむ慧の顔に手が伸びてきて――
気が付いたら、彼女はこの冷たい暗闇の中で放置されていた。
「嫌……嫌、嫌、嫌……」
冷たい床、埃っぽい空気、虚空に反響する声。
慧の頭は混乱しつつも、ここが人里を離れた広い空間であることを認識した。
例えば、町はずれの廃工場のような。
(どうして? 私、何をしたの? 誰に何を謝ればいいの?)
じゃり、と。
砂っぽい床を踏みしめる足音がした。
「由芽依さん、ですか?」
足音の主は答えない。ただ、じゃり、じゃりと近づいてくる。足音はやがて慧の前で止まった。
「あ、あの、すみませんでした……。私、きっとあなたに何か迷惑をかけてしまったんですよね……?」
「……」
返事の代わりに、何か細長いものが空を切る音がした。
ヒュン、ヒュン……
そして3回目。慧の太ももに切り裂かれるような痛みが走った。
「ああああーーーーッ!!!」
耐えがたい痛みに、慧は身体をくの時に折り曲げる。
ヒュン、ヒュン……
今度は突き出した尻を打ち据えられる。
「くっ、ああああーーーーッ!!!」
激痛を少しでも緩和しようと、慧の体はエビのように反り返った。
「ごめんね」
ようやく、女性の声が聞こえてきた。
「もっと早くあなたのことに気付いていれば、もっと少ない犠牲で済んだかも知れない」
「え……」
慧の疑問の声を無視し、由芽依輝夜と名乗る女性は続ける。
「荒療治だけど、耐えてもらう。姉原サダクを倒すには、まずあなたには生き残ってもらわなくちゃ」
「ごめんなさい……、何を言ってるのか……、ごめんなさい……」
はぁ、とため息をつかれる。
ヒュン、ヒュン……
また、何かが空を切る。
「ヒッ――」
痛みに備えてこわばる身体に、容赦なく振り下ろされる何か。
「あぐぅぅぅッ……。ごめんなさい、何でもします! ごめんなさいッ!」
「死にたいの?」
金属のように冷たい声。
「このままだと、あなたは死ぬ。それでいい?」
死。
常に慧の頭の片隅に鎮座する概念。
――お前なんか死んだって誰も悲しまない。
――死ねば楽になるかもよ?
自分でも、それを否定する強い考えがあるわけではない。
最後の一線を超えなかったのは、単にその気力がなかっただけだ。
自分を殺してくれるという人がいるなら、こちらからお願いしようといつも妄想している。
「……よくない、です」
慧はしばらく考えて、そう答えた。
「だったら、どうする?」
「すみません……――す……」
「ん? 何?」
「あ、すみません、いっそ――す……」
「聞こえない。もう一度ぶたれたい?」
「ヒッ……あ、すみません! い、いっそ、ひひ、ひと思いにお願いしますッ!」
「そっち……」
はぁ、とまたため息。
「もういい。だったら殺してあげる。でも残念、ひと思いには殺してあげない。あなたはここで、独りぼっちで泣き叫びながら、ゆっくり、ゆっくり、痛みを体に刻み付けて、心を閉ざすことも、狂うことも許されず、永遠に死に続けるの」
「違……、それだけは……、それだけは……」
「じゃあ、始めるね」
ヒュン、ヒュン……と激痛の前奏が始まる。
「嫌アアアアアーーーッッッ!!!」
少女の悲鳴は無限の暗闇の中に吸収され、消えていった。
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ここから物語は最終章に入ります。
最終章執筆にあたり、自分でも予想外に膨らんでしまった設定などもあり、展開を修正して書き溜めを行いたいと思います。
再開は7月末ころを予定していますので、お待ちいただければ幸いです。