第68話 足掻き ―ユースレス―
スケッチブックをしっかりと胸に抱え、少女は走る。
軽さだけが取り柄のカリカリにやせた身体はあっという間に体力を使い果たし、もう動けないと悲鳴を上げる。
そんな彼女を突き動かすものは何だろう?
死への恐怖ではなかった。彼女は生まれてこの方、生に執着したことはなかった。
言葉。
多くの人間が当たり前のように使えるこの道具を、彼女は生来うまく扱うことができない。
読むことはできる。理解もできる。だが、話すことができない。書くこともできない。
そのために、彼女は自分がこの世界では半分異星人なのではないかという疑問を拭い去ることができないでいる。
生まれ変われば、他の人たちのように違和感のない生活を送ることのできる世界に行けるかもしれない。日々そんな妄想をし、時に妄想に身を任せたいという欲求を抑えきれなくなる彼女である。
彼女の痩せこけた身体は、そんな死への憧れによって定期的に発症する拒食症の結果である。
では、そんな彼女はどうして、必死になって走っているのだろう?
「……」
息切れに喘ぎながら、少女の小さな口が自嘲の笑みを浮かべた。
大切な友達のため。
そんな陳腐で胡散臭い理由のため。
鹿谷慧。
言葉を介さずに意思の疎通ができるこの世で唯一の理解者。
生まれながらに敏感すぎる感受性を持つ異能者。
自分と同じ、誰にも理解されない呪いを背負わされた少女。
彼女を助けるために。彼女を誰にも渡さないために。
楠比奈は走っている。
◇ ◇ ◇
「和久井君!」
今日もたまり場で不良たちと無為な時間をつぶしていた和久井春人のもとに、逆立てた金髪の男子が息せき切って駆けつけて来た。
「紅鶴が殺されたって、マジで!?」
「……ああ」
相変わらず退屈の沼に沈み込んだ顔で春人は答えた。答えながら、春人は紅鶴ヘレンの顔を思い出そうとしたが5秒で諦めた。
「やっぱ姉原かな? 俺たちもヤベェんじゃねえのかな? ねえ和久井君!」
少年のの言葉におろおろと落ち着きなくうろたえ始める不良たち。そんな彼らに、春人は熱したフライパンの上で煎られている豆を連想していた。
「なぁ」
ぴん、と跳ねる金髪。いよいよ弾け飛んだ豆みたいだ。
「お前、名前なんだっけ?」
「……田所だけど。え、マジで?」
「冗談だよ」
「あはははははははは……」
少年たちの乾いた笑いに、春人は密かに気分を害した。
笑いが曇っている。
春人への畏怖、崇拝の色が褪せ、代わりに不信の染みが広がりつつある。
――こいつについていて大丈夫か?
と。
他人にはまったく興味のない春人だったが、逆に他人からの視線には異常なまでに敏感で病的に執着する少年でもある。
本当は奴隷(今は根津1人しか残っていない)が来るまで黙っているつもりだったが、不信の臭いをかすかにでも感じ取ってしまった今、もう我慢できなかった。
「いいもん見してやるよ」
春人は部屋の片隅に立てかけていた楽器ケースのようなものに手を伸ばす。この場の誰もが気になっていたものの言い出せないでいた代物だ。
「親父の遺品だ」
ケースを開くと、そこには一丁の猟銃が収められていた。
木製の銃床はクラシカルながらも、漂う死と破壊の空気は少年たちの心を一瞬で捕えて離さなかった。
「この世に死なねぇ生物はいねぇ」
猟銃の存在感にのまれた一同に、和久井春人の静かな声が染みていく。
「いくら姉原でも、熊でもブッ殺せるこいつを喰らって生きていられるはずがねぇ」
猟銃を構えて見せる。
見様見真似だが、天性の運動神経と勘の良さを持つ春人がやると、アクション俳優のように様になっていた。
おお、とざわめく不良たち。
だがその中で1人、田所時貞は和久井に気付かれないように表情を偽りながら膨れ上がる焦燥と戦っていた。
(違う。違うんだよ。姉原は生物じゃねぇ。銃なんかじゃ死なねぇんだよ!)
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