第67話 忘却 ―レーテ―
楠比奈は長い前髪の隙間からじとっとした目で友人を見つめていた。
「何やってんだろ私……」
あの日以来、数えきれないほど繰り返される独り言。
「何やってんの私ィィィ!?」
あの日以来、数えきれないほど繰り返される悶絶。
鹿谷慧は両手で顔を覆い、大きな体を折りたたんで畳の上を転がっていた。
「……」
比奈は、神社の母屋の縁側にちょこんと座って相変わらずスケッチブックにペンを走らせながら、時折そんな慧を見やっては小さくため息をついていた。
自分の意思に関わらず、他人の望むことをしてしまう。
これが鹿谷慧の病とも言うべき悪癖である。
押しが弱いというレベルではない。相手にほんのわずかでも共感してしまったら最後、慧は引きずられるように相手の要求に応えようとしてしまう。
一種の強迫観念だった。
――アンタも悦んでたでしょ?
そんな慧にひとしきり欲求を叩きつけた者が等しく口にする言葉。
しかし、慧はいわゆる尽くす喜びを感じたことなど1度も無い。
心はいつもズタズタに引き裂かれ、不可視の血と涙を流し、記憶を無意識の沼に沈めることで自分をかろうじて守って来た。
彼女は生来感受性が強かった。
相手のほんのわずかな仕草や表情、声色の変化から感情の機微を敏感に読み取ることができた。
その対象は人間に留まらず、動植物や地殻、天候にまで及ぶ。慧自身はそれらを神社の娘らしく『神様』と表現していた。
それはある種の天賦の資質だったのだが、残念なことに彼女が特別な存在であると見抜いた者は――彼女自身を含めて――1人もいなかった。
「……」
比奈を除いて。
比奈と慧はいわゆる幼馴染みである。
幼稚園の頃からのいじられっ子仲間と言ってもいい。
ある意味、親よりも間近で慧のことを観察してきた比奈は、ある意味、本人以上に慧のことを理解していた。
惜しむらくは、比奈にこのことを本人や周囲に正確に告げる手段がないことである。
さらに巡り合わせの悪いことに、慧は体の発育が非常に早かった。
そのため幼少期は木偶の坊扱いされ、思春期に入れば性的な蔑視と嫉妬の目にさらされ、人格を形成する大切な時期に自己を肯定する機会をついに得ることができなかった。
結果、慧の中で先天的な感受性の高さと後天的な自己愛の低さが最悪の化学反応を起こし、卑屈の極みとも言うべき人格が完成してしまったのである。
「どうして……私は……」
うじうじと悩む慧の尻を、スケッチブックがべしっと叩く。
「痛ッ!? 比奈ちゃん?」
開いたスケッチブックには、微笑み合いながら額をくっつけ合う男女が描かれていた。
それは慧と、相手は和久井終だった。
「……?」
首を傾げる比奈。
――彼のことが好きなの?
という問いに、慧は慌ててぶんぶんと首を振った。
慧の精神に『他人を嫌う』という概念はない。彼女にとって、他者を測るものさしは恐怖を感じるかどうかである。
そんな彼女から見て、和久井家特有の傲慢さを持ちながら心に大きな地雷を抱える終は極めて苦手な存在だった。
(だったら、どうして私は……)
慧のことを未来の嫁だと吹聴し、所有物のように扱う終の前で、どうして自ら服を脱ぎ、一緒に入浴するなどという行為をしてしまったのだろうか。
いや、慧の煩悶の要因はそこではない。
彼女は終が心の奥底で望んでいたことを読み取り、実行させられてしまったに過ぎない。
問題なのは、行為の中で感じた奇妙な精神の昂ぶりと、その記憶がいつまでたっても無意識の領域に封印できないことにある。
「……」
比奈がスケッチブックに目を戻す。終の部分を消し、別の人物を描いていく。
「あ――」
浮かび上がるのは、慧と同じくらいの背丈をした、華奢な体格の少年――
「やめて!」
慧は慌てて比奈の手を押さえた。
「ごめん、比奈ちゃん。私また……」
慧はようやく思い当たった。
あの時、自分がつかんだのは終の手ではなかった。終の向こうに別の人物を思い描いていたのだ。
泥にまみれ、傷だらけにされたその姿に、ある人物を重ねずにはいられなかったのだ。
彼女が初めて出会った、恐怖を感じない異性。それがいつしか淡い想いへと変わっていった少年。
そして、彼女の無意識が常に忘却の深淵へ追いやろうとする、罪の象徴。
「そうだよね。私には、悩む権利なんてないんだっけ……」
描きかけの少年に、ぽたぽたと雫が落ちる。
「ごめんなさい……。私また、あなたのことを忘れようとしてた……。ほんと、何やってんだろ……。何で、こんな私がのうのうと生きてて……、あなたみたいな人が……」
比奈の痩せこけた手が慧の頭を撫でる。
「ごめんなさい……。明君、ごめんなさい……」
比奈の愛撫はそよ風と同じだった。
励ましでも慰めでもなく、ただそこにいる。
だが、今の慧にはそれが最もありがたいものだった。
「邪魔してごめんね」
比奈はふるふると首を振る。
慧が比奈に感じたことを、比奈もまた慧に感じていた。
ただ、そばにいてくれるだけでいい。
夏の終わりを感じさせるそよ風を受けながら、2人は背中を合わせて縁側に座る。
再び、比奈がシャープペンシルを走らせる音がその場を満たしはじめた。
――だが、その時だった。
「「ッ!?」」
2人はほぼ同時に顔を上げた。
庭の植木に潜んでいた小鳥たちが一斉に飛び立ち、より高く、より遠くへと逃げ去っていく。
「あ……あぁ……」
ガタガタと震え出す慧の体。
「しばらくぶり、鹿谷さん、楠さん」
風が、現れた人影に吸い込まれるように強まっていく。
「け、け、けけ……」
ガチガチと歯の根が合わず、言葉が出てこない。
「怖がらないで……って言っても無理か。あなたには多分見えてるだろうし」
無造作にまとめた髪、昏い隈に縁どられた目。
美しい三日月型をした、微笑みらしき口元。
「け、刑事、さん……」
「あぁ、私はもう刑事じゃないの。今の私はただの由芽依だから」
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