第66話 機心 ―ヒューマニズム―
(最近、煙草の量が増えたなぁ)
日和見警察署の刑事、銭丸保孝は煙草のパッケージを握りつぶしながら苦笑した。
そもそも彼は警察学校に入る前に煙草を止めていたはずだったのだが――
姉原サダク。
彼女が現れ、この町は混沌に飲まれてしまった。
それと同時に、銭丸は自分でも気付かないうちに喫煙を再開していた。
ふーっと渋みしか感じない煙を吐く。
日和見高校2年A組、米田冬樹の転落死から始まり、4人の犠牲を出した校舎での惨殺事件、暴走族の集団事故、模倣犯による猟奇殺人、和久井ビル襲撃事件、そして――
カラオケボックスの女子高生惨殺事件。
被害者である紅鶴ヘレンと神保ここあの死体もまた、見るも無残なものだった。
だが、銭丸の精神をすり減らしたのはむしろ生きている者たちの方だった。
神保ここあの両親は、変わり果てた娘の前で互いに育児の責任を擦り付ける喧嘩を始めた。
紅鶴ヘレンの親に至っては『死んでくれてよかった』とまで言い切った。
(早く引っ越したいなぁ)
無性にやるせない。
その原因はこの混沌とした闇がサダクによってもたらされたものではなく、初めからこの町に存在していたものがサダクによって暴かれていると感じることである。
(俺、この町のこと何も知らなかったんだな)
生まれ育ったこの町が好きで、町の平和を守る警察官になったのに。今は目を背けたくなるような、知らなければ良かったと思うようなものばかりが目に入る。
(返信なしか)
和久井ビル襲撃事件から、由芽依輝夜とも連絡が取れない。
正直、相棒と呼ぶにはいささか抵抗のある相手だが、この状況を理解し、心情を共有してくれるのは彼女だけだった。
「あ、銭丸さん!」
受付係の女性警官がパタパタと走って来た。
「2人の遺体を引き取りたいと言う人が来てるんですけど」
「え、何で僕に?」
「他の刑事はみんな逃げ――聞き込みに出かけちゃいました」
「はぁ……。勝手に担当を外しておいてこれだもんなぁ」
頭を掻きながら喫煙室を出る。
「ん? 待って、2人とも引き取りたいっておかしくない? 家族じゃないの?」
「それが――」
◇ ◇ ◇
(なるほど、センパイ方が逃げ出すわけだ)
ギラギラとした殺気に燃えた視線をグサグサと突き刺されながら、銭丸は内心でそっとため息をついた。
「えっと、檀麗さん……だよね?」
艶やかな黒髪をまっすぐに切り揃えた古風な前髪。長い後ろ髪をポニーテールにした姿はさながら武家の姫君だ。
黒地に赤のラインが入ったセーラー服は日和見町の学校のものではないが、見るからに名門校であることを窺わせる。
なのだが――
「ヘレントココアハドコニイル?」
一瞬、人間の言葉で話しかけられたことにすら気付かなかった。
「え?」
間の抜けた声で聞き返した瞬間、「シャア!」と猫もしくは蛇を思わせる掛け声と共に、ネクタイを掴まれものすごい力で引き寄せられる。
「ヘレンとここあに会わせろつってんだ……。何度も言わせるな三下ァ……」
「えぇー……」
(何この娘、完全に手負いの野獣じゃん)
武道は人間の精神を育てるとか言っている者を、彼女と同じ檻に入れて1日放置してやりたいと思う。
喫煙室に行く前にトイレに寄っていなければ、間違いなく漏らしていただろう。
「わかった。案内するから、とりあえず手ぇ放そ?」
「指図してんじゃねぇ……、黙って連れてけ……、なぁ……?」
「わかった。わかったから」
両手を上げて降参のポーズをとる。凶悪犯に人質にされた気分だった。
麗を霊安室に案内する。
部屋からは何やら言い争う男女の声が聞こえてきた。
「大体、母親のお前が面倒を見ないから――」
「はぁ? 仕事も子育ても私がやるの? じゃああなたは何? 趣味みたいな仕事で不安定な収入しかないあなたはいったい家族のために何をするの?」
「俺は……もともと子供なんて……」
「あのー、すいませんが葬式はうちのと合同にしてくれませんかね? うちはほら、葬式代も……」
「こんな時まで物乞いかよ」
「へへへ……。いやぁ、じつはこの指のことで娘さんには……ねえ?」
ネクタイを掴んでいた手が離れた。
解放感と共に、冷や汗が手の平を濡らす。
(やべー。火に油ならぬガソリンに火種だよ)
これは銭丸の暢気というよりは、この先の地獄を見越した現実逃避である。
その予見は1ミリも裏切られることはなく、直後には麗の強烈なヤクザキックが霊安室の扉を吹き飛ばしていた。
「どけ! ゴミ共が!」
行く先を阻む茂みを鉈で切り払うように、手刀で大人たちを追い払う麗。
乱入者の剣幕と迫力に、逆らえる者は1人もいなかった。紅鶴ヘレンの両親に至っては、その場で腰を抜かして「ごめんなさい、ごめんなさい」と土下座を始める始末である。
「ちょっと待った!」
2人の顔にかかった布を取り払おうとする麗を、銭丸はほとんど体当たりをするように止めた。
「ご遺体は傷が激しいから! 1度心の準備を――」
「うるせぇ!」
白い布が取り払われる。
「……」
さすがの麗も言葉を失っていた。
無理もない。
一応申し訳程度に修復されているものの、神保ここあは首を捻られた上さらにねじり切られており、紅鶴ヘレンは頭蓋骨の右半分を割られていた。
だが、遺体の損壊状態もさることながら、凄惨なのは彼女たちの死に顔だった。
ここあの貌はこの世のあらゆる恐怖と苦痛を体現しているかのようであり、ヘレンに至っては絶望としか言いようのない表情を焼き付けられているようだった。
「……キヒッ」
変わり果てた親友たちをじっと見つめていた少女の口から異様な音が漏れた。
片手で自分の顔を覆うように押さえつける。
「クッ、ヒッ……」
それでも、溢れ出る感情を押し留めることはできなかった。
「ウヒャハハハハハハハハハハハハハッッッ!!!」
耳を塞ぎたくなるような、けたたましい狂声。
「アーッハハハハハハハハハハハハハハッッッ!!!」
それは、決して笑い声ではなかった。
顔を覆う少女の手と指の隙間から、涙が滝のように流れ落ちている。
「ヒャハッ! ハッ! ハハハッ! アハハハハッ!!!」
銭丸はいまだかつて、目の前で人が死ぬところを見たことがない。
サダクが学校を襲撃した時も、彼は死体は見たが死の瞬間は見ていない。
「ハハ……ハハハ……ハ……」
だが、彼はこの時、1人の人間が死ぬ瞬間――魂が壊れてゆく様をはっきりと見た気がした。
「……」
やがて、顔を上げた少女はこれまでの狂態が嘘のように静かに佇んでいた。
「……2人は私が引き取る。葬儀も檀家で取り仕切る。いいよな?」
抜け殻が、有無を言わさぬ口調で告げる。親たちは何も言い返すことができなかった。
「待ってくれ、そんなこと君の一存では決められない」
「私は檀家の当主だ」
「え?」
機械のような声色で言われたため、銭丸は相手が何を言っているのか咄嗟に理解できなかった。
「警察はいつも通り黙って手続きを進めりゃいいんだ。余計な意思表示してんじゃねぇよ木っ端」
1人の大人に対してこれ以上ない暴言なのだが、不思議と銭丸の心に怒りは湧かなかった。あるのは、怒りが一周回って無になってしまった者への恐怖と、哀しみが一周回って無になってしまった者への憐憫だった。
白磁器のような顔色をした麗の両目から、流れ続ける涙が筋をつくっている。
銭丸には、この涙が檀麗に残された唯一の人間性のように思えた。
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