第65話 振り子 ―ペンデュラム― ◇紅鶴グループの制裁その6
小さな胴体から、皮だけでぶら下がった顔がゆらゆらと揺れている。
「マジかよ……こんな死に方、あんのかよ……」
恐怖と苦痛、そして絶望に歪んだその貌は、まさに苦悶と呼ぶにふさわしかった。
「んだよ……何なんだよ……いつもいつもいつも……どいつもこいつも……あたしらばっかいじめやがって……」
「……?」
床に突っ伏し、食いしばった奥歯から恨み言を漏らすヘレンに、サダクは一瞬きょとんと首を傾げたが、すぐに穏やかな微笑みを取り戻した。
「許さねえ! ぜってぇ許さねぇからな姉原! テメェはぜってぇにブッ殺――」
サダクを睨みつけようと上げたヘレンの顔を、横から強烈な打撃が襲った。
「がッ――!?」
ヘレンの体が吹き飛び、J-ロックの歌詞が垂れ流されていたモニターに頭から突っ込んだ。
「あガ、ガ、ガ、ガ……」
電子機器が火花を散らし、感電により少女の体が細かく痙攣する。
「クソがァ!」
血に染まった顔面を引っこ抜くヘレン。そこへ間髪入れずに鈍器を振り上げたサダクが躍りかかる。
「がふッ!」
頭を殴られ、床に這いつくばる。その無防備な後頭部へ恐ろしく重い連打が降り注いだ。
「やめッ! 姉原ッ! 鬼かテメェ! やめッ! やめろッ!」
必死に頭を守る両手の上から、容赦なく叩きつけられる強打の雨。
パキッ、パキッと軽く乾いた音を立てて手の骨が砕けていく。
「やめろォ! やめてくれッ! おねがッお願いだから――ッ!」
不意にヘレンの声が涙に詰まった。
「頼むから……これ以上……ここあをいじめんなよぉ……」
はらはらと涙を流して懇願し始めたヘレンの目の前に、ごとんと落ちる鈍器。
それは、原形を留めないほどに歪みきり、頭皮が剥がれかけた少女の生首だった。
「ぁぁぁぁぁあああああーーーッッッ!!!」
絞り出されるような絶叫。
身体的苦痛では絶対に出ることのない魂の叫び。
「ここあ! ごめん、ごめんなここあ! ごめんな――」
人生2度目の哭声を上げながら、ヘレンはそれを誰にも渡すまいとするように抱きかかえた。
「アリかよッ! こんな死に顔! 許されんのかよチクショウ! クソ……クソが……」
1秒ごとに色を失い、温度を失い、単なる物体と化していくここあの頭を、必死に温めようとする。こびりついた血をぬぐい、頬をもんで何とか苦悶の表情を消そうと試みる。
「クソッ! クソッ! クソォッ!」
だが、いじればいじるほど、ここあの顔は歪みを増し、地獄の責め苦を受ける亡者のごとき様相を見せ始めた。
「取れねぇ……何で、取れねぇんだよ……」
ぬぐってもぬぐっても、ここあの顔を汚す薄赤い雫。
それがヘレン自身の頭から流れ落ちている、血と脳漿の混合液だと気付いたのは、ヘレンの両手がしだいに言うことを聞かなくなり、やがて上半身の姿勢を支えることも困難になってからだった。
「く……そ……が……」
いつの間にか、姉原サダクの姿は消えていた。
壊れた液晶がパチパチとスパークしている以外、音の消えたカラオケボックスに取り残される。
その時、床に落ちていたスマートフォンが振動した。
「ッ!」
思うように動かない体に鞭打って、必死に手を伸ばす。
「う……ら……ら……」
うらら:今どこ?
うらら:大丈夫?
うらら:何してる?
うらら:返事してくれ。
うらら:何かあった?
うらら:無事?
「麗……」
(そうだ。麗だけでも助けなきゃ)
紅鶴ヘレンが悪魔と形容されるにふさわしい歪んだ人格破綻者であることは間違いない。
しかし、彼女が自分の死を前にしてもなお、友人のために涙を流し、友人のために残されたわずかな時間を使ってしまえる少女であることもまた事実だった。
『うた』
(クソッ)
冷えた手が震える。濡れた指先がうまくスマホに認識されないのがもどかしい。
『うちらもうだめだ』
(急げ……、伝えなきゃ、麗に……)
冷たい死がひしひしと迫って来る。命の砂時計はあとわずかだ。
『うちらもうだめだ にげろ』
これで大丈夫だろうか?
頭に血が上ると見境がなくなる麗のことだ。これを見たらかえってヘレンたちを助けようとこの町に戻って来るのではないか?
だが、他に適切な言葉が考えつかなかった。
あえて絶交の言葉を送ることも考えたが、どんなに工夫をこらしても、麗はこちらの意図を読み取って助けに来てしまいそうな気がする。
(あんただけでも……逃げてくれ……)
賭けだった。
ついさっきまで麗からの連絡が幸運だと思っていたのに、今ではヘレンの最後の希望を断ち切らんとする不運と化しているのは何とも皮肉だった。
(送信を――)
その時だった。
「なるほど、そうやって使うんですね」
いなくなったはずの死神が語りかけて来た。
「あ……ね……は……ら……」
「はい、姉原サダクです」
いや、いつから彼女がこの場を去ったと思い込んでいた?
ヘレンがサダクの立場だったら、殺したいほどどうでもいい相手に希望を抱かせて死ぬなんてことを許すだろうか?
他人に冷たい人間特有の、なぜか自分だけは他人から恩情をかけてもらえるという根拠のない思い込み。
それはヘレンも例外ではなかった。
白い細指がスマートフォンを静かに奪い取る。
「あ、待っ……」
サダクはややぎこちなくスマホを操作し、「こんな感じでどうでしょう?」とそれをわざわざ見せて来た。
「ッ!?」
『たすけて』
「やめろ――」
送信。
ヘレン:たすけて
……。
うらら:すぐいく
「あ、ああ、あ……」
光の無い瞳がヘレンの瞳をじっと覗き込む。
ヘレンの心が絶望に染まったのを見て取ると、サダクは今度こそ部屋を出て行った。
スマートフォンを、ヘレンの指先がギリギリ届かない位置に置いて。
「あ、ね、は、ら……」
最期の命を振り絞って手を伸ばす。だが、指先とスマートフォンの1センチにも満たない空間はすでにヘレンにとっては底なしの谷間に等しかった。
うらら:ぜったいたすける
うらら:がんばれ
「あァァァァァねェェェェェはァァァァァるァァァァァーーーッッッ!!!」
文字通り、魂を吐き出すような絶叫を最後に、紅鶴ヘレンの頭がごとりと床にぶつかった。
裂けた頭皮から、血と脳漿にまみれた頭蓋骨と灰色の脳の一部がこぼれ出る。
震え続けるスマートフォン。見なくてもわかる。麗からの励ましの言葉。
(違う。違うよ麗。逃げてくれ。アンタだけでも逃げ延びてくれれば、あたしは、あたしらは、麗の中で生きて……いや、どうでもいい。あたしのことはどうでも。生きてくれ麗。それだけでいい。それだけでいいんだ……)
そんな思いに抱いた時、不意にヘレンの思考にこれまで関わって来た人々の顔が流れるように浮かんできた。
街灯に群がる夜蛾同然に無関心だった人々の中から、2人の姿が浮かび上がる。
(海老澤……妹尾……そっか、アンタら、ずっと、護り合って……。あたし、何見てたんだろ……何考えてたんだろ……。あたしはずっと……アンタらのことを誰よりも解ってあげられる場所にいたのに……)
光を失っていくヘレンの目から、涙が一滴だけ流れ落ちた。
この無念を、悔しさを、あの2人はずっと抱えて生きていたのだ。最期の別離の瞬間まで。
(海老澤、妹尾、ごめんな……)
紅鶴ヘレンの魂の最後の欠片は、後悔という名の巨岩に圧し潰され、消滅した。
☆ ☆ ☆
日和見高校2年A組 紅鶴ヘレン:脳挫傷により死亡。
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