第62話 嫉妬 ―エンヴィ― ◇紅鶴グループの制裁その3(回想)
紅鶴ヘレンの体がどさりと落ちる。
「く……そ……」
紅蓮の髪を炎のように逆立て、燃え上がるような目をするヘレンの前で、姉原サダクはそっとシャツをはだけて見せた。
腹部に穿たれた穴からナイフが吐き出され、カシン、と乾いた音を立てる。噴き出していた体液が止まり、傷口が塞がっていく。
「あ」
ふと、サダクはヘレンが吐き出したフルーツタルトを拾い上げると、治りかけの傷口に押し込んだ。
「ダメですよ、食べ物を粗末にしたら」
「て……め……え……」
そこへ、ゆらゆらと波打つ黒い人形がここあの髪をつかんで引きずってきた。
「に゛ゃー! に゛ゃー! に゛ゃー!」
黒い人形は、サダクが放った大量の百足の集合体である。
あまりのおぞましさと嫌悪感に、すでにここあは抵抗する意思のほとんどを削り落とされていた。
「ごめんなさい……、妹尾君ごめんなさい……。ここあ、本当は嫌だったの、本当はあんなことしたくなかった……。でも……でも……」
ここあがきっとヘレンを睨む。
「あいつにやれって言われたの! ここあは逆らえなかった! 仕方なかったの!」
◇ ◇ ◇
あの『親殺し』を成し遂げて以来、ヘレン達に後ろ指を差せる者は誰もいなかった。
彼女たちの周囲には、ある一線を超えた人間特有のオーラのようなものが漂っているようだった。
ヘレンは念願の搾取されない生活を手に入れ、スマホで流行のファッションをチェックし、美容院に通い、美しさとカリスマ性に磨きをかけていった。
麗はこれまでより主体的に自己研鑽にいそしむようになった。
だが、その目的は両親の期待とは異なり、将来ヘレンたちと町を出て3人で自立するという夢のためであり、彼女たちにとっての自立とは親殺しに他ならなかった。
ここあはそんなヘレンたちに嬉々として付き従い、様々な情報を集めたり同世代の少年少女との窓口になっていた。2頭の虎の威を存分に借りていたとも言えるが。
ともあれ、少女たちは青春を満喫していた。
だが、その裏で徐々に肥大化していく自意識があることを、彼女たちは自覚していなかった。
3人の少女はそれぞれの理由で社交性が未発達だった。
社交性とは、他者に対する共感能力と言い換えることもできる。
だが、彼女たち3人が感情を共有するのはお互いだけであり、その他の者たちに対しては、たとえ目の前で誰かが瀕死で倒れていたとしても平然とその前を通り過ぎるのではないかと思えるほどに無関心だった。
しかも悪いことに、ヘレンは社会経験と人心掌握術、麗は家柄と能力、ここあは愛嬌と巧みな処世術により、彼女たちの稚気は自分たちさえ自覚できないほど絶妙にカモフラージュされていた。
そして彼女たちは高校に進学し、そこで海老澤永悟と妹尾明に出会うことになる。
「ヘレンってさ、海老澤君のこと好きなの?」
「は?」
本人よりも先にそれに気づいたのはここあだった。
「だってヘレン、ちょくちょく海老澤君のこと目で追っかけてる」
「……別に。デケェから目に入るだけだよ」
「何だよ、ヘレンはあんな不良がいいのか? 私の方が強いし頭も良いぞ」
「妬くなよ」
むくれる麗をなだめつつ、ヘレンは改めて海老澤永悟を見た。
細身ながら引き絞られた筋肉に覆われた身体、男子にしては長い髪はボサボサだが不潔さは感じず、むしろ野生動物のような美しさを感じる。
「へれ~ん」
つんつんと頬をつついてくるここあの指が、やけにひんやりと感じられた。
この頃はまだ、ヘレンの目には永悟の影に隠れるように付き従う妹尾明のことは入っていなかった。
1年間、ヘレンたちと永悟たちが交わることはなかった。
ヘレンは以前よりははるかに効率的になったとは言え、相変わらず学費や交遊費を稼ぐためのアルバイトに勤しんでいたし、麗もいまだ勉学と習い事に忙しかった。
大きな変化があったとすれば、ストレス解消の道具を手に入れたことだろうか。それは名前を鹿谷慧といい、顔の上半分はいつも泣きそうなくせに下半分はへらへらと笑っていて、見ているだけでイラつく少女だった。
彼女は出会った時からすでに多くの女子たちから時に召使いのように、時にATMのように扱われていた。
(金を吐き出す乞食かコイツは)
クラスカーストの底辺から頂点へと成り上がったヘレンから見れば、何の抵抗の意思を見せない慧の姿は自ら奴隷の地位を受け入れ、天から奇跡が下りるのをぽかんと口を開けて待っている愚か者にしか見えなかった。
もちろん、ヘレンとて今の自分の地位には、地元の資産家の娘である麗の存在が大きいことは自覚している。
しかしヘレンは、自分が麗と知り合えたのは自身が絶望という泥の中を歯を食いしばって抗っていた結果であると自負していた。もし部屋の隅っこで影のように座っていたままだったら麗とは出会えなかったし、出会えたとしても彼女はヘレンなど見向きもしなかっただろう。
それ以来、運とは自分で呼び込むものだというのがヘレンの持論だった。
もし、運に恵まれなかったとしても、ここあのように恥も外聞もなげうってなりふり構わず有力者に取り入る策もある。
自分では何もせず、周囲からの助けをただ求め続けるだけの人間――両親やかつての自分のような者を、ヘレンは心の底から軽蔑していた。
彼女たちが2年になった時、事件は起きた。
突然、海老澤永悟が退学したのである。
この頃、主にここあの持ってくる噂話で永悟の家庭事情を知っていたヘレンは、自分で思っていた以上に精神的ダメージを負ってしまっていた。
特にヘレンを打ちのめしたのは、妹尾明を舎弟扱いしていると思っていた永悟が、実は彼を和久井のような不良たちから護っていたのだと知った時だった。
(この世にそんな人間がいるのかよ)
幼い頃、童話にもアニメにも触れて来なかったヘレンにとって、『ヒーロー』のような存在は衝撃だった。
ヘレンはもはや、海老澤永悟という異性への想いが爆発的に膨張していくのを自覚せざるを得なかった。
一方、ヘレンはここで初めて妹尾明という少年に意識を向けた。
その関心には嫉妬の成分が多分に含まれており、彼女は最初から敵意を持って少年を見つめていた。
(何で、あんな奴が……)
細い骨に皮が張り付いたような華奢な体、安物のおもちゃのような丸メガネに不潔に照る伸びた前髪。
すべてが気に入らない。
だが何より許せないのは、永悟が去った後、明が和久井達の支配に諾々と従っていることだった。どんなに殴られても、屈辱的な命令を受けても、彼は人形のように受け入れ、時に卑屈な微笑みさえ浮かべていた。
(これじゃ、海老澤が道化じゃんか)
ヘレンのフラストレーションが高まっていた頃、ついにその日が訪れる。
それは、ここあが撮影した画像から始まった。
「昨日ね、隣町でこんなの見っけたんだ」
スマホには、広場のベンチに座る1人の女性が映っていた。
画面を越しでさえ、彼女は見る者の目をはっと惹くほど整った容姿をしていた。
「何? 芸能人?」
麗はわかっていなかった。だが、ヘレンは一目でわかった。
「これ、海老澤?」
「正解」
「え、うそ……」
麗がスマホに見入る。
「人の趣味はそれぞれだしどうでもいいや」
ヘレンにしてみれば、物理的にも精神的にも遠い存在に感じ始めた海老澤がさらに遠くなった気がして、本当にどうでもよくなりかけていた。
ここあが「でねでね」と次の画像を見せるまでは。
「な――」
そこには、恋人のように腕を組んで歩く、女装の永悟とあの妹尾明がいた。
ぞくり、とヘレンの胸中で何かが蠢いた。
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