第61話 百足 ―センチピード― ◇紅鶴グループの制裁その2
「い、痛い……痛いよぉ……」
「大丈夫。大丈夫だから」
今、ここあの手はドリンクの氷を詰めたハンドバッグに突っ込まれている。
人形のように小さく、滑らかだったその手は今、青紫色にうっ血し、サツマイモのように膨らんでいる。
(最悪、切り落とすことになるかもな)
可愛い妹分が苦痛に苛まれる姿に心肺を握りつぶされるような思いを味わう一方で、ヘレンは酷薄ともいえる冷静さで状況を見ていた。
ヘレンの心の中には、どんな時でも決して解けることのない凍り付いた部分が存在する。
彼女の意識を1本の木に例えるなら、そこは1本だけ接ぎ木された枝のようなものだった。
確かにヘレンの一部でありながら何かが異なるその部分は、彼女の感情には一切流されることなく現状を冷徹に分析し、容赦なく突きつけてくる。
(うるせぇ! んなことさせるかよ!)
紅い髪を振り乱す。
わかっている。一瞬の気の迷いが生死を分けるこの状況において、ヘレンが判断を委ねるべきはこの凍て付いた思考である。
これが他の人間だったら、ヘレンは迷わなかっただろう。
だが、ここあは特別だった。たとえ演技であっても――むしろ演技であることは百も承知で――子犬のように一心に自分を慕って来るこの少女をどうしても無下にできなかった。
「大丈夫だ。すぐに救急車が来る。しょせん虫の毒だ。薬ですぐに良くなるさ」
ここあの小さな体を抱きしめる。
少しでも安心させたい。一刻も早く助けたい。
その時、ドン、ドンと個室のドアがノックされた。
「お客様ー? 表に救急車が来てるんですけど、何かあったんですかー?」
「来た! ここあ、助けが来たよ!」
この時、ヘレンは判断を誤った。
誤らせたのは、彼女の感情だった。
大切な友達を守りたいという、強く熱い想いだった。
「急病人だ! 早く助けてくれ!」
ソファをどかし、ドアノブをつかむ――
(待て!)
心の片隅で冷静な自分が叫ぶ。
(いつもの店員の声じゃない!)
だが、ヘレンは止まらなかった。止まれなかった。
勢いに任せてドアを開け放つ。
現れるのは、漆黒の瞳と穏やかな微笑み。
「あッ、ね――ッ!?」
毒で爛れた口腔に、お持ち帰りのフルーツタルトが突っ込まれた。
「ぐ……おえっ……」
床に這いつくばり、口に突き刺さったと言っていいフルーツタルトを抜き取る。タルト生地に赤いものがべろりとくっついているが、それが何かを確かめる余裕は無かった。
「姉原……姉原ァ……」
屈辱の炎がヘレンの心を灼く。
恐怖と混乱で他者の思考能力を奪い、意のままに操る術は本来ヘレンの得意とするところだったはずだ。
だが今、思えば喫茶店に彼女が現れた時からずっと、思考を支配され弄ばれているのはヘレンの方だった。
「……」
勝ち誇るでもなく、嘲笑うでもない、無感情な目がヘレンを見下ろしている。
「ざけんじゃねぇぞ! 姉原ァァァッ!!」
ヘレンは腰に隠していたナイフを抜き、腰だめに構えて突進した。
ずぶり、と確かな手ごたえを感じる。
「キヒッ!」
ヘレンの口から残忍な笑みが漏れる。
サダクの腹に刺さったナイフを抜くことなく、そのまま心臓に向けて突き上げる。
迷いのない衝撃に、一瞬サダクの足が地を離れた。
柄を握る拳までが白い肌の破れ目を押し広げる。刃が臓腑をかき分けていく感触。
「笑うんじゃねぇ、クソ亡霊!」
サダクの体内でナイフを滅茶苦茶に動かし、臓腑を切り刻む。
真っ赤な血と、黄色い胃液や胆汁が混じったすさまじい臭いの液体が溢れ出る。
「コイツ――!?」
この時、ヘレンは2つ目の過ちを犯していた。
むしろ順番としてはこちらが先かも知れない。
学校で起きたサダクの最初の殺戮の時、彼女はもっと由芽依輝夜の話を聞くべきだった。
その後も銭丸刑事らとの交流を保ち、サダクに関する情報を仕入れるべきだった。
相手が普通の人間ならば、的が大きく動きにくい胴体への刺突は極めて有効だっただろうが、ことサダクに対しては無意味なのだ。
口の端から血を吐きながら、サダクは微笑みを崩さない。
「クソ、マジで化け物かよ……」
サダクの両腕がゆっくりと開き、ヘレンの胴体を抱きしめるように捕えた。そのまま、まるで自分の体内に取り込もうとするかのように締め上げる。
「ぐ――」
ヘレンの骨がきしみを上げる。
「上等!」
ヘレンは闘争本能の赴くまま、サダクの首筋に噛みついた。
それはさながら、互いに捕食し合う蟲と獣。
(あたしの背骨が逝く前に、テメェの頸動脈を食い千切ってやる!)
サダクの首すじから鮮血が噴き出した。
「今だ! ここあ――」
この時、ヘレンは自分が最終的に何を言いたかったのか、実は本人にもよくわからない。
ただ、すでに自分を置いて一目散に逃げていた小さな背中が目に映った時、ヘレンは「あはっ」と笑い、自分は「逃げろ」と言いたかったのだと思うことにした。
ぐるんとサダクの首が回る。
――逃がさない。
その口元は微笑んだままだが、ヘレンは確かにサダクの意思を感じた。
明らかにヒトの可動域を超えて曲がった頸から血の霧が迸り、ここあの背中に追いすがる。
「ここあァ!」
「嫌あああああッ!」
廊下に少女の悲鳴が響き渡る。
サダクの血は空中で姿を変え、大量の黒い百足となってここあに襲い掛かっていた。
「ぎゃー! ぎゃー! ぎゃー!」
狂ったように鳴き叫ぶここあの前で、百足の大群が寄り集まってある形を成していく。
それはまるで、立体化した人影だった。
「あ……あ……あ……」
人形を見るここあの目に、それまでとは別種の恐怖が宿った。
「あいつは……」
ヘレンにもはっきりとわかる。
病的なまでに華奢なあの体格は、見間違いようがない。
「せ……妹尾……君……」
黒い人型が、ゆっくりとここあの体にのしかかる。
「やめろォ!」
ヘレンは叫んだ。
その瞬間、腰のあたりでプツンという感触が走り、それきりヘレンの下半身は一切の感覚を失った。
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