第59話 狂犬その2 ―ケルベロス2―
開かれたトイレのドア。その蝶番側の隙間に挿し込まれた5本の指。
「待て……待て待て待て……」
和式トイレの床に組み伏せられた体はピクリとも動かせない。
のしかかっているのは羽毛のように軽い少女の体なのに、大の男がいくら抵抗しても相手は小揺るぎもしない。
完全に関節を極められている。
そしてヘレンはそんな這いつくばった父親の腕を伸ばし、その上に全体重をかけて拘束していた。
「ほら、おかーさん何してんの? ドアを閉めるだけの簡単なお仕事だよ」
「できない……そんなこと……」
前歯をへし折られ、口から血の泡を吹きながら亜美は首をぶんぶんと横に振る。
「どうして、こんなこと……」
聖也の問いにヘレンは朗らかに答えた。
「障害年金って知ってる? 事故で利き手の指が全部吹っ飛べば一生年金が下りるんだよ。好きだろ? 働かないでお金もらうの」
全身から冷たい汗が噴き出す。
ヘレンの目には確かに積年の恨みが燃えているが、その炎の奥にチラチラと見える無邪気ともとれる光が何よりも不気味だった。
頑張って勉強した自分を褒めてほしいと願う、純粋な子供の目――
「悪かった……。これからはちゃんと働くから……」
「ごめん聞こえなかった」
「これからは! ちゃんとはたら――」
「え? 何? ちゃんと借金は踏み倒す? だよねー」
「違――」
「で? さっきからマミーは何してんの? 涙じゃご飯は食べれないよ? アンタはただうっかりドアを閉めればいいんだよ。それでお金には困らなくなるんだから、何迷ってんの?」
亜美は駄々をこねる子供のようにいやいやと首を振る。
「わっかんないなぁ……」
ヘレンは本当に理解できないらしく、眉を寄せる。
「何が嫌なの? 言ってごらん?」
「……」
「アンタら働かないんだから指なんてもともと要らないじゃん。要らないものを捨てるだけで一生お金に困らない、こんなおいしい話、他にある?」
「……」
「それとも、代わりにおかーさんが指捨てる?」
「ひッ――」
亜美は弾かれたように立ち上がる。
「待て……待て! 待て! 亜美! 落ち着け!」
「誰もおかーさんを責めやしないよ。やらなきゃやられるんだから。仕方ないよね。大丈夫。おとーさんだって恨んだりしないよ。だってそうだろ? おかーさんがいなきゃ、クソした後のケツを拭く人がいなくなっちゃうじゃん」
クスクスと笑う少女たち。下ネタを楽しむ幼子のように。
「ご……ごめんなさい……」
その謝罪が自分に向けられていると知り、聖也は陸に揚げられた魚のように暴れだす。
「やめろ! やめやめやめやめ――あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーッ!!!」
「ひぃぃ!」
だが、ドアは閉まるには至らなかった。亜美が途中で腰を抜かしてしまったからだ。
「あお・・・あおぉぉぉ……」
押さえつけられた体では激痛に悶えることもできず、聖也は血走った目をむき、食いしばった歯の間から白い泡を吹きながらひたすら呻くしか無かった。
芋虫のようにワキワキと蠢く5本の指は、今だ手にくっついている。
「惜しかったね。もう1回」
「無理……もう……できない……」
亜美は涙ながらに許しを乞う。今まで、多くの責任をうやむやにしてきた涙だが、娘には通じなかった。
「もう1回」
「お願い……もう……許して……」
「もう1回」
「アンタ悪魔!?」
「いやいや、人間に決まってんだろ。アンタが産んだんだからそこは自信持とうよ」
そんな不毛なやり取りしているところへ、3人目の悪魔の子が現れる。
「ヘレン、こっちは終わったよ~」
アッシュグレーに脱色したふわふわのくせ毛をした、子犬を連想させる小柄な少女。
「お疲れ」
ヘレンは両親には見せたことのない慈しみの目で少女を見やり、そっと唇に人差し指を当てた。
「まだ終わらないの?」
「ああ。何せどこに出しても恥ずかしいダメ人間なんだようちの親」
「カワイソウ……」
「なー」
ヘレンは「ちょっと代わって」と言って腕を押さえる役目を少女に譲る。
この瞬間に聖也は最後の抵抗を試みるが、それを見越したように少女の手には裁縫用の裁ちばさみが握られており、眼球の前に突きつけられてしまった。
ヘレンはそんな聖也に向かってふん、と鼻を鳴らし、かったるそうに腕を回す。
「ったく、こっちはアンタらと違って忙しいんですけど。せっかく5時間目の授業をサボって(バタン!)来たんだから、麗ん家の門限まで少しは遊びた(うぎゃあああああああああ!)――うるっせぇな!」
ドアを開けると、聖也はトイレの隅で蹲っていた。祈るように握られた手からは、真っ赤な血がとめどなく溢れ出ている。
「救急車呼ぶ?」
「ぉ、ぉ、ぉ……」
「嫌ならいいや。こっちも面倒くさいし」
「呼ん……で……」
「え? 何?」
「救急車……呼んでくれ……」
麗が「何だコイツ?」とつぶやく。
「ごめんな。ウチの親、敬語も知らんのよ。生きてるだけ無駄な人生ってあるよね。ここで死んだ方が社会のためか」
「呼んで下さい……助けてください……」
「何、いっちょ前に助かりたいの? ってゆーか、その指どうした?」
「え――」
この瞬間、聖也がヘレンを見る目に父娘の要素は一切消えた。
「何で指がもげたの、言ってみな?」
「お、お前……が……」
「よし、街行こう! ここあ、どっかいい店――」
「あいつにやられた!」
聖也は呆然と座り込んでいる妻を残った指でさし示した。
「マジか。おかーさんマジうっかり屋さんだな。あれ? おかーさん、歯ァ折れてるけど何かあった?」
「あ……あ……ふ……」
亜美が震える声を必死に絞り出す。
「ふ、夫婦喧嘩……」
「歯ァ折られた腹いせにダンナの指をもいだと。そういうことでオーケイ?」
コクコクと機械仕掛けのように頷く夫婦。
「救急車呼んだげて」
それきり、ヘレンは振り返ることもなく歩き出した。2人の少女が続く。
「悪魔……」
その後ろ姿に向かって、亜美は呟く。
「産んでやった恩を――」
そこまで言った瞬間、動いたのは麗だった。
獲物に襲い掛かる虎そのものの動きで、麗は亜美の髪をつかむと和式便器に叩き込んだ。
「恩?」
動きの激しさとは裏腹に、麗の声は重く冷たい。
「仏陀曰く、人間の苦しみとは生、老、病、死。生きることもまた苦しみだ」
亜美はじたばたともがく。少女が何を言っているのかさっぱりわからない。娘と同い年の子供に便器に頭を突っ込まれる以上の苦しみなど想像もつかない。
「子供に苦しみを与えておいて、何が恩だ。『産んでくれてありがとう』なんて言われると思ったか? 恩着せがましいんだよ! テメェらは『こんな親が産んでしまってごめんなさい』って謝るべきだろうが!」
すさまじい力で顔面が陶器に押し付けられる。
「謝れ! 床に手ェついて謝れオラァ!」
「ご、ごめんなさ――」
「うるせぇ! 黙れ! 半人前がしゃべんじゃねぇ!」
「……」
「謝れっつったのが聞こえねぇのか!? 謝るって言葉の意味もわからねぇのか!?」
「すみませ――」
「黙れ! 意味も価値のねぇ言葉なんか聞くだけ無駄なんだよ!」
「……」
「黙ってんじゃねぇ! 言えよ! 『産んでしまってごめんなさい』だ! こんな簡単な言葉もろくに言えねぇのか!」
「産んで、しまって……」
「うるっせェェェェ!!!」
その時、猛り狂う麗の背に、そっと手が添えられた。
「麗、甘いモン食べに行こう」
「ヘレン!」
涙に濡れた顔が振り返る。
「だって、だって……コイツ、ヘレンに……わ、私……」
「見ろ。コイツらをよっく見てみろ」
潰れたカエルのような姿勢で便器に顔を突っ込む女と、隅っこでガタガタと震えながら怯えた目でこちらを見上げる男。
「親なんて、しょせんこんなモンだ。な?」
麗の黒髪を指で梳き、あやすように抱きしめる。
「行こう。時間がもったいねぇ」
2人を連れて家を出たヘレンは、生まれて初めて、空に自由を感じた。
「麗、ここあ――」
ヘレンは晴れやかな笑顔で2人を振り返った。
「ありがとな」
憑き物が落ちたように爽やかな顔を取り戻す麗。
ここあも、ぺろっと小さな舌を出していたずらっぽく笑う。
実は、ここあにはある重要な役割があった。
麗が聖也に警察を呼ばせた時、通話相手は110番ではなくここあのスマホだったのである。
刑事はあらかじめ用意しておいた背広を着せた流れ者のホームレスだった。
いくら麗が檀家の娘でも、さすがに警察官を意のままにするほどの権力はない。
ここあは持前の観察眼と愛嬌で、刑事役をするホームレスの人選と交渉をやってのけたのだった。
(できる。あたしら3人は何だって――)
この成功体験が、彼女たちの自由への第1歩であり、破滅への第1歩だった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
しばらく紅鶴ヘレンの話が続きますが、これは彼女たちが犯した罪の話であり
その先の罰への布石となりますので、お付き合いいただければと思います。
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今後ともよろしくお願いいたします。