第58話 狂犬 ―ケルベロス―
(玉と馬、どっちにすっかな)
この日、廃屋のような安アパートの一室で紅鶴聖也は浮かれていた。
今日は久々にまとまった金が手に入る。取り立てのきつい借金もいくつか帳消しになる。
すべては、ヘレンが可愛らしい少女に育ってくれたおかげだ。
紅鶴聖也とその妻亜美は、なけなしの資質を全て容姿に集中させたかのような美男美女の夫婦だった。少なくともヘレンが生まれる十数年前まではそうだった。
若い頃のほんのひと時ではあるが、夜の街で羽振りが良かった時期もある。
その刹那の夢に、この夫婦は囚われていると言ってもいい。
見た目さえよければ、金は向こうからやって来る。
その夢にしがみつき、彼らは現実から目をそらし、耳をふさいで逃げ続けてきた。その逃避すら、彼らは『忍耐』と呼んで美化してきた。
そんな彼らの最後の希望が娘のヘレンだった。
自分たちの容姿を引き継いだヘレンが大人になれば、またあの夢の時間をもたらしてくれる。
今までヘレンを育てて来たのは全てこの時のためだった。
本来、ヘレンが本格的に稼げるようになるのはもう4、5年先のことなのだが、彼らはもう我慢できなくなっていた。
(亜美の奴、上手くやったかな?)
そわそわと貧乏ゆすりをしていると、やがて亜美が帰ってきた。
「おう、どうだった?」
「20万」
崩れかけた美貌がにやりと笑う。
「やっぱ若いっていいねぇ。あたしも売ればよかった」
「何で学校なんか行かしたんだ。朝にやっときゃ今頃……」
「バカ、客は朝は仕事してるよ」
無為に待つ時間はひと際長く感じられる。
「なぁ、その20万ってホ別だろうな?」
「当たり前でしょ」
『ホ別』とは、出会い系サイトや援助交際で使われる『ホテル代は別』という意味の隠語である。
「……そう言やアイツ、ちゃんと処女だろうな?」
「さぁ? 知らない」
「おいおい、お前母親だろうがよ。客がゴネたらどうすんだよ!」
「はぁ……」
亜美はうんざりとため息をつく。
「ヘレンは15だよ。未成年とヤッた奴が文句なんか言える?」
ちなみに、この時のヘレンは14歳の誕生日を迎えたばかりである。
「アイツ、いつも何時に帰って来てたっけ?」
「さぁ、夕方でしょ」
「くっそ……」
聖也はせわしなく貧乏ゆすりを繰り返す。時刻はまだ昼の2時だった。
その時、ガチャガチャと玄関の鍵が鳴った。
「誰だ?」
「またイタズラじゃない?」
がちゃりと鍵が開く。
「ただいま」
不貞腐れた声と共に入って来るヘレン。彼女が自分たちに挨拶をするなんて何年ぶりだろうか?
顔を見合わせる聖也と亜美。
床に根を下ろしたように動かない聖也をひと睨みし、亜美は玄関に向かう。今日だけは少しはヘレンの機嫌を取らなければならない。
「ずいぶん早いんじゃない?」
「早退した」
どういうことかと訝しむ亜美の目に、わずかに開いた扉の向こうで何かが動いたのが見えた。
「……誰かいるの?」
「友達」
「ちょっとアンタ! 今日は大事なお仕事が――」
その瞬間、何かがするりと玄関に入り込み、亜美に肉薄した。
「え――ご――ッ!?」
ぱこん、と響く軽い音。
同時に宙に浮いた亜美の体は居間に向かって一直線に飛んでいた。
「わぉ」
前歯を砕かれた亜美の体がペットボトルやカップ麺の空き容器をなぎ倒し、テーブルの上でガクガクと痙攣している。
「おい……、何だコレ? おい、何だよコレ!?」
呆けた間抜け面をさらす聖也の前には、すらりとした長身の少女が立っていた。
軍手を嵌めた手に、血の滴る錆びたスパナが握られている。
「お前誰だ? 何だ? マジ何なんだよ!?」
少女は答えず、スパナを彼の前に放り投げた。
「あ……? え……?」
「おとーさんよぉ」
少女に代わってヘレンが口を開いた。
「殺されたくなかったら、コイツと勝負してくんね?」
「何言ってんだ? 何言ってんだお前?」
「拾えよ。抵抗しないとおかーさんみたいになるよ?」
白目をむき、血の泡と共に舌をだらりと垂らす、人の顔とは思えないモノが目に入る。
「待てよ。どういうことだよ……」
「……」
少女がちらりとヘレンを見る。それに対し、ヘレンはただ一言、
「目」
とだけ言った。
その瞬間、白い拳が聖也の右目に迫った。
「う……わ……」
やけにスピードが遅く思える。
なのに、体はピクリとも動かない。
眼球を正確に狙う拳は、ご丁寧に中指の第2関節が少しだけ前に突き出ていた。
「ぎゃああああ!」
それは一種の走馬灯だったのだろう。
拳が遅く見えたのは錯覚で、現実は瞬きをする時間さえ与えられていなかった。
聖也は右目から血を流しながら床の上を転げまわる。
「潰した?」
「や、多分大丈夫」
少女たちの口調は、まるで落とした卵でも話題にしているかのようだった。
「おとーさん、ダセェぞ。中坊のガキにやられっぱじゃねぇか」
自慢だった顔に唾を吐きかけられ、聖也はようやくスパナを握りしめた。
「ざけんなよガキ!」
ここで明らかに強いとわかる謎の少女ではなく、ヘレンに襲い掛かるあたりが彼の器の小ささであり狡猾さでもあった。
狭いアパートの中で、腕を組んで平然と佇むヘレンにつかみかかる聖也。そんな父娘の体の隙間に、少女が影のように入り込む。
「ごぶ――ッ」
腹に突き刺さるような衝撃が走る。ゴミが散乱した床の上で、聖也は体をくの字に曲げて悶絶した。
「やっぱ、大人なんて大したことねぇな」
娘の嘲笑に、聖也は自分の中で何かがすっと冷えていくのを感じた。
「バカヤロウ……。こんなことして、タダで済むと思うな……」
「タダで済むよ。あたしらお前らオッサンの大好きな未成年だし」
「世の中、そんな甘くねぇんだよ……」
「寄生虫に言われてもなぁ……。全然ピンと来ねぇ。教えてくれよおとーさん」
聖也は「くそ……」と悪態をつきながら、表面の塗装が剥げた型落ちのガラケーに手を伸ばす。
「おとーさーん。ケータイは先月止められたでしょ? その年で耄碌すんなよ友達の前だぞ恥ずかしい」
ヘレンは傍らの少女に「貸してやって」と指図する。
少女はスマホを簡単に操作して聖也の前に放り投げた。
画面には『110』と表示されている。スピーカーからは「事件ですか? 事故ですか? 何かありましたか?」と男の声が漏れていた。
「え、あ、えっと……」
「おとーさん、がんばってー」
「お、襲われました!」
何とか叫ぶ。
『強盗ですか?』
「……」
聖也のプライドが口を止めた。電話の向こうは自分と同世代の男のようだ。そんな相手に、娘の友達に殴られているとは言えなかった。
「ごご、強盗です」
クスクスと笑い合う少女たち。内面の葛藤を見透かされていたと知り、羞恥心がこみ上げる。
その後、『それはいつですか?』『今どこですか?』といた淡々とした質問に、聖也は半ばヤケクソで正直に答えた。
「……これから警察が来る。後になって謝っても遅いからな!」
「スマホ返せ」
時間にして5分にも満たなかったが、気まずい待ち時間は異様に長く感じられた。
「すみませーん、警察でーす」
ようやくやって来たのはスーツを着た壮年の男性だった。
「なっ、これは――」
そしてテーブルの上で伸びている女の姿に絶句する。
「何があったのか、順を追って話していただけますか?」
「あいつにやられた!」
聖也はすかさず少女を指さした。
「証拠もある! 凶器は――」
床に落ちている錆びたスパナを指さそうとして、聖也は止まった。
少女は軍手を嵌めてスパナを持っていた。対して自分はヘレンの挑発に乗せられて素手でスパナを握ってしまった。
ハメられた。
少女たちの証言によっては、警察の厄介になるのは自分の方だ。
すでに、刑事は疑惑の目をこちらに向けているように思える。
「あ、あの、これは、あの……」
焦燥と屈辱でパニックを起こす聖也。
「刑事さん」
彼に助け舟を出したのは、以外にも謎の少女だった。もっとも、その助け舟には聖也に照準を合わせた大砲が備え付けられていたが。
「通報は誰かのイタズラです。ここでは何も起きていません」
爽やかな笑顔でとんでもないことを言い出す少女。
「いやいやいや、現にそこで人が――」
「刑事さん」
少女は刑事の正面に立ち、胸に手を当てて一礼する。
「私は檀麗と申します。私の証言は疑わしいですか?」
「え――檀って、あの檀家――」
刑事が姿勢を正した。
「いえ、何も疑わしくありません! 失礼します!」
敬礼し、逃げるように去っていく刑事。聖也はその光景を呆然と見送っていた。
「世の中が何だって?」
聖也の意思とは関係なく、膝ががくんと崩れ落ちた。
「さて、世の中が甘くないと知ったところで――」
ヘレンの手が、聖也の髪をつかむ。容赦なく髪を引っ張られ、聖也は娘を見上げる姿勢を取らされた。
「娘からおとーさんに恩返しだ。世界は意外に優しいってことを教えてやる」
「ひ――」
その言葉がそのままの意味でないことは確かだ。ヘレンの瞳には極低温の炎が揺らめいている。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
しばらく紅鶴ヘレンの話が続きますが、これは彼女たちが犯した罪の話であり
その先の罰への布石となりますので、お付き合いいただければと思います。
続きが気になるという方は、広告の下にある☆☆☆☆☆より評価をしていただけると嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。




