第57話 紅その3 ―クリムゾン3―
神保ここあは、ヘレンの『実験』によく耐えた。
命じられるままお小遣いを貢ぎ、足りなければ言われなくても親の通帳からお金を引き出した。
かつての友人たちの悪い噂を流すことにも躊躇せず、ヘレンと麗に認められるためなら他の全てを切り捨てる勢いだった。
そこには、ある種の潔ささえ感じさせた。
「神保ここあ! 3丁目の飯島さん家の犬やりまーす!」
それは、飼い主にさえ狂ったように吠え掛かり、自分のしっぽを仇のように追い回すこの地域のちょっとした有名犬の物まねだった。
飯島家はヘレンの新聞配達先であり麗のジョギングコースでもある。
人気のない中庭でここあに芸をさせながら、ヘレンと麗はスマホに差したイヤホンの左右を分け合って歌を聴いていた。
「ねぇ、アイツ、そろそろ止めてやらない?」
ふと麗がヘレンを窺う。
憐憫の混じった視線の先では、ここあが汗だくになって犬のマネを続けている。
「あともう一曲聞いたら」
このスマホもここあの物である。当時、ヘレンはスマホを持っておらず、麗のスマホはGPS以外の役割を持っていなかった。
話題らしい話題のない2人のために、ここあはJ-POPから洋楽まで、2人の琴線に触れそうな楽曲を選んでダウンロードしてきたのである。
「もう許してやってもいいんじゃないかな?」
あれから1カ月。麗はかなりここあに情を移しているようだった。
「ん……」
正直、ヘレンもすでにここあへの恨みは残っていなかった。
だからと言って、あの謝罪がここあの本心だとも思っていない。
ここあのような人間には、そもそも罪悪感など存在しないということをヘレンは知っている。
この先、もしヘレンや麗よりも立場の強い者が現れたら、ここあは何の葛藤もなくそちらに尻尾を振ってヘレンたちを売るだろう。
(でも、面白いんだよな、こいつ)
最近、ここあ以外にもヘレンたちに媚を売ってくる者が増えている。
麗が身に着けている教養と超人的な運動神経は単純に同世代を魅了するし、ヘレンが大人の世界に飛び込んで得てきた社会経験は生半可な教師では太刀打ちできず、その存在感をじわじわと増していた。
今や、ヘレンの影口を言う者やヘレンと麗の仲を不釣り合いと揶揄する者は1人もいない。
そんな2人にすり寄ってくる者たちの中で、神保ここあの媚びへつらいは群を抜いていた。
2人を不快にさせることは決して言わず、己のプライドも尊厳もかなぐり捨てて2人に尽くす。
保身のために媚びているはずなのに、2人のためなら我が身をも捨てようとする矛盾。
それが滑稽であると同時に悲壮でもあった。
(こいつも必死なんだよな)
ここあもまた、何かに怯え、追われている。
それに気付いた時、ヘレンの中でもここあに対する感情は好奇心から共感へと変わっていた。
「ここあ」
呼びかけると、子犬のように瞳を輝かせて駆け寄ってくる。
「おいで」
膝の上をぽんぽんと叩くと、ここあはおずおずと頭を摺り寄せてきた。
「お前、犬のマネ上手いな」
「うん。ここあの十八番」
膝枕をしながら、小さな頭を撫でつける。
「悪かったな」
「え……」
ここあは初めて動揺したようにヘレンから目をそらした。
しばらくして、ヘレンの太ももの上で小さな肩がひくっ、ひくっ、と震え始めた。
◇ ◇ ◇
こうしていささか歪ながらも絆を深めていった3人に、試練の時がやってきた。
それはヘレンが14歳の誕生日を迎えた次の日のことだった。
「ヘレンちゃん」
朝、いつになく母親が声をかけてきた。全身に鳥肌が立つような猫なで声。それは間違いなくろくでもない出来事の前振りだった。
「便器に血がついていたんだけど」
そんなことか、とヘレンは鼻で笑った。
ヘレンが初潮を迎えたのは3カ月前である。あの時は軽くパニックになったが、ここあが色々と丁寧に教えてくれたので事なきを得た。
母親に対しては「今さら気付いたか」と思う以上の感情はない。
そのはずだった。
「ヘレンも女になったんだ」
生暖かいスライムが全身にまとわりついてくるような、嫌な感覚がヘレンを襲う。
「これで、もっと楽にお金を稼げるね」
「――!」
動揺を顔に出すまいとするのが精いっぱいだった。
母親の言葉がどんな意味を持っているのか、ヘレンは知っていた。
いつかこの日が来ることを予測はしていた。
だが、それは少なくとも中学を卒業してからだと思っていた。
「ヘレン」
母親の体がべとりと抱き着いてくる。
「あんたが女でよかった。今日はまっすぐ帰って来てね」
その日はもう、どんな気持ちで登校したか覚えていない。
「――ヘレン、大丈夫?」
はっと気付くと、そこは学校の教室で、ここあがつぶらな瞳一杯に心配を詰め込んでこちらを見つめていた。
「ああ、大丈夫……」
ここあの髪をくしゃくしゃと撫でる。
「いや、大丈夫じゃないよどう見ても。顔真っ青だし」
「……」
麗に指摘され、ヘレンは黙り込んだ。
「何かあったなら言ってよ」
「別に、いつもの家のゴタゴタだよ」
麗とここあがさっと顔を見合わせ、頷き合った。
「……何だよ」
「私さ、ヘレンに出会えてよかったと思ってる」
「マジで何だよ」
「ヘレンは何でもバシバシ決めてくれるから、一緒にいると気持ちが楽になるんだ。あんたに出会ってなかったら、私は今頃潰れてたかもしれない」
「んな大げさな」
ヘレン自身、自分が麗にそこまでしたという自覚は無かった。
ただ、小4のあの日以来、自分の頭で考えて自分の足で歩んできただけである。
「今日のヘレンを見てると、何だか私らの前から消えちゃいそうな気がしてくるんだよ。頼むから何があったか言ってよ。私、何でもするから」
麗の瞳はまっすぐで、直視するのが痛いくらいだった。
思わず目をそらした先に、今度はここあの捨てられた子犬のような眼差しがある。
「お前ら……」
麗とここあはたまに双子の姉妹のように息の合った連携を見せることがある。
初めはヘレンと麗が対等でここあはペット枠の力関係だったが、最近は長女のヘレンに妹2人のような関係が定着しつつあった。
「なぁ……」
ヘレンはそんな2人を見回した。
「手伝ってくれるか? あたし――」
内容を言う前に、すでに2人の目は頷いていた。
「今日、うちの親を殺そうと思う」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
しばらく紅鶴ヘレンの話が続きますが、これは彼女たちが犯した罪の話であり
その先の罰への布石となりますので、お付き合いいただければと思います。
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今後ともよろしくお願いいたします。