第55話 紅 ―クリムゾン―
それは、紅鶴ヘレンが早朝の新聞配達をしている時だった。
自転車を漕いでいたヘレンの横を、颯爽と走り抜けた少女がいた。
すれ違った時間は1秒にも満たない。だがその瞬間、ヘレンの中にどす黒い感情が湧き上がった。
(気に入らねぇ)
風になびく艶やかなポニーテール、しなやかな体にピタリとフィットした本格的なトレーニングウェア、真新しいシューズ。
それに何より、何の荷物も持たず、ただ走るために走っているその姿が無性に気に食わなかった。
(あたしの前を走んじゃねぇ!)
腰を浮かせ、全力で自転車を走らせる。
差はなかなか縮まらない。こちらは自転車で向こうは徒歩なのに。
「ざけんな!」
自分でもどうしてこうムキになっているのかわからない。
相手が当たり前に持っている物を、自分はどんなに望んでも何1つ得られていないことへの苛立ちか。
そんな相手に背後から追い抜かれ、しかも追い付けないことへの焦りか。
まるで、名前も知らないその少女に自分の人生を決めつけられたような気がしたのだ。
次の交差点からまた住宅地に入る。新聞を配らなければならない自分はそこでレースから脱落だ。
ここで勝負を決めるしかない。
奥歯がきしむほどに歯を食いしばる。
(ざけんな! ざけんな! ざけんな!)
口の奥でぐらついていた最後の乳歯が砕け、口の端から血が溢れ出ていることにも気付かない。
そして交差点に入る寸前、ついにヘレンは少女を抜き返した。
(ざまぁ)
とは言え、空しさがないわけではない。
別に勝負を挑まれたわけではない。完全にこちらの因縁、八つ当たりである。
しかもこちらは自転車だ。
相手にしてみれば困惑以外にないだろう。
そう思いながら何気なく振り返った時、ヘレンはぎょっとした。
「……」
少女が血走った憤怒の目で自分を見ていた。肩を激しく上下させているのは、明らかに走破による息切れではなかった。
人間の体は、あそこまで悔しさを表すことができるのか。
ようやく、ヘレンは最初に少女が自分を抜き去ったのがまぎれもない宣戦布告だったことに気付いた。
だが、ここで怯みを見せるヘレンではない。
彼女はこれ見よがしに地面にぺっと唾を吐くと、揚々と走り去って見せた。
(ヤベェ奴に絡まれちまったかな)
ハンドルを握る手がびっしょりと濡れている。
この時はまだ、この度を越した負けず嫌いの少女が、後に無二の親友になるなど想像もしていなかった。
それから、2人は毎朝戦った。
互いに名前も知らない。激しい呼吸以外、声すら聞いたことがない。
だが、2人は互いの人生観をぶつけ合うように戦った。
やっていることは単なる競走である。
自転車VS足のハンデ戦だが、ヘレンにも新聞配達という枷がある。
雨の日も風の日も雪の日も、2人はこの道を全力で走った。
自分でもバカバカしいとは思うが、この瞬間だけは相手に勝つためなら死んでもいいとすら思った。
だがそのうち、時間にしてわずか5分にも満たないこの時をヘレンは密かに楽しむようになっていた。
飲んだくれの両親に金を毟られる日々も、学校で馬鹿にされ無視される日々も、このひと時だけは完全に忘れることができると気付いたからだ。
◇ ◇ ◇
やがて、ヘレンは念願の中学生になった。
まだまだ制限はあれど、これで合法的にアルバイトができるようになる。
あの親が新品の学生服など買ってくれるはずもなく、ヘレンは近所のスナック勤めのお姉さんから譲ってもらった学生服で登校した。
「何だ? その髪は」
ところが、校門をくぐる前から、ヘレンの前に障害が立ちふさがった。
「……地毛っす」
「親は外人か?」
「いえ」
どんよりと曇る心。「やっぱりな」という納得感。
見るからに体育会系のジャージ姿をした男性教諭は、指先を舐めながら名簿をめくる。
やがて「紅鶴ヘレン」の名前を見つけたらしく、あからさまな軽蔑の視線を降らせてきた。
「明日までに黒くして来い」
「……」
「返事は?」
「髪が赤いのは元からだって言ってるじゃないすか。髪を染めたら校則違反す」
「何?」
名簿で頭をはたかれた。
ヘレンの側を、真新しい制服を着た同級生が着飾った両親と共に通り過ぎていく。
「あの子とは付き合っちゃダメよ」という言葉まで聞こえてくる。
教師の目に宿る侮蔑の光が強まった。
「……」
「何だ、その目は?」
彼は学校の風紀を正したいのではない。
体育会系の人間は他者との上下関係にある種病的なこだわりを持つものが多い。
相手が自分よりも下と見ればさっそく攻撃を仕掛けて格付けを確かなものにしようとし、最底辺と見れば人間扱いしなくても許されるとすら思っている。
「お前のような奴をみんなと一緒に入学式に参加はさせられないな。中学校には進路指導室ってものがある。お前はそこで入学式だ」
髪を掴まれ、引っ張られたその時だった。
「先生」
女子の声。だが、それは周囲の喧騒をものともしない、よく通る重みのある声だった。
「あ、こりゃどうも……」
教師の態度が明らかに変わる。
そこには、艶のある黒髪を古風な姫カットにし、細面に凛とした切れ長の目をした少女がいた。
「檀麗です。これから3年間お世話になります」
緊張感が指先まで浸透した、軍人のようなお辞儀。
「あ、ああ。こちらこそよろしく……」
へこりとだらしないお辞儀を返す教師。この瞬間、両者の格付けは確定していた。
「先生、彼女の髪色は生来のものです。私が保証します。黒くする必要はありません」
「ああ、はぁ……」
教師があいまいに頷いた時にはもう、麗はヘレンの手を引いて校門をくぐっていた。
「ありがと、助かった」
ヘレンが足を止めると、麗は不思議そうに振り返った。
「どうしたの? 入らないの?」
2人の前には教室の扉がある。
「あんた、あたしのこと知らねぇだろ」
知っていたら、ヘレンを助けるはずがない。
「知ってるよ。毎朝会ってるから」
「え?」
間の抜けたことに、言われて初めてヘレンは相手が毎朝死闘を繰り広げている少女と同一人物だと気付いた。
それは当然でもあり、競走している間は後ろ姿か一瞬の横顔しか見ていない。唯一正面から見た彼女の顔は、怒りと悔しさを漲らせたあの顔である。
麗はクスっと笑った。
「私はすぐ気付いたよ。その髪のおかげで」
「……」
ヘレンは迷った。
『檀』の名前は彼女も知っている。この日和見町において随一の資産を誇る御三家の一角。
そこのお嬢様が何の気まぐれでこの公立中学に来たのかは知らないが、本来は済む世界の違う存在である。
(やめとけ)
ヘレンの中で声がする。
(どうせすぐに嫌われるんだ)
――あの子と付き合っちゃダメ――
幾度となく聞いてきた言葉が頭の中を巡る。
でも――
ヘレンの中で、麗とわけもわからず競走していたあの闘志が燃え上がる。
だが、その炎は今、麗に対してではなく自分の中にある怯えを焼き尽くそうとしていた。
(っせぇよ)
今、この手を離したら一生後悔する。
炎のような髪を揺らして呪縛の言葉を振り払い、ヘレンは麗の手を握り返した。
「紅鶴ヘレン、これからよろしく」
「親御さん、外国人?」
「バリバリ日本人だよ」
この時から、ヘレンの人生は変わり始めた。
しかし皮肉なことに、彼女たちの進み始めたその道は深い闇の沼にも続いていたことを、彼女たちはまだ知らなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
しばらく紅鶴ヘレンの話が続きますが、これは彼女たちが犯した罪の話であり
その先の罰への布石となりますので、お付き合いいただければと思います。
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今後ともよろしくお願いいたします。




