第52話 少年 ―フラジャイル―
和久井ビル襲撃事件。
日和見町を震撼させたこの事件について、警察は容疑者として株式会社海老澤車輌の従業員、海老澤永悟を指名手配した。
だが、彼の行方は杳として知れず、また社長室には彼のものと思われる大量の血痕が残されていることから生存すら疑問視する声が強い。
また、重要参考人とされた永悟の父、海老澤信悟は工場の中で首吊り死体となって発見された。
遺書は無かったが、現場の状況に事件性は認められず、彼の死は自殺として処理された。
この事件により、和久井建設は大幅な弱体化を余儀なくされた。
強力な独裁経営を敷いていた代表取締役社長、和久井准二の死はもちろんだが、何より会社の闇の部分を背負っていた専務馬場篤の死と営業2課の壊滅は致命傷だった。
致命傷とは、暴力の牙を失ったことではなく、切り捨てるトカゲのしっぽを失ったことである。
この先、和久井は傘下の中小企業の離反や顧客からの訴訟を免れないだろう。
それでもなお、日和見町における和久井の影響力は絶大だった。
今日も、和久井邸には弔問客がひっきりなしに訪れていた。
「この度はとんだことで」
「私に何かできることがあれば、何でも言ってください」
同じ言葉を発する客たちだが、その顔は千差万別だった。
和久井家に変わらぬ忠誠を示そうとする者。
混乱に乗じてグループ内の地位を上げようと画策する者。
裏切りも視野に今後の趨勢を見極めようとする者。
彼らに共通しているのは、誰一人として遺された家族の行く末を案じていないということだろうか。
高校生にして裏社会に大人顔負けの地位を得ている長男の春人はともかく、次男の終はまだ小学5年生である。
和久井終は、隣に座る母をそっと見上げた。
「……」
黒い和服を着た和久井紫里は、夫の遺影の傍らで置物のように正座している。
終は、生まれてこのかた母の笑顔を知らなかった。それどころか、彼女が泣いたり怒ったりしたところすら見たことがない。
いつもやつれた目をして、日々の役目を機械のようにこなしている。
こちらから甘えれば抱き上げてくれるし、求めれば添い寝し、子守唄を歌い、眠るまでそばにいてくれる。
でも、母の方から終に何かをしてくれたことは1度もない。
紫里は、もともと和久井准二の実兄、春久の妻だった。
だが、前夫は轢き逃げにより死亡し、お腹にいた忘れ形見の我が子も流産してしまった。
実家は地元の裕福な商家だったが、両親はすでに亡く、事業は和久井に吸収されていた。このまま天涯孤独になるところを、准二に拾われるように結婚した。
終がそのあたりの事情を知ったのは10歳の時だ。
それまでも何となく母に愛されていないことは察していたが、お節介で噂好きな親戚のおばさんから事の次第を聞いたときは、何かがストンと腑に落ちたのを感じたものだ。
同時に、自分の母への想いも急激に冷えていった。
彼女にとって、自分は息子ではなく甥なのだ。
ここにいるのはただの肉体で、魂は天国にいる夫とその子供の所にいるのだ。
客間では、兄――春人が10人ほどのガラの悪い男たちを相手に食事をしていた。
「……」
春人はいつもの物憂げな目でちらりと終を見るが、すぐに興味を無くしたように目線を戻した。
周囲の男たちもそれに倣って終を無視する。
上座にどっかりと腰を下ろし、屈強な男たちを侍らせる兄の姿はさすがの貫禄である。
惜しむらくは、父がその場に座っていた時よりも配下の数も質も大幅に低下していることだろう。
有力な荒くれ者のほとんどは、和久井ビルの中で命を落とすか再起不能に追いやられていた。
「兄ちゃん」
「……」
初めから、返事など期待していない。
終が生まれた時から、春人は弟をまるで存在していないかのように扱っている。
もっとも、それは春人と終が特別仲が悪いわけではなく、代々、長男に絶対的な権力が継承される和久井家ではこれが当たり前だった。
次男とは、長男に不慮の事態が起こった時のための代替品であり、家中での扱いは使用人と大して変わらない。
むしろ終にとっては年が離れていたおかげで春人の奴隷にならず、無視扱いで済んだ幸運を喜ぶべきかも知れなかった。
「終」
だから、客間を出ようとした終の背中に声をかけられたとき、一番驚いたのは終だった。
「な、何?」
思わず声が裏返る。
兄は相変わらず、こちらを見てはおらず、おもむろにお猪口の酒をひと飲みする。
「中学出たら、俺を手伝うか家を出るかどっちか決めろ」
「……わかった」
襖を閉め、薄暗い廊下をとぼとぼと歩く。
終が兄を訪ねたのは、自分の行く末が不安だったからだ。自分はいつまでこの家にいてよいのか。高校には行かせてもらえるのか、その先は――?
多分、自分が望むものは何一つ与えられないだろうとは漠然と感じていた。
兄がわずかでも自分を気にかけ、選択の権利を与えてくれたのは意外だったが、その選択肢はやはり終の予感をいささかも裏切らなかった。
兄を手伝うとは、この先の人生を兄の奴隷として生きることに他ならない。
家を出るとは、学生の一人暮らしとはわけが違うことを終は理解していた。それはもはや勘当、絶縁に等しいものである。終は自由を得る代わりに、一切の援助を受けられない。
歩き慣れたはずの廊下が妙に長く感じる。
薄暗い廊下の果ては、闇に飲まれて見えない。
(兄貴に話しかけるんじゃなかった)
終は後悔したが、だからと言って漠然とした不安と目に見える絶望、どちらがよいかと聞かれても答えは出なかっただろう。
◇ ◇ ◇
玄関の引き戸を叩く音は相変わらず乱暴だったが、今日はやけに元気がなかった。
鹿谷慧はただならぬ気配を感じ、慌てて玄関に向かう。
「終君!? どうしたの!?」
戸を開けると、そこには全身泥と擦り傷にまみれた和久井終がいた。
「……転んだ」
「転んだって……」
雨の日ならともかく、この町がいくら都会的ではないとは言え、転んだ拍子に突っ込んでしまうようなドブ川は存在しない。
田んぼまでわざわざ足を踏み入れるか、それとも――
「もしかして、誰かに――」
「っせぇな! 転んだっつってんだよ!」
慧の大きな体がびくんと震え、反射的に口から「ごめんね」と言葉が漏れる。
「あ、お風呂……」
「いい」
「よくないよ。傷をちゃんと洗わないと」
「いらねっつってんだよ! 俺にかまうなよ!」
「えぇー……」
では一体何をしにここに来たのか。
慧は混乱する。
いや、答えは何となく分かってはいるのだが、それがもし不正解だったらどうしようという逡巡が彼女の行動を縛っていた。
「……帰る」
気まずい沈黙の後、終はくるりと背を向けた。
「あ……」
慧の目に、靴跡のついたランドセルが飛び込んできた。
「待って!」
思わず終の手を握る。
「終君、学校行ったの?」
「悪いかよ」
「だって、まだお父さんのお葬式もまだ……」
和久井准二の遺体は司法解剖のためまだ警察署から戻っていない。
「っせぇな、慧には関係ないだろ!」
「とにかく! お風呂入ろ? 消毒しよ?」
慧は自分でも驚くくらい強引に終の手を引いていた。
「待てよ! 靴! 靴!」
終は解っているのだろうか?
和久井家の当主の喪に服さないという行為が何を意味しているのかを。
それは、和久井家への絶縁宣言に他ならない。
終がこれまで傲岸不遜に振舞って来られたのは、終の背後に光る和久井准二の目があったからだ。
この町にとって、終はあくまで准二の所有物であり、そのために誰も彼を傷つけることができなかったのだ。
その特権を自ら手放してしまったら、どんな報復を受けるか分かったものではない。
「わかったよ。風呂入りゃいいんだろ? 出てけよ、自分でできるから」
「でも、背中とかお尻の傷も見なきゃ……」
「見んなよ! スケベ!」
「えぇー……」
どうして小学5年生にスケベ呼ばわりされなければならないのか。
「でも……」
それでもなお食い下がろうとする慧に、終は呆れたような目を向ける。
「そんなに俺の体が見てーんなら見せてやるよ。その代わり、慧も脱げよな」
「え……?」
「当たり前だろ! 俺、慧にケツ見せるんだぞ!? だったら慧も見せろよ!」
「え……ぁ……」
予想外の要求に思考が固まる。
小学5年生の男の子は性にどれくらい目覚めているのだろう?
ちなみに、慧自身の目覚めは終よりも早かった。
「……」
しばしの沈黙の後、慧は意を決して服を脱ぎ始めた。
「脱ぐのかよ? そこはほら、いつもみたいに「ごめんなさい」っつって出ていくんじゃねぇのかよ……」
困惑する終をよそに、慧はてきぱきと下着姿になり、ブラジャーに手をかける。
「お前、恥ずかしくねぇの――」
「恥ずかしいよ!」
洗濯籠にブラジャーをたたきつけ、慧は叫んだ。
「恥ずかしいんだからね! 男の子におっぱい見せるって、すっごく恥ずかしいんだからね!」
「あ、うん」
もはやヤケクソで荒々しくショーツも脱ぎ捨てる。
「ほら見せたよ! だから終君もお尻見せて! 私だけ見せるなんてズルいよ!」
「わかったよ……、そんな怒るなよ……」
力士の張り手のように、終の体をどすこいどすこいと風呂場に押し込むと、慧はシャワーを勢いよく終に浴びせる。
「痛ェ! しみる! しみるって!」
「こういうのは思い切った方がしみないの!」
泥を流し、慧は終の髪を丹念により分けて頭皮の傷を確かめる。
「傷はないみたい。1か所コブができてるけど」
「……」
シャンプーで髪を洗ってやる。
「待てよ。アレねぇの? 輪っか」
「輪っか?」
しばらく考え、シャンプーハットのことを言っているのだと気づく。
「ないよ。目をぎゅってして」
「ん……」
擦り傷だらけの体にはスポンジやタオルは使えなかった。慧は両手で石鹸を泡立てる。
「おい、慧?」
目を閉じたまま、終が困惑の声を上げる。
慧は素手で終の全身を優しく撫でるように洗っていった。
「もういい。もう自分でできっから……、やめろよ……」
「……」
終の弱々しい抵抗を無視する。
この時、慧は生まれて初めて、他者を無視した。
この慧の心理は、彼女自身にもよくわからない。
確かに、突然父親を失い、周囲から手の平を返された終への同情はある。だからと言って彼女が終にここまで尽くす利も義理もないはずだった。
強いて言えば、これは慧なりの復讐なのかもしれない。
慧は誰かが自分にしてほしかったことを、自分が終にすることで己の心を慰めようとしているのかもしれなかった。
それは、親から虐待を受けて育った者が、しばしば自分の子を虐待することで復讐を果たそうとする心理に近い。
湯気の立ち込める風呂場に、すすり泣く声が静かに響く。
2人は互いに、それが相手の泣き声だと思っていた。
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