第51話 孤独 ―ロンリネス― ◇和久井建設社長、和久井准二の制裁・後編
「何でじゃあァァァーーーッ!?」
和久井准二の口から迸る疑問。
それは、姉原サダクでなくとも首を傾げざるを得ないものだったろう。
一方的に殴っていた相手からやり返された。ただそれだけのことなのだから。
「ふーっ、ふーっ……」
中腰の姿勢で荒い息をはく和久井准二。
悪趣味な紫のスーツが引き裂かれ、背中いっぱいにつけられたバツ印の引っかき傷からだらだらと血を流している。
「ゆ、許さねぇ……クソガキが……お前だきゃァ、絶対に許さねぇ!」
「……」
サダクは挑発するように、これ見よがしに凶器を捨てた。
両手を広げ、我が子を迎え入れようとする母のように微笑みかける。
「ウグアァァァーーーッ!!!」
それは、手負いの獣の咆吼のようにも聞こえたが、一方で癇癪を起した幼児の泣き声のようでもあった。
微笑む少女につかみかかる。だが、少女はまるで影のように男の剛腕をすり抜ける。
大きく振り回される腕が、空しく虚空を切り続けた。
「待て! 待てェ! 待てやァァァ!!!」
不意に、サダクの動きがピタリと止まった。
「――ッ!」
だが、同時に和久井の動きも止まる。
彼の眉間に拳銃が突きつけられていた。
「バカが。それはもう動かな――」
サダクの華奢な手の中で拳銃がくるりと回転する。彼女は銃身を握ると、大きく振りかぶった。
「ちょ、待――」
重たい衝撃が和久井の横っ面を打ち据えた。
「ごげ」
大の男の体が一回転し、ぐらりと床に倒れ込む。だが、体が接地する前にサダクは和久井の胸倉を掴み、細腕に見合わない力で引っ張り上げる。
再び拳銃が振り上げられた。
「バカヤロウ……銃は……そういう使い方――おげ!」
合金の塊が頬にめり込む。返す刀でもう一撃。
和久井の口から、バッと赤い血と白い歯が飛び出した。
「あぁ……あがぁ……あがぁ……」
あえぐように息をする和久井准二。そんな彼に、サダクの無邪気な笑みが迫る。
「オトナのセカイ?」
それってなぁに?
そんな問いと共に、鈍器が脳天に振り下ろされる。
「オトナのキビシサ?」
どんなものか、教えて?
銃把が前歯をへし折りながら口腔に突っ込まれる。
「ぶはぁ! こんガキ……ただじゃ済まさねぇ! お前も、お前の家族も、一生地獄見せてやっからな!」
その時、少女はクスリと笑った。
光の無い瞳が和久井を見つめる。
振り下ろされる拳銃のさらなる一撃が和久井の顔に当たった瞬間、激しい破裂音と強烈な火薬の臭いが部屋いっぱいに充満した。
「ぎゃああああああッ!!!」
この瞬間、和久井の視界は完全な闇に包まれた。
いったい何が起こったのか、彼には分らなかった。
とにかく痛い。顔が焼けるように痛い。
そして、どんなに目を開こうとしても、ひと欠片の光も見えない。それどころか、瞼を透過する淡い光すら感じない。
だが、キーンと鳴っていた耳鳴りが収まるにつれて、和久井は残酷な現実を認識し始めた。
(くそ、あのクソ売人……)
和久井の眼前で銃が暴発したのだ。正確には、銃身が詰まった状態で火薬が爆発し、飛散した金属片が和久井の両目を――
「クソ! クソ! クソがァァァーーーッ!!!」
叫ぶだけで激痛が走る。だが、絶叫せずにはいられない。
「何でじゃあァァァーーーッ!? 何で俺がァァァーーーッ!? 何でいつも俺ばかりがァァァーーーッ!?」
その問いに、少女のささやきが答えた。
「オトナのセカイのキビシサ」
「――――――ッッッ!!!!!」
もはや、咆吼は声にならなかった。
この世に生を受けて50余年。
誰にも理解されない孤独の中で、誰にも満たすことのできない飢餓を抱えた男の意識はゆっくりと絶望の奈落へと――
落ちていくのはまだ早かった。
どこかで、バルン、バルン、バルンとエンジンをふかす音がする。
「何だ?」
口は疑問を発していたが、頭ではすでに理解していた。
脳裏に、血に彩られたチェーンソーが浮かぶ。
「やめろ……それをどうするつもりだ……やめろ、やめろ! やめろォ!」
文字通り無闇に抵抗する体を蹴り倒された。その胸に、加熱した金属のずしりとした重みを感じる。
そして彼の耳元では――
「やめろォォォーーーッ!!! 頼む! やめてくれェェェ―――ッ!!!」
高速回転するチェーンソー。
視界を奪われたことで極限まで研ぎ澄まされた聴覚を蹂躙する無情の機械音。
鋭敏化された鼻腔から脳を侵蝕するような強烈な血と油の刺激臭。
エンジンと鋸刃が作り出す熱を帯びた微風は、全身の肌をヤスリ掛けするような刺激をもたらしてくる。
「か、体……動か……ね……」
チェーンソーをどけようとするが、手足の感覚がぼんやりとして自分の体ではなくなってしまったかのようにピクリとも動かない。
頭を殴られたせいか、それとも気付かないうちに麻酔でも打たれてしまったのか。
「あ、あ、あ、あ、あ……」
胸の上に置かれたチェーンソーは、その振動により微妙に位置を変える。
すでに耳や頬の皮が何度か削り取られている。
悲鳴を上げることはおろか、呼吸1つするにも細心の注意を払わなければならない。
「た、頼む……、俺の、俺の負けだ……、何でも言うことを聞くから……」
返事はない。
自分の声が爆音にかき消されてしまったのか。
「お願いだ! 止めてくれ! 欲しいものは何でもやる! なあ!」
自らのプライドを切り売りする懇願が、空しく虚空に消えていく。
「俺が悪かった! 謝る! 償う! 償わせてくれ! 何でも! 何でもする!」
反応はない。あるのは、胸の上で暴れるエンジンと、耳元で荒れ狂う鋸刃だけだ。
この時、恐ろしい可能性が和久井の心臓を握りつぶした。
「まさか……、なぁ、いるんだろ? なぁ! 返事してくれ! なぁ!」
今までの自分は孤独だと思っていた。
取り巻きを何人引き連れても、女を何人抱いても、この虚しさは埋められないと思っていた。
「いるんだろ? いてくれよ! なぁ! 置いて行かないでくれよ!」
あらゆる理不尽で部下の忠誠心を試し、奴隷とその縁者を蹂躙しても、この飢えは満たされないと思っていた。
「頼む……頼むよぉ……」
だが、この恐怖、この不安に比べれば……。
「居てくれェ……。居てくれるだけでいいんだ……。お願いだよ、誰か、居てくれよォ……」
◇ ◇ ◇
和久井建設本社ビルに救助隊が突入したのは、ダンプが突っ込んでからわずか2時間後のことだった。
だが、数多の重傷者を放置して真っ先に社長室に入った彼らが見たのは、冷えたチェーンソーを胸に置き、苦悶の表情で横たわる痩せこけた老人の姿だった。
干からびた肌は土気色で、髪はほとんど抜け落ちていた。
老人は病院に搬送される途中、救急車の中で、細々とうわごとをつぶやきながら息を引き取った。
その後検死が行われるまで、老人が和久井准二その人であるとは誰も判らなかった。
☆ ☆ ☆
和久井建設株式会社 代表取締役社長 和久井准二:衰弱死
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