第46話 恋愛 ―ラバーズ―
孤高で優雅な獣の王――いや、女王か。
本人は否定するだろうが、海老澤永悟は間違いなく戦闘の天才だった。
私とて元警察官だ。剣道、柔道、空手の段を持ち、犯罪者を相手にした実戦経験もある。それに、人には言えない強味もある。
そんな私が、ついに彼女に一撃も入れることができないまま、アスファルトの上に膝を突くことになった。
そこらの不良が束になったところで、彼女を倒すことはできないだろう。よほど卑劣な手段――例えば人質を盾にするような――を取らない限り。
「さようなら、刑事さん。話せてよかった」
ぐったりと座り込む私を見下ろし、海老澤永悟は白いダンプトラックに乗り込んだ。
躊躇なく私のレンタカーを撥ね飛ばし、車道を驀進していく。
「……」
残ったのは、スクラップと化したレンタカーと、少女1人止めることができない無職の女。
――お姉ちゃん。
わかってる。私は、姉原サダクを止める。私にそんな力がないことも、すべてが無駄で徒労であるとわかっていても。私は、サダクの細い足首にしがみついて、地べたを引きずられながら、それでも彼女を止めるしかないのだ。
私は1台のセダンに近づいた。
運転手はさっきまで私たちを口汚く罵っていた高齢の男性。もっとも、私がナイフを取り出したあたりから貝のように押し黙っているが。
今、彼は私を見まいとしながら、必死にスマートフォンをタップしている。警察を呼ぼうとしているのだろうが、手が震えてうまくいかないようだ。
私は警棒でドアガラスを叩き割り、素手でガラスを引きはがした。
「あーっ! あーっ! あーっ!」
老人は叫びながら車を発進させようとペダルを踏むが、車は一向に進む気配がない。
「踏み間違え。それブレーキ」
「え? あ……」
「この機会に免許証を返納してください」
私は彼の胸倉を掴んで引きずり出し、代わりに運転席にもぐりこんだ。
「さて……」
車を急発進させながら考える。このまま彼女を追うか、それとも――
◇ ◇ ◇
「永悟、君はもう学校に来ないでほしい」
「え……?」
耳元でささやかれた言葉を、すぐに理解できなかった。
「できない。そんなこと……。日和見高校に明を1人になんて……」
「頼むよ」
抗議の声を上げる永悟の口を、明の唇が塞いだ。
「悪いけど、永悟のためじゃないよ。俺のために言ってるんだ」
ベッドの上で、明は永悟の頭を撫でながら、まっすぐに永悟の瞳を見つめてきた。
「……」
たまらず目をそらした先に、先日窓際に飾ったミニ観葉植物があった。マグカップくらいの鉢に植えられたアイビーだ。
「俺はどんなに殴られても痛くないんだ。慣れてるから」
明が、そんなことをまるで何でもないことのようにさらりと話せてしまう現実が悲しすぎて、溢れ出る涙が止まらない。
「でも、永悟が殴られたら、すごく痛いんだ。思い出すんだよ。痛みを」
「明……」
「だから、俺のために学校に来ないでほしい」
「やだ……。そんなこと言われて、ますます明を1人にできるわけないじゃない……」
明の細い体にすがるように抱き着く。
「明は麻痺しちゃってる……。本当は、自分が殴られた時が一番痛いんだよ……。お願いだから1人で全部背負わないで……。明の痛みを私も一緒に――」
「いやだ!」
また唇を唇で塞がれた。
熱い涙が永悟の頬に降り注ぐ。
「永悟が殴られるところを見ると痛いんだ! 苦しいんだ! 知らない男の人たちにいじめられる母さんを思い出すんだ! あの時の痛みなんだ! 大切な人を守れない自分がどうしようもなく許せないんだ!」
たまらず、明の体を抱きしめた。今度は両腕で明を包み込むように。
「頼むよ。俺に、大切な人を守らせてくれ……。永悟を守るためだと思えば、俺はどんなことにも耐えられるから」
永悟の胸の中で子供のように泣きじゃくる明の体は、細くて弱弱しい。でも、その最奥には重い石が鎮座していた。その石は固く滑らかで、内部に膨大な熱を滾らせていた。
明の心に触れた時、永悟はこれまで靄のように不定形だった自分の心も知覚することができた。
不気味で、一時は呪わしいとさえ感じた自分の心を、永悟は初めて肯定することができた。
翌日、海老澤永悟は学校に退学届けを出した。
ちっぽけな正義感で和久井に無謀な戦いを挑み、敗れて逃げ出した腰抜けとして。
すべては、2人しか知らない真実のために。
妹尾明が孤独に戦う意義となるために。そして傷ついた彼を迎え、心身を癒すための家となるために。
アイビーの花言葉は『友情』、そして『永遠の愛』。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
いよいよ姉原サダクの復活が近づいてまいりましたので、お楽しみにしていただければ幸いです。
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今後ともよろしくお願いいたします。




