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第45話 空洞 ―キャヴィティ―

海老澤(えびさわ)永悟(えいご)!」


 私は警棒を伸ばし、彼女のこめかみを目がけて全力で振り抜いた。彼女は上体をわずかに反らして攻撃を(かわ)す。

 すかさず、私は上着に隠し持っていた軍用ナイフで彼女の眼を狙う。

 だが、海老澤永悟はすさまじい胆力と動体視力で私のナイフを捉えた。


「ッ!」


 ナイフを握る私の手を、永悟の手がさらに握る。万力のような握力をかけられ、痛みで本能的に体をよじった瞬間、ショートブーツを履いた足が私の腹にめり込んだ。


 吹っ飛ばされた私の体を受け止めたレンタカーの車体が凹む。


 そびえ立つような長身を除けば、どこを見てもあか抜けた女子大生にしか見えない美女が繰り出すガチの喧嘩殺法。


「ひどいです。いきなり殺しに来るなんて」


 仕方がない。チャンスは今しかないのだから。

 彼女の体が変質し、不死性を手に入れてしまったら、姉原サダクを倒すために誰かを最低1人は犠牲にしなければならなくなる。


 利田(りた)寿美花(すみか)のように。


「解ってるんでしょ? 貴女(あなた)は今、自分自身だけじゃない、この世の誰かを殺そうとしている!」

「別にいいじゃないですか。私も、その誰かも、(あきら)を死に追いやった罪人なんですから」

「罪人?」


 私の中で、黒い感情がくすぶり始める。


「悪いけど、姉原サダクと契約した時点で私は貴女を人間とは見なしていない」

「じゃあ今の私は何ですか? 獣? 化け物?」

「亡者、かな?」


 ナチュラルピンクのリップを引いた唇が、ふっと笑う。

 それを合図に、私たちは互いにひと呼吸で間合いを詰めた。


 ナイフは捨てる。得物は警棒1つに絞り、闇雲に振り回す。


「……」


 だが、永悟は冷静に凶器の軌道を見極めていた。

 数多のフェイントには目もくれず、本命の攻撃だけを確実にさばいていく。


貴女(あなた)、天性の喧嘩屋ね」

「一番嬉しくない誉め言葉です。喧嘩は嫌い。吐き気がする」


 彼女の(てのひら)が私のみぞおちを穿(うが)った。


「ぐっ――」


 肺の空気が一気に押し出され、私はたまらず距離をとった。


「刑事さんの体は冷たいですね。まるで……」


 その先を言わないのは、彼女の捨てきれない優しさなのだろう。

 でも、私とは対照的に熱く火照り、どくどくと脈打つ彼女の体は何よりも雄弁に語っている。


 ――亡者はいったいどちらだ、と。


「亡者で結構。私は、どんな手を使ってでも、貴女と姉原サダクを止める」

「刑事さん……」


 永悟が、私の胸を突いた(てのひら)を見つめる。

 その時私は、彼女に決定的な何かを見透かされた気がした。


「刑事さんは、好きな人の目の前で、大勢の男に裸にされたことがありますか?」




  ◇ ◇ ◇




 時の流れは残酷だった。

 比較的穏やかな中学の3年間はあっという間に過ぎ去り、永悟と(あきら)は高校生になった。


 だが、2人は同じ日和見高校に進学したにも関わらず、互いの距離は急激に疎遠になってしまった。


 後から聞いた話では、妹尾(せのお)真実(まみ)は息子を進学させるために千代田(ちよだ)家を訪れ、千代田青華(せいか)の前で土下座をさせられたらしい。

 青華の夫である純太郎(じゅんたろう)は、明を自分の子と認知していないにも関わらず。


 妹尾母子(おやこ)にとって、理不尽こそ世界の(ことわり)だった。


 そこで出された条件が、明をサッカー部に入部させることだった。

 明を、青華の息子郁郎(いくろう)の召使いとして扱うためだった。


 真実と明はその条件をのんだ。後に事情を知った海老澤信悟(しんご)と永悟の親子も涙を飲み、歯を食いしばって沈黙を決めた。


 そこにあったのは絶望だけではなかったからだ。

 この頃、彼らにはある希望があった。そのためならどんなことでも耐えられるという心の支えがあったのだ。


 海老澤信悟は、海老澤車輌の出張所を町の外に設立しようと画策していた。そこで高校を卒業した永悟と明を雇う算段だった。

 千代田家の威光も、この町の外から見れば所詮はちっぽけな(ともしび)に過ぎない。


 だが、彼らは甘く見ていた。

 山犬の群れを率いるボス犬たちの嗅覚を。


 海老澤の計画は千代田青華に筒抜けとなっていた。彼女はこの話を和久井(わくい)家の当主にして和久井建設の社長である和久井准二(じゅんじ)に流した。

 かねてから、日和見町で商売をしながら和久井の傘下に加わっていない海老澤車輌を快く思っていなかった和久井准二は、早速裏で工作を始めた。


 ある日、海老澤車輌に技術提携と資金援助を申し出る企業が現れた。子供たちのための出張所を作るため、渡りに船と受け入れたのが誤りだった。

 その企業は、裏で和久井とつながっていたのである。

 結局、海老澤車輌は技術だけを吸い取られ、資金援助の話は白紙となった。


 海老澤車輌の経営が傾く一方で、日和見高校では和久井春人(はると)の一党が永悟を挑発するようになった。

 そうやって緊張を高めきったところで、春人は永悟の目の前で明に暴力を振るったのである。


 永悟は、それが罠だと知りながら、激発した。そうするしかないところまで精神が追い詰められていた。

 両親が命がけで守ってきた会社を踏みにじる和久井や千代田への怒り、妹尾明に対する友情らしき燃えるような切ないような想い。そんな激しい感情に塗りつぶされた永悟の魂は――、圧倒的な数の暴力と、卑劣な策謀によって無残に鎮められた。




 運命は残酷だった。

 永悟が長年感じていた、自分の体と心に対する漠然とした違和感。

 それは、最悪の形で永悟の前にその正体を現した。


 和久井春人の居城である野球部の部室。

 全裸にされて天井から吊るされ、全身を散々殴られた永悟に向かって和久井春人は言った。


「お前、明日から奴隷な」


 笑いながら去っていく不良たち。

 彼らにしてみれば、(にわとり)のつつき行為のような、単なる序列付け以上の意味はなかったのかもしれない。

 だが、永悟にとっては、それは加害者たちのまったく意図していない精神的苦痛だった。


 屈辱もある。羞恥もある。だが、それ以上に大きな空洞が永悟の心に穿たれていた。空洞を冷たい風が吹き抜けるような寂寥(せきりょう)を伴う喪失感。絶望とは似て非なる、「奪われた」という感覚。


「ごめん、永悟」


 明に縄を解かれ、体を学ランに包まれるまで、永悟の思考は空洞に支配されていた。


「大したことねぇよ」


 精一杯の強がりだった。声が震え、涙に詰まるのを抑えきれない。


 そんな永悟の大きな体を、明が抱きしめる。


「永悟を守れなくて、ごめん」

「俺のセリフだ、バカ」

「そうじゃない。そうじゃなくて……」


 永悟を抱きしめる腕に力がこもる。

 明の涙が、永悟の顔を濡らしていた。


 熱い涙だった。


 永悟の胸中で吹き荒ぶ冷たい風が、ほんの少しだけ弱まった気がした。


「明、お前……」

「ああ、知ってた。永悟の心が女の子だって。知ってたのに、俺は――ッ!」


 そこには、どんないじめに遭っても決して見せなかった明の顔があった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

いよいよ姉原サダクの復活が近づいてまいりましたので、お楽しみにしていただければ幸いです。


続きが気になるという方は、広告の下にある☆☆☆☆☆より評価をしていただけると嬉しいです。


今後ともよろしくお願いいたします。

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