第41話 痛覚 ―ペイン―
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
幕田誠は人気のない夜の住宅地を必死で逃げ惑っていた。
殴られた頭がズキズキと痛む。脳を侵蝕するような痛みは、そのまま死の恐怖となって幕田の心を苛む。
(どうしてこんなことに!?)
その答えは幕田自身が十二分に理解している。
彼は自分が底辺に落ちないために、他者を陥れることに慣れ切ってしまっていた。
そんな彼は、自分が思っているほど騙されることに慣れていなかった。
――囮になってくれよ。悪いようにはしないから。
そんな紅鶴ヘレンの言葉を鵜呑みにして、実際に殺人鬼に襲われた時、具体的にヘレンたちがどう動くのかを聞かなかった。
今にして思えば、うかつもいいところだ。
だがあの時の幕田は、サンドバッグ地獄からの思わぬ救出による解放感、連れ込まれたカラオケボックスで脅しの写真を撮らさたことによる混乱、その上で提示された殺人鬼を釣る餌になれと強要される恐怖、そして思いもよらなかったヘレンのキスによる恍惚――次々と押し寄せる感情の大波に翻弄され、思考力を完全に奪われていた。
(くそ、あの悪魔!)
今、幕田誠は背後から迫り来る殺人鬼よりも、どこかでこのデス鬼ごっこを観賞しているであろう紅鶴ヘレンの方を呪っていた。
日頃、鍛錬とは無縁な幕田の軟弱な体力はすぐに限界を迎えた。
しかも気が付けば、彼は三方をブロック塀に囲まれた袋小路に追い詰められていた。
積み上げられたゴミ袋からは生ゴミの悪臭が漂っている。
(嘘だろ、俺、こんなところで……)
明滅する古い街灯の下に、黒い影が浮かび上がる。
パーカーをかぶり、体型を隠すゆったりとしたスウェットパンツを履き、手には長い鉄パイプが握られている。
影は、息ひとつ切らしていない。
パーカーの陰になってその顔は見えないはずなのに、幕田はじっと自分を見つめる血走った目の存在をはっきりと感じた。
影が鉄パイプを引きずりながら近づいて来る。
「く、来る、な!」
やけっぱちで手に触れたゴミ袋を振り回す。だが、そんなせめてもの抵抗はあっさりと躱され、代わりに手首を強かに打ち据えられた。
「い、痛、ぇ……」
喉がカラカラに乾いていて、悲鳴すら上手く出てこない。
影が、凶器を振り上げる。
「ひぃ……」
ゴミ袋の山に倒れ込む幕田。本能的に両腕を交差させて頭を守るが、鉄パイプはお構いなしに振り下ろされた。
「ああッ!」
腕から全身に激痛が走る。
「やめ……やめ……! やめ――!」
(死ぬ! 死ぬ! 死ぬ!)
再び振り下ろされる鋼の凶器。
骨の砕けた腕のガードはほとんど役に立たなかった。
「あがぁ!」
幕田の頭から温かいものが噴き出し、冷えた雨となって降り注ぐ。
「やめぇ……やめぇ……!」
本物の殺意。人の心を捨てた者の狂気。
この圧倒的な恐怖の前には、「何をしでかすかわからない」と言われる和久井春人の恐怖など虚仮に過ぎなかった。
だが、止めの一撃が幕田を襲う、その時だった。
カシャ。
激しいフラッシュと共に、乾いた音が響いた。
「はい、殺人の決定的瞬間、いただきました」
はっと振り返る影。
そこには、スマホを構える神保ここあと、金属バットを肩に担ぐ紅鶴ヘレンがいた。
「幕田ごめんな。このGPSアプリ精度悪くってさぁ……」
頭から血を流す幕田を前にヘラヘラと嗤うヘレン。
「こ……この……」
怒りのあまり声も出ない。
しかも、ヘレンもここあも、それきり幕田に対する一切の関心を失っているのがありありと解る。
怒りはあっという間に空しさへと取って代わった。
「紅……鶴……」
幕田に代わり、影が怒りの声を発した。聞き覚えのある女子の声だった。
そんな殺人鬼さえも、ヘレンはさらりと無視して嘲笑う。
「この間はよくもここあを襲ってくれたな。しかもあたしのデコまで割ってくれやがって。それでなくても生理中で乳張って痛ぇってのに、デコまで痛ぇんだぞどうしてくれる?」
「……」
ゆらりと鉄パイプを構える殺人鬼。対するヘレンはポケットから何かを取り出し、無造作に投げた。
それは殺人鬼の足元で破裂し、どぎつい蛍光色の塗料を周囲にまき散らす。
コンビニなどに置かれている、防犯用のカラーボールだった。
「もう逃げられないよ。アンタの負けだ。顔を出せよ、各務野」
「!?」
名前を当てられた瞬間、影の体から憑き物がとれたように殺気が霧散した。
からん、と鉄パイプが地面を転がる。
「どうして……?」
「あたしらが生きてるから」
「え?」
「あの時さ、ここあは腰砕けであたしはデコを割られて顔中血まみれだった。アンタは圧倒的に有利だった。なのにあたしらを殺さなかった。なんでかなって」
ヘレンの人差し指が、つんつんと額の包帯を指す。
「アンタもあたしと同じでさ。痛み止めが切れたら、傷が痛むんじゃねぇの? 松葉杖がねぇとキツいんだろ、足」
「うぅ……」
各務野紗月は観念したように、パーカーと目出し帽を取った。
すかさずここあが写真を撮る。
「犯人が各務野だとしたら、最初に殺されたのが桂木だったのもわかる。親友だったら、簡単に後ろを取れるもんな」
「……もういい」
「次に襲ったのが、ちっこくて可愛いうちのここあ、次がそこのヒョロガリ。何てことはない。アンタは一番襲いやすい奴を真っ先に殺して、あとは自分より弱い奴を――」
「うるさい!」
紗月は叫んだ。
「おかしいだろ! 私らはたまたま見ちゃっただけなのに、それだけで殺されるかもしれないって怯えているのに、何でお前らがヘラヘラ笑っていられるんだよ!」
「何お前? まだあのイカれた刑事の言うこと信じてんの?」
紗月の肩ががくりと落ちた。
「羨ましいよ……、何でも自分に都合よく解釈できるアンタらが……」
「被害者ぶってんじゃねぇよ。親友に殴られた上に裸に向かれて吊るされた桂木の気持ちを考えたら、あたし泣いちゃったよ」
「アンタなんかに……何がわかる……」
紗月の声が詰まり、肩が激しく震え始めた。
「初めは、和久井とアンタと千代田を殺すつもりだったのに……、志津が止めるから……『一緒に逃げよう』なんて言うから……」
ヘレンの鼻が小さくふんと鳴る。
紗月の視線は急激に焦点を失い、独り言のように思考を漏らし続ける。
「わかってる……高校生2人が逃げたところで、生きてなんていけない。夜の街で体売れってか? はは、そんなことしたら、1年もしないで私らはお互いを憎み合うようになって、そしたら捨てられるの私の方じゃん……」
各務野紗月の涙の告白を、紅鶴ヘレンは「はいはい、そうだね」と聞き流す。
「とりあえず、あたしのデコの治療費2万、ここあの精神的苦痛に3万、合わせて5万な」
「は?」
「今は財布なんか持ってねぇだろうから、明日の昼まで。よろ」
この女は何を言っているのだろう?
この瞬間、殺人鬼各務野紗月と重傷者幕田誠の心は一つになっていた。
「んだよ、そんな目で見んなよ照れるだろ。あたしはオトシマエさえつけてくれればそれでいいんだ。アンタがこの先誰を何人殺そうが興味無ぇ」
「ふざけんなぁ!」
紗月は立ち上がる。だが、鉄パイプに手を伸ばしたところで、その動きはピタリと止まってしまった。
「もう無理だよ」
ヘレンの言葉を証明するように、紗月の手は凶器を取り戻せないまま、ゆっくりと下がっていった。
「人間じゃない……、紅鶴、あんた、人間じゃないよ……」
「親友を殺した奴に言われたくない」
「違う……そんなつもりじゃなかった……私は……志津……ごめんね……私が間違ってた……うん、そうだよね……あんな奴ら殺しても、何の償いにもならないよね……うん、2人で逃げよう……2人なら……私たち2人なら……きっと……」
操り人形の糸が切れたように座り込む各務野紗月。そんな彼女を、紅鶴ヘレンと神保ここあのガラス玉のような瞳が見下ろしている。
「なぁんだ。遊ぶ前に壊れちゃった」
「桂木がいないと何もできないザコ精神のクセに何をトチ狂ったんだか」
ヘレンとここあがその場を去った後、各務野紗月と幕田誠は巡回中の警察官によって発見された。
各務野紗月は傷害の現行犯で逮捕されたのち、桂木志津殺害を自供したため殺人罪で再逮捕された。だが、取り調べ中に精神に異常をきたしていることが確認され、神経科の病棟へ身柄を移されることとなった。
幕田誠は一命をとりとめたものの、脳内出血により左半身の運動機能と言語機能に後遺症が残った。
この一連の事件の中で、警察の調書に紅鶴ヘレンと神保ここあの名前は単なる被害者としてしか記されていない。
だがここで警察との関りを断ってしまったことが、後に2人にとって裏目に出ることとなる。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
陰鬱な展開が続いておりますが、姉原サダクの復活も近い状態ですので、お楽しみにしていただければ幸いです。
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今後ともよろしくお願いいたします。