第4話 底辺 ―ヴィクティム―
学校と言う名の牢獄から解放されて、僕は貴重なひと時を過ごしていた。
スマホで動画を見るこの時だけは、辛い現実を忘れることができる。
「冬幸ー! ちょっと降りてきてー!」
だが、僕の時間は母親の無遠慮な声で中断された。
無視すると面倒なので、僕は仕方なく階段を降りる。
「お友達」
母さんは能天気に笑った。僕に友達面してくるなんて、どうせろくなヤツじゃない。
「ごめんなさい。こんな時間に」
だが、僕の予想に反して、玄関に立っていたのは白い肌に桜色の微笑みを浮かべた姉原さんだった。
「私、隣に引っ越してきたの。だからご挨拶に」
「あ、うん……」
つまらないものですが、と差し出されたタオルセットを受け取りながら、僕はただ呆けていた。
あれ? でもうちの隣は――
「久遠さん」
僕の疑問を読んでいたかのように、彼女は言った。
「え?」
「お隣の久遠さんのお家に下宿してるの」
「あ、そっか、そうなんだ」
確かに、それなら納得がいく。
さらに言えば、久遠家の娘である久遠燕もうちのクラスの生徒なのだが、今日は欠席していた。
今日、姉原さんが座った席が久遠の席である。
「えっ、えと……」
言葉が上手く出てこない。
「私と久遠さん? えっと、はとこ……だったかな? まぁ、遠い親戚」
今までお互いに存在すら知らなかったんだ、と姉原さんは苦笑した。
そのあたりの事情に興味があると言えばあるが、慣れない会話をしてまで聞きたいかと言えばそれほどでもない。
妙な沈黙。だから会話は苦手だ。
「冬幸、姉原さんを送ってあげなさい」
そんな僕たちに助け舟を出したのは母さんだった。
「いえ、お隣ですから」
「いいからいいから」
母さんは僕の背中をどすどすと突いて、無理やり三和土に押し出した。
「何かごめん。母さん強引で」
「いえいえ」
姉原さんは両手をひらひらと振った。彼女の口からは、ほのかに果汁の香りがした。
「カラオケ、行ったの?」
「ええ。ちょっとバスケ部の見学をして、それからみんなで」
彼女がどんな歌を歌ったのか、気になるところだったが、久遠家の玄関はもう目の前だった。
「それじゃ……」
彼女がクラスの女子に受け入れられたのなら、明日か明後日には、もう彼女が僕に話しかけてくることはないだろう。
だったら、初めから深入りしない方が傷は浅く済む。
「米田さん」
でも、
「せっかくだから、1か所案内してほしい所があるんだけど……」
姉原さんの方がそれを許してくれなかった。
◇ ◇ ◇
「ここがサンハラ神社」
姉原さんに頼まれた案内先は、この町の古い神社だった。
「――の、入り口」
山沿いの道路わきに、無造作に現れる朽ちた木の階段。その先は宵闇と木々の影に覆われている。
「今日はもう暗いから、お参りは明日にした方がいいんじゃないかな」
ここに来るまでに、僕はだいぶ姉原さんと話ができるようになっていた。
「大丈夫。夜目は利く方だから」
そう言って、姉原さんは照明のない山道の階段を躊躇いなく昇って行った。
正直、僕はもう帰りたかったけど、ここでもし姉原さんに何かあったら母さんが面倒くさい。
仕方なく姉原さんに付いていくことにした。
「はぁ、はぁ……」
足場の悪い階段は100段以上ある。一方で観光地のように手すりやスロープなんて気の利いたものはない。
でも、姉原さんは息を切らさず、それどころかこの残暑の中で汗の一滴もかいていないようだった。
「見えてきたかな?」
暗闇の中にぼうっと浮かぶ、灰色の鳥居。
それはまるで、冥界へつながる門のように見えた。
「お疲れ様」
両ひざに手を付き、肩で息をする僕の背中を、彼女は優しく撫でてくれた。
汗でびっしょりと濡れた背中を、嫌な顔ひとつせず。
「じゃあ、行こっか」
参拝のマナーとかはよくわからないが、姉原さんが鳥居のど真ん中を悠々と通ろうとしたのは違う気がする。
そのせいではないだろうが、その時、姉原さんの身体にバチッと青白い光が弾けた。
「あら、静電気?」
姉原さんはきょとんと小首を傾げる。
「大丈夫? 結構おっきな音だったけど」
「ええ。大丈夫」
でもさすがに懲りたのか、彼女は参道の端を行くことにしたようだ。今度は静電気は起こらなかった。
みすぼらしい小さな拝殿の前で、姉原さんはお賽銭箱にお金を入れると、ぱんぱんと柏手を打った。
暗いせいで確かではないが、彼女が入れたのは1万円札ではなかっただろうか。
手を合わせたまま、姉原さんは頭を垂れる。そして小さな声で、でもはっきりと
「短い間ですがお世話になります」
と言った。
「姉原さんって、信じるの? こういうの」
「?」
「その、神様とかそういうの」
「う~ん、どうだろ? でも、住む土地には敬意を払えって教わったから」
僕は神様なんて信じない。前世とか輪廻とか死後の世界とか、そんなものは全てまやかしだと思っている。
魂なんて所詮は神経を流れる電気信号にすぎない。
全知の神なんて、結局のところ他に何の希望もないその時代の社会的弱者が憂さ晴らしのために生み出した偶像だ。
そのことを、僕は事実として知っている。
「いいね、姉原さんは」
だからだろうか。
僕自身意図せずに、そんな言葉が口をついた。
「姉原さんは余裕があって」
それは、僕の貴重な安息の時間を茶番に費やされたことへのいら立ちだけではなかった。
居もしない全知の神や八百万の神々への反発とか。
能天気な親たちや大人たちへの反発とか。
僕はこんなにつらいのに、どうして誰も助けてくれないのか。
誰かが、ほんの少しでも、僕のことを見てくれていれば。
胸の奥底に堆積していた感情の澱が急激に喉元までこみ上げてきて、気が付いたら僕は泣いていた。
「米田さん……」
そんな、迷子の子供のようにしゃくりあげる僕を、姉原さんは包み込むように抱いてくれた。
また、背中を優しく撫でられる。
「何か、つらいことがあるのかな」
姉原さんが僕に告げた言葉はそれだけだった。
でも、今の僕にはそれだけで温かい光に心が照らされるようだった。
軽々しい慰めも、無意味な助言も要らない。
ただ、僕の側で、寄り添ってくれるだけでよかったのだ。
――ふっと、姉原さんの口元からまた果汁の臭いがした。
それは、彼女がクラスの女子と――紅鶴たちと――カラオケに行ったという証。
突然、心臓を締め上げるような焦燥が僕を襲った。
明日にはもう、姉原さんのこの温もりは消えてしまうだろう。
あのクラスの、あいつらの邪悪な意志に飲み込まれて、染められて。
今しかないと思った。
姉原さんの手を掴むのは、彼女との確かな絆を結ぶのは、今しかなかった。
「姉原さん!」
僕が姉原さんへ救いを求める第一歩を踏み出そうとしたその時だった。
「ひっ!?」
背後で、小さな悲鳴と草木の擦れ合う音がした。