第32話 2-A その2 ―ロスト・ラムズ2―
自宅に備えつけられているトレーニングマシンでかいた汗を熱いシャワーで洗い流し、千代田育郎はプロテイン入り低脂肪乳を片手にネットニュースに目を通した。
女子生徒Sを含め、クラスメイト5人の命が奪われた日和見町高校生連続殺傷事件。
その名は早くも最新記事の項目から消え去っていた。
――新情報さえ与えなければ、鳥頭な大衆はすぐに飽きる。
この町の現首長である父の言葉は、わずか2週間で証明された。
(オヤジが凄いんじゃない)
ほのかに甘いプロテイン入りミルクを飲みながら、千代田育郎は考える。
(民衆がバカなんだ)
育郎はサイトのトップページは軽く流し見しただけで、すぐに「国際」のリンクをクリックした。
「育郎さん」
そこへ、ノックもせずに入って来る1人の女性。
「母さん。……ジョギングしてたの?」
千代田青華。育郎の実母である。
「ええ。久しぶりに静かに走れたわ」
豊満な胸をピタリと覆うタンクトップ、張りを失わない腰と太もものラインはスパッツでさらに強調され、ショートパンツで申し訳程度に隠されている。
むき出しの胴回りは健康的に引き締められ、うっすらとのった脂肪が色気を添える。
息子の前で、青華は束ねていた髪を解き、タンクトップに手を突っ込んでスポーツブラだけを抜き取った。
「育郎さんは何を見てるの?」
育郎の背中に、柔らかい肉の重みがかかる。
ディスプレイをのぞき込む母の横顔を、育郎はそっと盗み見た。
姉と言われても違和感のない、若く美しい横顔。
「偉いわね、世界に目を向けて」
「……子供のいざこざなんかに構ってられないから」
姉原サダク。
あの女性刑事は怨霊とか何とか妄言を言っていたが、終わってしまえば何てことはない。
アメリカでは定期的に現れる、学校で銃を乱射して自殺するアレと同じだった。
結局のところ、社会の底辺に蠢く弱者が、己の狭い世界の中で培った自分専用ご都合主義(弱者はそれを道理や正義と名付けている)を、幼稚ゆえの浅慮と忍耐力の欠如から実行に移してしまった、憐れむべき小事件に過ぎなかった。
(怨霊なんて、何をバカな)
この日本で、そんな惨劇が起こるはずがないという先入観と、起きてほしくないという愚かな願望がオカルティックな結論を導き出したに違いない。
「世界の動きに比べたら、全然大したことないよ」
育郎の頬に、熱っぽい唇が押し当てられる。
「素敵よ。私の育郎さん」
一切贅肉のない育郎の身体を、青華の指が愛おし気に撫でまわす。
「あなたはきっと、お父様を超えるわ」
部屋を出て行く母の後ろ姿を、育郎はじっと見つめていた。その姿がドアの向こうに消えても、彼はしばらく動けないでいた。
そんな彼の視界に、無造作に捨て置かれたスポーツブラが映った。
「母さ――」
忘れ物だよ、と言いかけて、育郎は言葉を唾液と共に飲み込んだ。
ブラジャーを手に取る。
母の汗と温もりがこもっている。
「……」
育郎は布地に鼻を押し当てると、ゆっくり、深く息を吸いこんだ。
◇ ◇ ◇
「あっ」
小さな悲鳴と共に、からん、と乾いた音が聞こえた。
「紗月!?」
桂木志津は振り返ると、アスファルトの上に座り込む親友の元へ駆け付けた。
「大丈夫?」
「ごめん。うっかりしてた」
各務野紗月は志津の肩を借りてどうにか立ち上がる。
「待ってて」
志津は周囲を見回す。
銀色のスチール製の松葉杖は、待機しているバスの下に入り込んでいた。志津は仕方なく運転手に事情を話し、何とか松葉杖を回収した。
「……ごめん」
しおらしく謝る紗月。そんな彼女に、志津は精いっぱい笑顔を作って首を振った。
「気にしないで。乗っちゃお、バス」
「いいの? 志津、トイレに行きたいんじゃなかった?」
「あっはは」
笑って誤魔化す。もうバスが出る時間だ。これを逃したら、次の便まで1時間以上待たなければならなくなる。
(このくらい我慢しなくちゃ)
紗月の脚が治るまでの辛抱だ。
それに彼女のケガが治るまでに、親友の信頼を取り戻さなければならない。
姉原サダクによって馬場信暁と蒲生一真が惨殺されたあの時、恐怖で動けなくなっていた志津の手を引いてくれたのは親友の紗月だった。
2人はいつも一緒だった。部活も小学生の頃から同じ女子バスケットボール部だ。
筋力も敏捷性も志津の方が上だったが、ここ一番の度胸と判断力は紗月には敵わなかった。
そんな紗月に、志津は密かに嫉妬心と劣等感を抱いていた。
各務野紗月には『華』がある。
彼女の土壇場の粘り強さ。冷静な機転から生み出される逆転劇。観客はもちろん試合中の選手たちさえも魅了し、時には幸運さえ呼び込んでしまうほどの輝きとしか言い表せない何か。
努力では決して手に入れることのできない才能。
だからあの時も。
間抜け面をさらして呆然と立っていたのは志津の方で、そんな彼女の手を引いて前を走ろうとしていたのは紗月の方だった。
だが、混乱と狂騒の中で、志津にとって思わぬ事態が起こる。
紗月が転んだのだ。
第三者から見れば驚くに値しないことだろう。
狭い出入り口に殺到した数十人の生徒たち。彼らは皆、恐怖で冷静さを失っている。
その渦中に居れば、転倒は誰にだって起こり得る。
だが、志津にとっては違った。
ピンチになればなるほど思考が研ぎ澄まされ、己の実力以上の能力を引き出すあの紗月が、この状況で転ぶなどあり得なかった。
あってはならないことだった。
神に選ばれた存在だったはずの紗月が、自分の足元で無様に転がっているなんて。
その時、志津の心を覆った闇は、心の支えを失った恐怖だったのだろうか? それとも、にわかに燃え上がった嫉妬の黒い焔だったのだろうか?
その後のことを、志津はよく憶えていない。
気が付いた時、彼女は校門から飛び出し、両ひざに手を付いて荒い呼吸をしていた。
そして、足の裏に何かを踏み砕いたような嫌な感触と、鼓膜に親友の痛々しい悲鳴がこびりついていた。
幸い、紗月の脚は脛の骨に1か所ヒビが入っていただけだった。どす黒い内出血も1週間で消えた。
一方で、紗月が志津を見る目にかすかに暗い影が宿り、それは今も消えていない気がした。
(ごめん、紗月)
確かに、親友の才能を羨んではいた。
でも、紗月を憎んだことは一度もない。
もし紗月が自分の及ばない高みに進もうとするのなら、自分はそれを精いっぱい応援しようと心に決めていたのだ。
(もし、次があるのなら――)
志津は恐る恐る隣に座る紗月の手に自分の手を重ねる。
「……」
紗月はそれをちらりと見て、また窓の外に目線を戻した。添えられた手を振りほどこうとはしなかった。
(もう二度と紗月を見捨てたりしない)
襲い来る尿意の波に耐えながら、桂木志津はそう決意していた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
筆者としても早くサダクを大暴れさせてあげたいのですが、今しばらく2-Aの生徒たちにお付き合いいただければ幸いです。
続きが気になるという方は、広告の下にある☆☆☆☆☆より評価をしていただけると嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。




