第30話 偶像 ―アイドル―
「それ、お茶ですか?」
利田寿美花の家から出て来た私を出迎えた銭丸刑事の第一声がこれだった。
「ええ」
私は髪から滴る番茶の雫をハンカチでふき取った。
「だから僕も一緒に行くって言ったのに」
「……」
顔にお茶をかけられるくらい覚悟の上だ。
私は彼女を利用した。母性という彼女のアイデンティティを。
久遠燕がサダクを呼び出したあの時、私が寿美花に「決して教室に近づくな」と言ったのは本心だ。
言葉以上の意味は無い。
彼女に姉原サダクの正体を告げたのも、彼女なら動けない私に代わってうまく教室の生徒たちを逃がしてくれるのではないかと思ったからだ。
サダクが顕現した以上、犠牲は避けられない。だからこそ犠牲者を最小限に抑えたい。
あの時の私は、心の底からそう思っていたはずだ。
――光の無い瞳が私を見ている。
私は、自分の心が解らない。
クラスメイトをまるで我が子のように愛している利田寿美花に、「教室は危険だ」と言えば彼女は遅かれ早かれ教室に向かうと計算していたのではないか?
彼女なら、クラスメイトを逃がした後は自己犠牲の精神でサダクを足止めする道を選ぶと確信していたのではないか?
サダクが寿美花に乗り移った瞬間にその脳を破壊する。
私は早い段階でこの戦略を組み立てていたのでないか?
否。全ては結果だ。
私の心なんてどうでもいい。
私は、姉原サダクを倒すために、利田寿美花を計画的に利用し、生命を奪った。それが全てだ。
私は彼女の遺族に殺されても文句は言えない。
(殺してもらえるなら、殺されたい)
「由芽依さん?」
私は頭を振って纏わり付く思考を振り払う。
利田寿美花に対し罪悪感があるのなら、私のするべきは彼女の守ろうとした者たちを守ることだ。
車に戻った私は、銭丸刑事から借りた利田寿美花の資料を再読する。
添付されている彼女の写真は、どれも穏やかに微笑んでいる。サダクのそれとは明らかに違う、画像からでもはっきりと伝わる血と情の通った温かい笑顔。
――返してくれ! 寿美花の優しい笑顔を返してくれよォ!
寿美花の父親と、彼女とは10歳年が離れているという兄の言葉がよみがえる。
寿美花の母は、彼女が幼い頃に離婚して以来絶縁状態となっている。
祖父の代から受け継いだ庭付きの木造家屋に、父と兄との3人暮らし。
庭は綺麗に手入れされ、家の中も数日前までは清掃が行き届いていたのがうかがえた。
彼女の遺影に手を合わせる私を激しく罵る父兄の言葉より、私の心を痛めつけたのは部屋の隅に転がっていた毒々しいピンク色をした大人の玩具だった。
来客があると言うのに、片付け忘れるほど生活に密着している性具。
寿美花がいなくなってから乱れ始めた家の中。
利田寿美花の、年齢にそぐわない異常とも言える博愛の原点がそこにあった。
聖母の偶像に誰よりも縋っていたのは、彼女自身だったのではなかったか。
死者の気持ちはもう誰にもわからない。
でも、あえて憶測するなら、彼女が死の間際に告げた「ありがとう」の言葉は、私にではなく、姉原サダクに向けられていたのではないだろうか?
生の苦しみから解放し、聖母の役割を全うさせてくれた姉原サダクに。
私はファイルを閉じた。
日和見高校の理科室で発見された遺体から採取されたDNAは4人分。
久遠燕、蒲生一真、利田寿美花、そして、決して名前が明らかになることのない小さな遺体。
この世に本当に神がいるのなら、私は1つだけ祈りたい。
寿美花が、最期までこの事実に気付いていなかったことを。
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